“120万人に1人の難病” スキージャンプ竹内択は、なぜリスク覚悟でプロ転向を決めたのか?

Career
2021.04.25

ソチ五輪直前に判明した、“120万人に1人”という難病の罹患(りかん)。スキージャンプの竹内択は、今も根本的な治療が見つかっていないチャーグ・ストラウス症候群と闘いながら競技を続けている。北京五輪でオリンピック4大会連続出場を目指す中、2019年、男はある一つの大きな決断を下した。プロ転向だ。

日本のスキージャンプ界では実業団で競技を続けることが通例で、竹内も13年間、北野建設に所属していた。自身の体のことを考えれば、実業団を選択した方が安定した競技生活を送れるかもしれない。だがそれでも、あえて独立してプロジャンパーへの道を進んだ理由は何だったのか? その生き様を聞いた。

(インタビュー・構成=折山淑美、撮影=高須力)

団体で銅メダルを獲得したソチ五輪。直前に判明した難病

冬季五輪は2010年バンクーバー大会から2018年平昌五輪まで3大会連続出場。2006年11月に初出場を果たしたワールドカップは翌2007-08シーズンから本格参戦し、これまで235試合に出場して4度表彰台に乗り、4大会出場した世界選手権では混合団体で金1、銅2を獲得。所属していた北野建設を辞めてプロになった2019-20シーズンも、ナショナルチームが若返った中、コンチネンタルカップ(ワールドカップの下部クラス)で結果を出して自力で出場枠を勝ち取りワールドカップにも13戦出場と、32歳(当時)になったベテランの底力を見せている。

そんな竹内の競技人生の中で、衝撃を受けたのは2014年ソチ五輪で、個人戦ノーマルヒル24位、ラージヒル13位のあと、ラージヒル団体で銅メダルを獲得した時の記者会見だ。彼はそこで1月に、全身の中小血管に炎症が生じる、非常にまれな難病と指定されるチャーグ・ストラウス症候群の罹患が判明し、闘病中であることを公表したのだ。日付が変わった深夜の会見場にいた記者たちも、驚愕(きょうがく)の表情を浮かべた。

ソチ五輪直前に難病発覚も、「間に合わないとは考えなかった」

――ソチ五輪シーズンは夏のサマーグランプリでも総合は葛西紀明選手を上回る日本人トップの8位になっていて、ワールドカップも開幕からの6戦中2位1回を最高に5戦で一桁順位を獲得。団体も1位、3位と表彰台を外さない中での主力で好調だと思っていただけに、記者会見の発言は驚くしかなかったです。

竹内:多分、ネットなどであの病気を見るとゾッとするというか、以前は薬も無かったので命が助からない病気でした。でも今は医療も進歩して、1~2カ月に1回病院に行って、という感じですけど、あの当時はそんなことよりオリンピック目前だったので「早く治してほしい」とお医者さんに言いながら、病室でトレーニングをして回復した感じでした。

――ソチに間に合わないとは思いませんでしたか?

竹内:12月末のジャンプ週間から熱が出て、腕も上がりにくくなって意識がもうろうとしながら1週間を過ごしたし、帰国する時も40度くらいの熱があったのでどうやって移動したかもあまり覚えてない感じで。それで病名も聞かされたけど、熱が下がって意識がハッキリすれば体自体は動いているから、とりあえずオリンピック期間中だけでも良くなってくれないかな、という感じでした。あのシーズンはイメージも良かったし、ピーキングはオリンピックに合わせられていると自信もあったので、間に合わないとは考えなかったですね。最低限これをやれば飛べるという感覚みたいなものもあったし。ただ、1月下旬のワールドカップ札幌大会には感覚を忘れないために外出許可をもらって出場したけど、入院中の筋力低下のダメージは大きかったですね(笑)。

――ソチには他の選手と一緒ではなく単独で出発しましたが、ああいう結果を出して病気との付き合い方への自信も持てたのではないですか?

竹内:最初は自分がこの年でそんな難病になるのは信じられなかったし、嫌だったけど、あまり深く考えても答えは出ないし、これから新薬も開発してくれるのではという感じで。実際、定期的に病院に行っていれば運動もできるという意味では安心感はありました。薬も最初はステロイド系で副作用もあったけど、その後は副作用が出ない薬も出てきて2カ月に1度行けば好酸球の数値も抑えられています。

「もう金メダルは無理でも…」。平昌五輪で惨敗後に思い立ったこと

――ソチ五輪後も、2017年の世界選手権シーズンまでは順調でしたね。

竹内:ソチ五輪も団体で銅メダルは取ったけど、自分の中では7~8割は悔しかったですね。僕がジャンプを始めたきっかけは1998年長野五輪で、日本チームが金メダルを取る姿を見てかっこいいなと思ったからです。だからメダルへの執着心もあったし、ジャンプはかっこいいという思いがありながらもなかなか結果が出なかった。それでも「やっといけるかな」と思い始めた時の病気だったので……。それにあのメダル自体も自分で取ったというより、取らせてもらったという感覚がすごかったですね。それまでずっと葛西さんが引っ張ってくれて、いろいろ教えてもらったからみんな強くなってきたんです。それで自分も結果を出せるようになって、ようやく自分が先頭に立って引っ張れるかなと思い始めた時だったから、より一層悔しかった。

その時に思ったのが、ジャンプをもっともっと追求しなければダメだということでした。それまでは自分の感覚に頼っていて、コーチのアドバイスを無視したり、練習も楽しくなかったらやらない感じだったけど、もっときちんとやらなければダメだと。それからは飛び出しの角度もすごく考えたし、ちゃんと見たことがなかった自分の動画もしっかり保存してみたりとか、ロジカルにロジカルにとやりだしたんです。そうしたらだんだん調子が悪くなって今に至っている感じですね(苦笑)。

――ソチ五輪後もしっかり実績は残していましたが、2018年平昌五輪はノーマルヒルには出られずラージヒル22位で、団体は1番手で6位という結果でしたね。

竹内:平昌五輪で惨敗した時は「もうかなわないな」と思ってしまいました。ウエイトトレーニングも3~4時間やったし、トレーニングもいろいろなことをすごくやった4年間だったので、それでも届かなければ無理だなと思って。

でもなんかその時に、オリンピックの金メダルは無理かもしれないけど、ジャンプをカッコよくするという部分では、まだ何かできるんじゃないかと思ったんです。中学を卒業してからフィンランドに留学していたし、ワールドカップでもジャンプ週間や10万人以上の観客が集まるスロベニアのプラニツァ大会などでお客さんが喜んだり楽しんだりする姿も見ていたので。日本はそういう雰囲気にならないのでなんか嫌だなとずっと思っていたし、そういう体制を変えるのも難しいというのも分かっていて。ソチ五輪が終わったころからはそういう状況を変えるために、まずは地元の飯山(長野県)で子どもの大会でもできないかなとも考えていたので、それをやってみようと思いました。

「会社に所属しながらだと難しい」。決断したプロ転向のチャレンジ

――それが北野建設を辞めてプロになるきっかけにもなったのですか?

竹内:まだ退社することは考えず、まずは企画を立てて2018年の夏にやろうと思いました。ある程度可視化した状態でないと社長も理解してくれないと思い、協力者も集めて日程も決めて。スキー部の荻原健司さん(現在は退社)や横川(朝治)コーチに話をしたら「おお、いいじゃん」とも言ってくれていたので、自信を持って社長に話したら大激怒されたんです(笑)。やっぱり会社に所属した状態でやるのは難しかったんですね。

ただ僕自身、何かを押し付けられるのは好きじゃないし、ジャンプも行き詰っていたので環境を変えたいとも思っていました。フィンランドに3年間留学した時もその後の確約があったわけではないし、北野建設に入ってから結果を出せたのも、環境が変わったからだと思うので。だから、ジャンプ人生の集大成というわけじゃないけど、新しいことをやれば自分のジャンプも良くなるかもしれないと思いました。ただ、本当ならもう1年くらいは北野建設にいて、その中で次の方向性を探ろうと思っていたんですけど、ちょうど会社もスキー部を縮小することになってしまって、2019年5月に退社となりました。

――その時は最初からプロを考えていたのですか。

竹内:あの時は葛西さんから(葛西が所属する)土屋ホームはどうかというオファーもあって、僕もすごくうれしかったし、行きたいなとも思いました。でも僕はずっと葛西さんからいろいろ教えてもらっていたし、ワールドカップでも10年くらいは一緒に行動していたからどういうふうにトレーニングをするかとか、どういう感じで合宿をするかというのもイメージができてしまうんです。それってすごく楽だけど、でもなんか安泰な感じで面白くないというか、チャレンジしていないのではないかと思ったんです。

もしかしたら結果を出すにはそっちの方が早いかもしれないけど、僕がやりたいのは自分の競技としてのジャンプの追求と、スキージャンプをエンタメ化したりカッコよくしたいというのを2軸で進めていきたいと考えていたので。それを考えると、会社に入ればその自由も制限される。(自分が進むべき道は)そうじゃないだろうなと思い、自分でやっていこうと決めました。

「賞金で食べられる世界ではない」。竹内択が明かす“お金のリアル”

日本スキージャンプに必要な改革。竹内択の決意

<了>

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PROFILE
竹内択(たけうち・たく)
1987年5月20日生まれ、長野県飯山市出身。10歳の冬に長野五輪での日の丸飛行隊の活躍に魅了されスキージャンプを始める。飯山第一中学卒業後、フィンランドに留学。2006年帰国後、北野建設に所属。2010年バンクーバー大会で自身初のオリンピック出場を果たし団体5位、2014年ソチ大会で団体銅メダルを獲得、2018年平昌大会で団体6位。世界選手権は2013年混合団体で金メダル、2015年・2017年混合団体で銅メダル。ワールドカップ表彰台(個人)は4度。ソチ五輪本大会の直前にチャーグ・ストラウス症候群を発症。現在も病気と闘いながら2022年北京五輪出場を目指す。2019年5月、北野建設を退社し、team takuを結成。プロのスキージャンパーとして、スキージャンプ界の発展に尽力するなど、アスリートの枠にとらわれない活動を続ける。

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