トッティと日本、知られざる4つの秘話。内気な少年時代の記憶、人生初の海外、奇跡と悪夢…

Career
2020.01.31

2月に日本でも刊行予定の『フランチェスコ・トッティ自伝』には、「日本」というキーワードが何度か登場する。元ASローマ所属の日本人選手・中田英寿とのポジション争いをはじめとして、フランチェスコ・トッティの人生に少なからず影響を与えた「日本」との関わり合いを紹介する。

(文=沖山ナオミ、写真=Getty Images)

お気に入のテレビ番組は『キャプテン翼』

フランチェスコ・トッティは自伝のなかで、子どもの頃、内気で怖がりだったことを明かしている。一人で家で留守番するのは大の苦手。ちょっとした物音が聞こえるだけで「泥棒が入ったのではないか」と怯え、毛布に潜り込んでいたそうだ。

そんなとき、彼を助けたのはテレビ。ボリュームをマックスにして恐怖心と戦いながら母親の帰りを待っていた。当然彼はテレビっ子になったわけだが、なかでもイタリアで『ホーリー&ベンジ』というタイトルで親しまれている『キャプテン翼』は大のお気に入りだった。「子どもの頃、この日本のサッカー少年のアニメに夢中にならなかったやつはいない」と語っている。

トッティ少年は物心ついた頃から、近所の仲間たちと夢中になってボールで遊んだ。当時から飛び抜けた才能を見せていた彼は、おそらく『キャプテン翼』の主人公、翼になりきって一層テクニックを磨いたことだろう。「遊びは、テクニックや才能、ピッチで生き残る能力を磨く上で、他と比べ物にならないほど効果的なんだ」と、子ども時代のボール遊びこそが、プロとして活躍する上で重要な基礎になると彼は説いている。

実際、トッティは、プロになってから、試合の重要な場面で子どもの頃の自分に戻ることがあるという。子ども時代遊んでいた感覚でプレーし、それが決定打につながった様子を自伝で明かしている。数々のスーパープレーが生まれた陰に『キャプテン翼』の存在があることは確かだ。

初めての海外遠征先は日本

ローマが世界の中心。ローマ中心に世界が回っていると思っているトッティ。そんな内弁慶な彼の初海外の渡航先はなんと極東の地、日本だった! 1993年8月、日本開催FIFA U-17世界選手権(現・FIFA U-17ワールドカップ)に招集されたのだ。

「人生で最初のビッグトーナメントに招集されたが、正直なところ、あまり行きたくなかったんだ。連絡がきたときはトルヴァイアニカのビーチで仲間たちと過ごしていた。すでにASローマでデビューしていたから、バカンスの地でもてはやされて楽しくてしょうがなかったんだ。イタリア国外に行くのが初めてだったというのも気が乗らない理由だった」と明かしている。

猛暑のなか、公式スーツを着て汗だくになって辛かったこともあるようだが、家を出るときは母が泣き出し、本人もローマの空港に着いたときは「涙も枯れていた」という。まるで宇宙に旅立つかのような親子のリアクションではないか。

このときイタリア代表は日本と同じグループA。3試合とも神戸で開催された。8月22日のメキシコ戦は1-2で破れたものの、トッティは25mのスーパーゴールを挙げている。これがこの大会での唯一イタリアの得点であり、トッティにとっては記念すべきアンダー世代の世界大会初得点となった。

続いて26日の日本戦はスコアレスドロー。ちなみにこの試合、日本代表先発メンバーには宮本恒靖、戸田和幸、松田直樹、イタリア代表にはジャンルイジ・ブッフォン、エウゼビオ・ディ・フランチェスコが含まれている。のちにASローマのチームメイトとなる中田英寿とトッティは両チームのベンチを温めていた。

最後のガーナ戦は0-4で完敗。日本は2位で予選突破したが、イタリアは2敗1分けで敗退した。初の海外遠征はトッティにとって苦い思い出となった。

中田との奇跡の交代劇

日本でトッティの名前が頻繁に聞かれるようになったのは、ASローマで中田英寿とのポジション争いが繰り広げられるようになってからだろう。自伝では中田との交代場面が何度か描かれている。なかでもセリエA優勝をかけた一戦となったユヴェントス対ローマの頂上対決における60分トッティと中田の交代についてはこのように思いを吐き出している。

「正直驚いた。そして失望した。この大事な試合でカピターノ(キャプテン)が交代させられるのかよ!」「俺は混沌としたゴミ置き場のような状態のなかからでもゴールを引き出せる男だ。俺をピッチに残してくれよ! あと20分の間に何が起こるかわからないぞ」。

そして中田とタッチして交代したわけだが、当時を振り返ってトッティはこう語る。「これまで数多くの“奇跡の交代劇”があったが、この中田との交代は記憶する限りでは最も驚くべきものだった。79分、ヒデはゴール上部隅に見事なミドルシュートを決めたんだ。ローマは蘇った」。

「ユヴェントス戦での中田の活躍あればこそ、ローマは優勝できた」と信じているロマニスタは今でも多い。トッティにとって、ASローマ優勝はワールドカップ優勝以上に価値あるものだったが、それをもたらした大きな要素が中田だったのだ。

そんなトッティはローマ優勝後、ロッカールームでの中田の行動をこう記述している。

「歌って踊っての大騒動に俺もすぐに参加した。全員と乾杯した。いや、それが全員ではなかったんだよ。俺は唖然とした。というよりも素直に面白かったよ。中田だ。彼は濃厚なるカオスのなか、隅っこに一人座って本を読んでいた。あいつは火星人だな」

悪夢のような日韓ワールドカップ

トッティは、2002 FIFAワールドカップに招集されて来日した。当時日本ではイケメン軍団アッズーリの一人として注目されたが、この大会は彼にとって幸せなものではなかった。それはピッチ上だけのことが理由ではない。当時付き合い始めたばかりだった現在の妻、イラリーも日本に帯同したのだが、彼女が日本で楽しめなかったのだ。

「毎試合後(イラリーに)20分だけホテルのホールで会うことができたのはよかったが、滞在先が観光地のど真ん中というわけでもなく、彼女は退屈していた。とにかくスクープを狙っている記者たちから逃げる以外は何もやることがなかったんだ」と語っている。そしてイラリーはイタリア代表が韓国に移動する前に、イタリアに帰国してしまったそうだ。

グループリーグは勝ち抜けたが、その後の韓国戦は1-2で敗北。バイロン・モレノ審判が転倒したトッティをシミュレーションとみなしてレッドカードを差し出し、退場となった。疑惑の判定として物議を醸したが、当時VARがあったらどういう結果になっていたのだろうか。トッティはその試合では延長戦に入る前から「4、5回続けて韓国有利な笛が吹かれていた」「反則の基準が拡大解釈されていた」と見解を示している。

自伝で最後に「日本」というキーワードが出てくるのは、引退前の日本のクラブからのオファーの話。日本以外にも中国、アメリカ、アブダビのチームからもオファーがあったという。それ以上のことは言及していないが、Jリーグでプレーするトッティの姿を見てみたかったファンは多いのではないか。

<了>

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