女子陸上界のエース・田中希実を支えたランナー一家の絆。娘の才能を見守った父と歩んだ独自路線

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2024.01.25

1000m、1500m、3000m、5000mと、陸上4種目で日本記録を持つ田中希実。その躍進をコーチとして支えてきたのは、自身も元実業団の選手だった父・健智(かつとし)さんだ。市民ランナーだった母・千洋さんを2度の北海道マラソン優勝に導いた指導力を武器に、高校卒業後から本格的にコーチとしてサポート。「日本陸上界のシステムから外れていた」という独自の練習スタイルで、その底知れないポテンシャルを引き出してきた。昨年4月にはプロ転向を宣言し、下半期は5000mで2度の記録更新を実現。圧倒的な強さで陸上界に旋風を巻き起こし、パリ五輪でもさらなる飛躍が期待される。その強さの原点について、父・健智さんに話を聞いた。

(インタビュー・構成=松原渓[REAL SPORTS編集部]、写真提供=田中家)

「同じ道を歩んでもらいたいとは思っていなかった」

――希実選手は、元実業団ランナーの健智さんと、市民ランナーの母・千洋さんの間に生まれて環境と才能にも恵まれていたと思いますが、小さい頃は、どんなふうに接していたのですか?

田中:本人の人生なので、私たちと同じ道を歩んでもらいたいとは思っていなかったです。本人が感じるままに大きくなって将来やりたいことに手が届けばいいな、という思いで接していました。

――お2人とも2時間30分を切る記録を持つ実力派ランナーですが、大会の時などは希実さんも同伴していたんですか?

田中:そうです。家内が市民ランナーとして全国の大会に出ていたので、同行してついていったり、地元のマラソン大会のロードレースに小学生の部で一緒に参加するなど、同じ大会に参加しながら時間を共有していました。

――今でも、家族で大会に出場する機会はあるのですか?

田中:希実が3歳ぐらいの頃から、毎年夏場に子どもたちの夏休みと私たちの仕事の休暇を利用して、岐阜県の御嶽山で夏合宿をしていて、それは今も続いています。妹が大学の陸上部に入ってからはそのタイミングで一緒に行くことはできなくなりましたが、できる限り家族が揃う場は大切にしています。

――5歳年下の希空(のあ)さんも、ご両親が陸上を勧めたわけではなく、自然に始められたのですか?

田中:そうですね。妹にも陸上競技の世界に入ることを強く勧めたことはないのですが、中学、高校、そして現在も大学で陸上部に所属して、長距離に取り組んでいます。彼女は小さい頃から筋力や体幹が強くて、元々の身体能力は希実よりも高く、資質としてはいいものを持っています。ただ、陸上は性格も含めていろんな要素が関係し合うので、トータルバランスが大切ですけれどね。

「自分の限界を決めない」強さと、背中合わせの“波”

――様々な要素のトータルバランスから、希実さんの場合は何が一番の強さの源になったのでしょうか。

田中:諦めが悪くて、自分の限界を決めていない。悪く言えば、頑固で偏屈なところでしょうか(笑)。一度トライしようと思うとそれが実現するまでチャレンジし続ける粘り強さがあり、陸上競技に限ったことではなく、何に対しても最後まで諦めないでやり続けることができます。私たち親がそうやって育てたわけではなく、それは根っこから本人が持っていた部分だと思います。

――希実さんも、ご自身の性格について「負けずぎらいで、あまのじゃく」と公言されていますね(笑)。一度決めたことを最後まで貫く芯の強さは、ランナーとして結果を残してきた健智さんと千洋さんの目から見ても特別な才能だったのですね。

田中:そうだと思います。陸上の長距離は、欧米の選手やアフリカの選手が席巻していて、「日本人には不向き」と言われることもあります。いわゆる“忍耐”で走っていた頃のマラソンは日本人も強かったと思いますが、身体能力やスピード勝負になった時には、「日本人には難しいね」と言われてしまう。そういう声に対しても、「ここまでしかできない」という壁を作らずにきていることは、彼女の良さであり、強みだと思います。

――性格的な面では、どちらかというと千洋さんよりも、健智さんに似ているのですか?

田中:「あまのじゃくで負けず嫌い」という部分は、私の方に似ています(笑)。家内は現実主義な部分があり、「今ある環境で最大限の努力をすればいい」と考える。だから、結果が出なかった時にくよくよ考えたり、その思いを誰かにぶつけることなく、すべてを受け止めて次に向かえるんです。ただ、希実の場合はその悔しさをずっと引きずってしまう。その執念深さが、これまで苦しみながら結果を残せてきた理由だと思います。ただ、それが良い方に転ぶか転ばないかは、背中合わせでもあります。

――2023年の下半期は、日本選手権で1500mと5000mで2年連続2冠、5000mでは、8月の世界陸上と9月のダイヤモンドリーグで日本記録を2度更新するなど、記録づくめでした。その中でも大きな葛藤はあったのですか?

田中:大会の成績を表面的に見たら順調にいっているように見えるとは思うんですが、裏では葛藤や悩みを抱えていました。周りから見るとそんなに大きな躓(つまず)きに見えないことも、本人にとっては大きな失敗に感じていることがあります。それが表面化したのが世界陸上でした。1500m準決勝は最下位で敗退しましたが、一方で5000mの予選では日本記録、決勝は8位入賞。そのように両極端な結果が出たのは、彼女自身の弱さの現れでした。私はコーチとして、その極端に現れる波を取り除こうと取り組んできたのですが、それが表面化してしまったのがあの大会だったと思います。

コーチ就任依頼は本人から。「日本陸上界のシステムから外れていた」

――希実さんは大学1年生の時に健智さんにコーチを依頼した理由について「両親の変わった練習環境を見ていたから」と後に語っていますが、どんなことが“変わっていた”のですか?

田中:私たち2人が、日本陸上界のシステムから外れていたところが大きいと思います。家内は30代前半の頃にマラソンで2時間30分を切っていたので、当時の実業団でも十分に通用していたと思います。それでも、あえて実業団に所属せず、私と2人で独自路線で取り組んでいました。

 私たちは、練習環境や費用面は「自分たちで作るもの」と考えていて、活動資金は自分たちの仕事で捻出していたんです。私が独立してランニングビジネスを始めたのも、合宿や遠征の費用を捻出するためでした。その仕事で稼いだ範囲内で、時間も工夫して作り、限られた時間の中で無駄を省いて必要なものを取り入れていきました。時間とお金が潤沢にあって、なんとなく取り組んでしまうよりも、「お金も時間もこれだけしかない中でどうしたら結果が出せるか?」と考える集中型の練習法でした。海外の練習のスタイルに近いのですが、そこからいろいろな発想が生まれてきたんです。

――具体的には、練習でどんなことを大切にされていたのですか?

田中:オーソドックスな距離走やインターバルトレーニング、ペース走など、いろいろなメニューがありますが、気を付けていたのは、「ただ時間があるから長くやってしまう」とか、練習会場まで走って、それを1日の距離に入れて「1カ月でこれだけ走れた」として満足してしまうことです。逆に、一つ一つの練習の意味を理解して、「集中してこれだけのことができたのだから、自信を持ってレースに臨もう」と思える方が結果的にはいいですし、時間も有効に使えます。そういうやり方が、小さい頃から見てきた希実にも伝わっていたのだと思います。

プロ転向で開けた世界「進化しながら成長していく」

――希実さんと共通点が多い健智さんからのアドバイスと、ある意味対照的な千洋さんからのアドバイスの両方をもらえることで、希実選手にとっては視野を広げるきっかけになったのでしょうか。

田中:2人の考え方やアドバイスは伝えていますけれど、その意見が希実自身と噛み合うか、噛み合わないかで結果が左右されてきた部分はあると思います。去年の4月まで、実業団の枠やクラブチームで、会社のスタッフにサポートしていただきながら活動していたのですが、4月以降は環境を変えて、プロ活動を始めました(*)。

 それによって、家族での取り組みがメインになりました。家族だからこそ風通しがいいのではないかと思われるかもしれませんが、風通しが良すぎるがゆえに、それぞれがストレートに思いの丈をぶつけ合うので、それがいい方向に進んだ場合は大きな力を発揮しますが、方向がぶつかり合ってしまったらどうしようもない結果になってしまう。その苦しさはあったと思います。私たちの言葉を素直に受け止めることができた時はうまくいくだろうなぁと思うのですが、ただぶつかり合った時には、逆の結果が出てしまっていることが多いです。

(*)2023年4月に所属していた豊田自動織機を退社し、ニューバランスに所属しながらプロとして活動することを発表した。

――希実さん自身の強い信念があるからこそ、ぶつかってしまうのですね。

田中:そうですね。明確な主張がありますし、親の意見だからこそ素直に聞き取れない部分もあると思います。じっくり聞いたら伝わるかもしれなかったり、第三者や他者が同じことを言った時は、相手がどう思って、その言葉にどんな意味が含まれているのかを想像して、自分なりに解釈してみようと考えると思うんです。普段はそうやってスッと腑に落ちることでも、親子だと抗ってしまったり、言葉をストレートに捉えてぶつかってしまうことがある。それはお互いさまですが、難しいところだと思います。

――そういう時は、どのように落としどころを見つけるのですか?

田中:世界陸上の時は、中学校からお世話になっているトレーナーさんがマネージャーとしてついてきてくれたので、その方が間に入ってくれたことで良い方向に向かいました。敗退した1500m準決勝が終わった後、私たちの言葉の仲介役として入ってくれることによって、自分たちの言葉も腑に落ちるようになったんです。

 以前は一人で戦っている部分が前面に出過ぎていたのですが、環境の変化もあり、昨年後半は「一人では戦えない」ということを受け止められるようになったのは良い変化だったと思います。

――プロ転向によって、心境の変化も大きかったのですね。健智さんご自身は、希実さんに接する中で、どのような手応えを得た1年だったのでしょうか。

田中:プロになったら、自分ともさらに向き合わないといけないですから、最初は希実も未知の世界に飛び込んだ焦りや不安があったと思います。それまでチームで活動していた仲間も、プロになることで離れてしまい、別のチームに入ってライバルになった方もいます。ただ、自分たちに寄り添って残ってくれた人もいるし、新しく加わってくれた仲間もいるので。スクラップ・アンド・ビルドじゃないですけど、元々あったものを壊して新たに構築し直した結果が下半期の結果につながったのかなと。そこで、やっと「一人では戦えない」ことを再確認できて、彼女自身がみんなで同じ方向を向くことを意識できるようになったと思います。

 まだそこを完全に自分でものにできてないという部分では、もどかしく思っているのではないでしょうか。ただ、一気に変わるのは難しいので、少しずつ、お互いが成長しながら進んでいったらいいのかなと思います。ちょっと普通の親子関係とは違うかもしれませんが、それが、幼少期からずっと続いてきた、田中家のスタンスなんです。

【連載中編】田中希実がトラック種目の先に見据えるマラソン出場。父と積み上げた逆算の発想「まだマラソンをやるのは早い」

【連載後編】読書家ランナー・田中希実の思考力とケニア合宿で見つけた原点。父・健智さんが期待する「想像もつかない結末」

<了>

[連載:最強アスリートの親たち]阿部兄妹はなぜ最強になったのか?「柔道を知らなかった」両親が考え抜いた頂点へのサポート

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[PROFILE]
田中希実(たなか・のぞみ)
1999年9月4日生まれ、兵庫県出身。女子1000m、女子1500m、女子3000m、女子5000mの日本記録保持者。西脇工業高校、同志社大学卒業後、豊田自動織機を経て、2023年4月よりプロアスリートに転向。東京2020オリンピックでは、女子1500mで日本人初の決勝進出を果たし8位入賞。2023年4月からプロに転向し、8月の世界選手権では5000mで日本記録を更新し、日本人として26年ぶりとなる8位入賞。9月のダイヤモンドリーグで5000mの日本記録をさらに更新した。

[PROFILE]
田中健智(たなか・かつとし)
1970年11月19日生まれ、兵庫県出身。三木東高で陸上を始め、卒業後は川崎重工に在籍。3000メートル障害で全日本実業団選手権入賞経験あり。25歳で引退後は兵庫県小野市に戻り、仕事と並行して、妻・千洋さんのマラソンをサポート。豊田自動織機TCのコーチをへて、現在はランニングクラブ「ATHTRACK株式会社」を経営しながら娘・希実のコーチを務める。

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