
陸上・卜部蘭、史上初の中距離女子1500m出場。乗り越えた“応援される喜びと苦悩”
史上初めて、オリンピックの中距離女子1500mに日本人が出場する。卜部蘭(うらべ・らん)と田中希実だ。マラソンや駅伝の注目度が高い日本において「中距離の発展が東京五輪に挑む動機の一つ」だと語る卜部は、多くの期待を背負い、その重さと向き合い、より一層強くなった。果たして“自由な風習の中で育ったサラブレッド”はどのような走りを見せてくれるのだろうか?
(文=守本和宏、写真=GettyImages)
“できることは全てやって”手にした東京五輪出場
卜部蘭を指導する横田真人コーチは、彼女の性格、そして五輪出場までの道のりを、こう表現する。
「“コツコツやる”“継続する”は、ずっと彼女が持ち続けてきたこと。ただ、今年はすごくつらそうだった。応援してくれる人のためにオリンピックに出なければいけない、何で出なければいけないのかと、4月~6月は迷子になっていた。でも、やはり彼女の良さは「○○しなきゃ」より「自分がこうしたい」という思想が原動力。最終的には、自分のあるべき姿と理想のギャップに苦しみ、乗り越えて代表になった。それがすごく価値のあること」
若くしてその能力を評価されてきた卜部。2019年日本陸上競技選手権大会では800mと1500mで2冠を達成。中距離で注目を集める田中希実とともに、女子陸上界を担う顔となった。スラリと伸びた上背が印象的で、跳ねるように走る姿が美しい、一見する価値のある選手だ。
しかし、今シーズンは苦戦が続いた。目標だった東京五輪出場を目指し、1500mに絞って各大会を転戦。オリンピックの参加標準記録4分04秒20を狙うのは非現実的と判断し、世界ランキング45位以内での出場に切り替え、ポイントを稼ぐ必要があったからだ。
春先からのシーズン序盤はある程度想定通りに進んだ。だが、4月25日の兵庫リレーカーニバル、6月1日の木南道孝記念陸上競技大会でタイムを伸ばせず、夢が遠のく。5月に行われた東日本実業団陸上競技選手権大会前に痛めた足、コンディションや感覚が合わず、募る焦り。所属先である積水化学の従業員、そして横田コーチの期待を裏切ってしまうかもしれない。蓄積されたプレッシャーが彼女から自然な走りを奪っていた。
それでも、今年6月末の日本選手権。1500mは田中希実に敗れたが、800mで優勝。自身が「珍しい」と言うガッツポーズが出るなど、“できることは全てやって”大会を終えた。その後、ランキングが確定したのは大会から数日後。7月1日に公表されたワールドランク(6月29日付)個人62位(1176pt)となり、東京五輪出場者枠で見ると44位。ギリギリ45位以内に入り、出場を決めた。まさに、彼女がコツコツ積み上げてきた努力が、実を結んだ瞬間だった。
大学時代に培った自由な思想
東京都生まれの卜部は、箱根駅伝ランナーだった父・卜部昌次、日本選手権1500m準優勝2回を誇る母・田島由紀子の子どもとして生まれる。名前は蘭。「RUN=走る」から付けられた名前だ。歩けるようになったぐらいの小さな頃から、父親が顧問を務める陸上部中距離部門の応援などで競技場を訪れていた。その時、「物心ついた時に試合を見ていて、一番かっこいいなと思ったのが中距離選手だった」と言う。
自然と、小学校5年生から週末にクラブチームで走り始めた卜部は、中学・高校では全国大会に出場。中距離の道を志し、東京学芸大学に入学する。そこでの指導が彼女の将来に大きく影響した。
「高校まではしっかり練習メニューが組み立てられていたのですが、大学は集合日が週2日。みんな自分たちでメニューを考えて練習をする、そんな環境でした。女子の短距離トレーニングに混ぜてもらって動きづくりをしたり、男子の長距離に混ぜてもらったり、他ブロックの練習にも参加していました」
その自由な考え方が好影響を生み、男子800mで44年ぶりのオリンピック出場を果たした横田コーチに、指導を受けることになる。在学中の大学3年生後半から見てもらいはじめると、卒業後に横田氏がヘッドコーチを務めるNIKE TOKYO TCに所属。クラブ解散後も、名前を変えたTWOLAPS TCに練習拠点を残しつつ、2020年1月からは積水化学女子陸上競技部の所属となった。
そこで卜部が出会ったのは、予想以上に熱心に応援してくれる社員の人々だった。その存在を卜部は、「うれしいを通り越して、びっくりした」と話している。
応援される喜びを感じ、期待に応える苦しさを知り、乗り越えた強さ
2020年のプリンセス駅伝優勝後、卜部が見せてくれたのは、一枚の寄せ書きだった。花をかたどった台紙に、手書きのメッセージがたくさん書き込まれている。所属先である積水化学の従業員から届いた応援の声だという。本人は語る。
「積水の方々の応援は、大きなものです。2020年シーズンで何が大きく変わったかって、会社の方々の応援。駅伝の時には自分が想像していた以上のものを頂いた。ビデオメッセージを各部署からもらったり、プレートをつくってムービーにしてくれたり、人文字をつくって屋上から動画を撮ったり。ホントにうれしすぎて。プラスアルファの力を頂きました。皆さんに喜んでもらいたいというのが、大きな原動力になっています」
ただ、彼らに対する恩返しへの強い思いから、今シーズンはオリンピック出場まで、そのプレッシャーに苦しんだ。日本選手権直前のレースでポイントを取れず、自身でも迷いを抱える。それでも最終的には横田コーチとの対話、日本選手権におけるTWOLAPSのチームメートの奮闘。社内外からの応援の声を受けて、初の代表入り。積み重ねてきた努力、決して崩さなかった学ぶ姿勢が報われた形だ。世界ランキング上位入りを目指し、苦悩した日々を横田コーチはこう表現している。
「応援・支援というのは、普段あまり目に見えない。それは競技に集中できる良さもあるけど、逆にいえば自分だけのために走っている感覚になってしまうところもある。でも、走るのが楽しいだけではオリンピックに行けない。卜部は積水に入り、部署の方々が応援してくれてすごくうれしがっていた。そういう、周囲への感謝の気持ちは積水に入って、より一層強くなった。それを乗り越えて日本代表になれたのが今の彼女の強さだと思います」
中距離界でメダル以外の価値を生み出す存在
もう一つ、彼女に注目する理由がある。卜部は、アスリートに“メダル以外の価値”をもたらす存在になるのではないか、という点だ。
籍を置くTWOLAPSでは、横田コーチの意向もあり、陸上(主に中距離)をよりもっと身近に感じ、楽しめる大会の企画・運営も手掛けている。卜部もそういった活動に積極的に参加する他、プラットフォーム「note」での発信など、自由な風習の中で会社員アスリートとは一風違った道を歩み、学んでいる。
「日本はマラソンや駅伝の注目度が高い。マラソン大会は多いですが、中距離はない。だから今は、中距離の大会を企画・運営したりもしています。市民ランナーの方に1500mにもチャレンジできる機会を設けて、皆さんに走っていただくことで、中距離を『自分ゴト』にしてもらう。中距離を知ってもらう働きかけをしています」
それは好きな中距離の社会的価値を、より高めたいからだ。
「中距離は、続けたかったけど続けられなかった人もいるのが現状。実業団とか企業で続けたいと思っても、認知度の低さもあり、なかなか続けられない。そういう現状の中、中距離が発展していくことで、選手を引き受ける裾野が広がり、活動を応援してくれる会社が増えると思っています。そういう陸上界の未来の、一つのきっかけになりたい。それが、自分の中でオリンピックに行く動機の一つです」
アスリートにとって、オリンピック・メダルはもちろん重要である。卜部にとってもそれは変わらない。ただ、メダルかメダル外かで、アスリートの努力・実績がほぼ忘れさられる世の中でいいのか、は別問題だ。その価値観に、風穴をあける存在(コツコツタイプなので長期的視点で)といった意味でも、彼女には注目してもらいたい。
<了>
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