「イメージが浮かばなくなった」小野伸二が語った「あの大ケガ」からサッカーの楽しさを取り戻すまで
日本サッカー界きってのテクニシャンとして知られている、元日本代表MF小野伸二は数々のテクニックで今も多くのサッカーファンを魅了している。
小野伸二はどのような少年時代を過ごし、そのテクニックを開花させていったのだろうか? そして、数々のテクニックを輝かせる彼の武器は、脳内イメージであり、それは1999年に負った膝の大ケガを転機に変化したという。少年時代から現在に至るまで、小野伸二のキャリアについて、今改めて話を聞いた。
(※本記事は2020年4月13日公開の記事の再掲です)
(インタビュー=岩本義弘[『REAL SPORTS』編集長]、構成=REAL SPORTS編集部、写真=Getty Images)
小学生のころは日が暮れるまでずっとボールを蹴っていた
――今振り返って、小野選手が一番自分の技術が身についたと思うのは何歳ぐらいの時でしょうか?
小野:今でも別に技術は身についたとは思っていなくて、まだまだ、って感覚ですね。技術はどんどん高められるから、自分が気づいていなかった細かいところを、もっともっとレベルアップしていきたいと思っています。
でも、一つあげるとしたら、今沢サッカースポーツ少年団(以下スポーツ少年団)に入った小学校3年生の時からだと思います。その時はボールを奪われたり、ボールが返ってこないことがあるから、ボールを誰かに渡すのが嫌で、自分一人でドリブルばかりして点を取るという感じでプレーしてました。
――小学校3年生の時はどんな練習したのか覚えていますか?
小野:スポーツ少年団では、教えてくれていた監督がラグビー経験者でサッカー経験がなかったので、細かいサッカーの練習をした感じはしなかったですね。
――とにかく、ボールを蹴っていたと?
小野:一人でずっとやっていました。学校でも休み時間はすべてボール蹴ってましたし、スポーツ少年団の練習自体は週2回しかなかったので、それ以外の日は学校が終わるとすぐに家に帰って一人で日が暮れるまでサッカーやってました。
――その時は、シュートなどもしてたんですか?
小野:いや、リフティングばかりでしたね。一人だったらリフティングをやって、壁があったらボールを蹴って壁当てしたり。あとは、いろいろと楽しみながら自分で工夫してヘディングとかもやったりしていました。
――全部自分のオリジナル練習ということですよね?
小野:そうですね。住んでいる団地に狭いスペースがあって、そこで弟とサッカーやったりもしていました。あと、団地なので、いろいろな世代がいるので、集めて2対2をしたりとか、人数が増えたらその人数に合わせて試合をやってました。
――ボールを蹴り始めてすぐにサッカーにハマったんですか?
小野:保育園の時に初めてボール蹴っていると思うんですけど、その時から楽しかった感覚はあります。
――始めた時から、周りと比べてうまかった?
小野:近所にサッカーをやっている子があまりいなかったですし、スポーツ少年団とかサッカーチームがあるのも知らなかったので、自分がうまいのかどうかもわからなかったんです。なので、スポーツ少年団入ってから上の世代の人を見て、うまい人もいるんだなと思いました。
――スポーツ少年団で印象に残っていることはありますか。
小野:よく、駒澤大学などの大学生が、何日間かサッカーを教えに来てくれたり、あとは新潟県津川市の学生と交流したりとか、年代が上の選手とサッカーできる機会が多かったんです。なので、高学年になってからはそういう人たちとの対戦がすごく楽しみでした。そういう選手に負けたくないとういう闘志は当時からかなりありましたね。
――やっぱり、大人も含めて自分より上のレベルの人とやるのは楽しかったですか?
小野:めっちゃ楽しみでしたね。近所にはいなかったけど、大学生とかとサッカーすると「俺からボール取ったらユニフォームをあげるよ」って言ってきたりしたので、「あのユニフォームゲットするんだ」って。そんな感じで楽しんでいました。
負けず嫌いで自分で点を取ることばかりしていた
――子どもの時にサッカーをやめそうになったことはありましたか?
小野:一度だけあります。あんまりはっきりとは覚えていないですが、小学5年生くらいの時に、河川敷で試合をやっていた時のことですね、別にそんなに自分が悪いわけではなかったと思いますが、僕のプレーが監督的には怠慢と見えたようで、「帰れ!」と言われて……多分そのことが自分としてはやってられないと思って、練習に行かなくなった時期があります。
――けっこう、ヤンチャな面もあったんですね。
小野:そうですね、高学年になってくると、監督や先生にいろいろと言われるのが嫌でした。でも今となれば、自分のことをすごく考えてくれていたと思うんですが……その当時はそんなことを考えられない状態だったので、もうやってられない、別に練習に行かなくても自分でサッカーの練習できるからいいやと思ってましたね(苦笑)。
――小学生の頃のプレースタイルは今とは違いますか?
小野:超ドリブラーでした。あとは負けず嫌いで、本当にボールを取られることと試合に負けるのが嫌でした。負けた試合は毎試合泣いていましたからね。
――そのころの映像としてよく紹介される沼津選抜の10人抜きシュート映像は、パスを出す気が全然ないみたいでしたよね。
小野:あれは選抜チームの試合の映像なので、けっこううまい選手が集まってましたが、当時はとにかく自分でずっとボールを持って点を取る、というプレーばかりでしたね。
――(ディエゴ・)マラドーナのビデオをすり切れるほど見ていたとのことでしたが、ドリブルなどを真似してみたりもしてたんですか?
小野:何回も見ましたね。近所のレンタルビデオ屋さんにたまたまマラドーナのビデオが置いてあって、よく借りて見ていました。でも、真似とかはしていなかったかも。
――意外ですね。
小野:ただ、初めてマラドーナのプレーを見た時、人をワクワクさせてくれる、この人楽しいな、とは思いましたね。
他の選手とは違うプレーをしてチームに貢献する
――小野選手のプレーも、見ている人たちを楽しませてくれるプレーですが、何を心掛けているんでしょうか?
小野:それは高校生ぐらいになってからですね。やっぱり、見てくれる人たちや相手選手に驚きを与えたい、という感じが出始めました。プロになってからは、また来てもらえるためには自分がいいプレーをするだけじゃなく、他の選手と同じようなプレーをしているだけではいけないと感じるようになりました。ただ、それを意識して、こういうプレーをしないといけないというわけじゃなく、自分でいろんな発想をして、それが自然と行動にできたおかげでそういうプレーができたのかもしれないですけどね。
――発想と遊び心のあるプレーを高校時代(清水商)から行っていましたが、それはどのように身についたんでしょうか?
小野:高校に入ってから、1回挫折に近い感じがありました。やっぱりフィジカル的にも中学と高校では更に変わりますし、サッカー名門高なので、僕の1個上、2個上はめちゃくちゃうまい選手ばかりだったんですよ。だから「やっていけるかな」と最初は思っていました。
――同じポジションにもうまい先輩はいましたか?
小野:2個上の先輩ですごい選手がいました。そういう選手たちがたくさんいる中で、僕は1年生の時から試合に出ていたんですけど、やっぱりそれはプレッシャーで。「この人に負けちゃいけないんだ」と思うと怖くなりましたが、この人と同じようなプレーじゃなく、チームに違いを与えないといけないということを、強く意識してやってましたね。
――創造力あふれるプレーが身についたのは、小学生の時に練習以外に自分でボールを蹴ったり、仲間とボール蹴ったりしたことがベースなんですかね。
小野:基本的に、インサイド、アウトサイド、ヒールと使えるところは全部使い、いろいろと試したりしていたので、人と違ったオプションがいっぱいできたんだと思います。
ケガの前と後では見える世界が変わった
――多くの人はレギュラーを取る、活躍するためにその技術が必要となるという考えになるところが、小野選手の場合は、こんなことをやったら面白い、楽しいだろうなという発想があったと感じます。
小野:これをやらなきゃいけないとかで必死になったことは、もしかしたら一度もないかもしれないですね。
――プロになってからも?
小野:プロになってからもないですね。正直、膝のケガ(※)をする前は、自分の頭の中に入ってくるサッカーの情報というか映像がすごくて、すべてが見えているというような感覚でした。例えば、ディフェンスが後ろからこういうふうに来る、というシーンが、リアルと頭の中の映像とでピッタリなんですよ。試合だけじゃなく練習の時も、常に頭の中で敵がコートに配置されているので、パスを出すところなども自然とイメージできていました。なので、常に試合をやっているのと同じ状況ではあったと思います。
(※1999年7月5日 シドニーオリンピックアジア地区一次予選 対フィリピン戦にて左膝靭帯断裂の重傷を負い、長期離脱となった)
――膝のケガをする前は頭の中ですべてが見えていたとのことでしたが、ケガをしたあとは、何か変わったんでしょうか?
小野:ケガから戻ってきて、ピッチに立った瞬間はもう違和感しかなくて……何もイメージが浮かばなくなっていました。ケガをする前にどうやってイメージを浮かばしていたのかすらわからなくなり、ケガをする前に戻らなきゃという感じでジレンマがありましたね。結局、戻すも戻らないも、元々自然にできていたことだったので、すべてがぱっと消えてしまった、という感じです。
――しばらくしても感覚が戻ってこない、すべてが消えてしまったということは、想像すらできないですが……絶望的なんでしょうね。
小野:絶望ですよ。とにかく、何も見えないので、ボールをもらうのが怖かったです。今振り返ると、ケガをする前に戻りたい気持ちが強すぎて、前に進んでいなかったのが原因だったと思います。本当は、ここから新しい自分を作っていくと考えないといけなかったのに。
――考えが切り替わるまでには、どれくらいかかりましたか?
小野:ケガからの復帰戦は神戸(※)で、2-0で負けた時なんですけど、まあ本当に酷い。もう、今でも見たくない試合の一つですね。イメージも浮かばない、技術もかなり下手だし、止めて蹴るも含めて何もできていなかったです。
(※1999年10月30日 J1 2nd第11節 神戸-浦和 小野選手は浦和レッズに所属)
常に考えることが記憶力に結びついている
――自身では、いつぐらいまでダメだったと感じますか?
小野:少しずつ良くなってきたと思ったらまたケガをしたり、ケガから復帰してまた良くなってきたと思ったら今度はコンディションが下がる……といったことをJ2の間はくり返していました。その後、レッズにフラビオが来たんですよ。彼は1998年フランスワールドカップの日本代表でも一緒だったんですが、彼のフィジカルトレーニングで、かなり変われたと感じました。
――フラビオは恩人の一人なんですね。
小野:僕の中ではかなり。楽しくフィジカルを上げられた感じですね。あと、当時所属していたブラジル人選手もうまかったので。確か、その時も初めはミニゲームばかりやってたので楽しくて、そういうところから変わっていったのかなとは感じますね。
――あのケガの前のサッカー人生よりも、もうその後のキャリアのほうが長くなり、今は当然ケガから復帰した時よりも見えていると思いますが、ケガをする前のなんでも頭の中で見えていたような状態には全くなっていないんでしょうか?
小野:ならないですね。戻ったことは一度もないですね。あれは僕の中でもちょっと未知でした。だから、説明のしようがないんですよ。これを説明してって言われても、見えていた当時の僕からすると「なんで逆に見えないの?」って思っちゃうだろうなと。
――今でも記憶はかなり鮮明にあると。
小野:そうですね。嫌なものも全部覚えていますよ。あと、人のプレーとかもかなり細かく覚えてたりしています。
――それも自然に、ですか?
小野:そうですね。見た時に頭の中に入って、その時の映像が残っているっていう感じですかね。
――その能力はどのように身についたんですかね? すごく大きなヒントになると思うんですが。
小野:うーん……自然と、常にいろいろなことを考えていたからかもしれないですね。
――常に試合の中にいることを考えながら練習もしていたと。
小野:そうですね。サッカーの試合って意外にそういうのを働かせてるんじゃないかなと思います。
――ピッチ全体を見ることができているほうが強いですしね。
小野:みんなは「ここだ」と思うところに出しますが、僕は「ここだ」と思うところを頭には入れながらも、周りを見るんですよね。みんなが思っているところに出すのは面白くないので(笑)。どうせこっちに来るだろうと、ディフェンスも行こうとするところの逆を取るのが楽しいですね。だから、試合の中でもずっと駆け引きしてます。駆け引きは、試合の中でもかなり大きい要素だと思いますね。
――そういったことを小野選手の場合は肩に力が入っているわけでもなく、自然とできているところがすごいですよね。
小野:周りを見て気を遣うタイプですけど、疲れないし、楽しいですね。みんなが楽しんでくれたら楽しいじゃないですか。そこがもうすべてです。
型にハマらず楽しく練習することを大切にしている
――小野選手が逆に楽しくない時はどんな時ですか?
小野:やっぱりサッカーできない時じゃないですかね。小学生の時とかも雨で中止になるのが嫌で、朝起きたら真っ先に天気が大丈夫か確認してましたからね。それで、雨で練習試合とかが中止になったらがっかりして……でも、よく雨の日でも一人で外にボール蹴りに行ったりとかはしてました。
――土砂降りでもボール蹴りに行ってたんですか?
小野:土砂降りの中でもやってました。今でも覚えてるんですが、高校サッカー選手権の静岡県大会決勝がめちゃくちゃ土砂降りの中で行われているのを見ていて、その時にすごいオーバーヘッドシュートが決まったところを見て、すごく興奮してすぐに弟を連れてボールを蹴りに行きました。
――今でも覚えているぐらい、すごく印象的だったんですね。
小野:「あんなシュートがあるんだ」と思いながら、土砂降りの中、泥だらけになりながら、オーバーヘッドキックの練習をひたすらやってましたね。
――そういったところを含めて、小野選手は(『キャプテン翼』の)翼くんみたいですね。
小野:翼くんのように、「サッカーを楽しもう」という気持ちは常にありましたね。
――楽しさをずっと持ち続けているのは本当にすごいと思います。そういう意味では、監督に強制されたりするケースでは、楽しくないと感じそうですね。
小野:そうですね。型にハマるタイプじゃないので、型にはめられたら、絶対にできないと思います。中学3年生の時、部活の顧問の先生が学年主任とかでほとんど練習に来なかったので、僕が中心になって練習メニューも全部決めて、やりたいことばっかりやってました。でも、練習といっても、結局、みんなゲームが好きなのでゲームばっかりやってましたね。きつい走りのトレーニングより、そのままゲームで走ればいいじゃん、と僕の中では思っていました。
――その考え方は今では当たり前ですけど、当時は当たり前じゃなかった中で、その考えで行っていたのはすごいですね。
小野:別に走る必要はないと思ってましたし、それでも長距離を走ったら学校で一番だったので、別に走れないこともなかったです。ただ、ボールなしで走るのは大嫌いでしたね。なので、ボールがあったらみんなも楽しくやれるので、ペナルティーエリアの中で小さいボールを2つ置いて、そこで5対5とか6対6とかを行うトレーニングばっかり勝手にやってました。
――ボールをずっと蹴っていれば、確かに体力つきますもんね。
小野:体力もつくし、楽しい。そして狭いスペースなので周りも見ないといけない、常に自分の近くにボールを置かないといけないとか、駆け引きもいっぱいできるというのは、中学の時にすごく感じました。
ジダンは近寄りがたい存在、憧れの存在はマラドーナ
――他の選手のプレーを見てそれを参考にしたりすることはありますか?
小野:トラップの位置とか、パスの強弱とか、どういう蹴り方をしているのかは見たりします。もっとも、自分の型はそんなに変える必要はないと思っていますが。でも、良いものを取り入れていくことは小さい時から行ってますね。
――先日Instagramに投稿していたトラップが話題になっていましたが、ああいった技術はどうやって身につけられたんですか?
(編集注:3月27日に「トラップのコツ」として自身のInstagramに投稿)
小野:やり続ければみんなできますよ。相手がどこにいるのかというのも想像して行うと、おのずとそういったトラップにたどり着くんですよね。あとは僕の場合は海外でプレーしたのも役に立つ良い経験だったと思います。海外のサッカーは、日本とは全く違いますから。
――ヨーロッパでプレーした時に対戦した相手ですごかった選手はいますか?
小野:やっぱり(ジネディーヌ・)ジダンですね。何がすごいと言われると、もう存在すべて。本当にすごい。近寄りがたい、そういう存在でしたね。
――ジダンも小野選手のように、相手の逆をとる感じがありますよね。
小野:5-0で日本がフランスに大敗(※)した試合があるじゃないですか。あの試合の時、雨降っていて、ぬかるみの中でジダンが左足のワンステップで、逆サイドにダーンってサイドチェンジしたんですよ。当時僕は試合に出られなくてピッチの外で見ていたんですが、これはかなわないなと思いました。
(※2001年3月24日フランス サンドニで行われた国際親善試合)
――小野選手にもそう言わせるジダンはやっぱりすごいですね。総合力でいうと歴代で1位かもしれません。
小野:総合力でいったらそうですね。ドリブル、トラップ、シュート、ヘディング、リーダーシップ、全部持っているじゃないですか。
――ちなみに、現役選手だったら誰ですか?
小野:今だったら、(リオネル・)メッシですね。
――メッシのすごさは具体的にどういうところですか?
小野:メッシって一人で何でもできるじゃないですか。よくサッカーはチームプレーで11人でやるものだって言いますが、でもメッシは1人でも点を取ってくる。もちろん、周りがいるからこそ、より輝いているとは思いますが、それでも1人で行っても絶対いけると思うんですよね。
――スイッチ入った時には、1人で行く時もありますもんね。
小野:あれは、できるようでできないですからね。パスをつないで誰かとワンツーしながらとかではなくて、本当に1人でドリブルですっと行けちゃう。ああいうのは本当にすごいですね。記録的にはクリスティアーノ・ロナウドもすごいけれど、サッカーの質においてメッシを超えるのは難しいと思います。マラドーナの時代にメッシがいたらとか、マラドーナが今の時代にプレーしていたらとか、つい想像しちゃいますよね。時代によってプレースタイルも絶対変わるので比較は難しいですが、メッシとマラドーナがもし同時に今の時代にいたとしたら、僕はマラドーナが絶対に上だと思ってます。マラドーナは僕にとって、もうずっと憧れている存在なので。
<了>
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PROFILE
小野 伸二(おの・しんじ)
1979年9月27日生まれ、静岡県沼津市出身。ポジションはミッドフィールダー。JリーグFC琉球に所属。少年時代から「天才」と呼ばれ、13歳でU-16日本代表に初選出され、それ以降も各年代の日本代表に選ばれる。高校卒業後18歳でフランスW杯に出場後3大会連続でW杯に出場。2001年に海外移籍したフェイエノールトでUEFA杯優勝を経験など、国内海外クラブで活躍。
FIFA世界大会、UEFAクラブ国際大会のすべてに出場した唯一の日本人選手である。
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