ブラサカ界の“三浦カズ”が現役引退「メダルを持って東北に行きたかった」その胸中を告白
3月9日に引退を表明したブラインドサッカー選手、落合啓士。
「おっちー」の愛称で多くのファンに親しまれ、長年日本代表を牽引した彼がブラインドサッカー界にもたらしたものは計り知れない。競技内におけるその絶大な存在感は“キングカズ”こと三浦知良とさえ重なる。2017年9月に代表を外れてからの“2年半”、東京2020パラリンピック出場を目指し、これまでになくストイックに競技と向き合った落合は、なぜこのタイミングで引退を発表したのか? 引退を決意するに至った経緯に加え、17年間の現役生活、そして描く今後のヴィジョンについて語る。
(インタビュー=岩本義弘[REAL SPORTS編集長]、構成=REAL SPORTS編集部、撮影=浦正弘)
続けてこられたのは「恩返しをしたいという気持ち」
――最初に引退を決意した経緯を聞かせてください。引退発表、今週末か、来週……(取材は3月5日に実施)。
落合:3月9日に決めました。
――このタイミングにしたのは、どういう理由ですか?
落合:まず、(新型コロナウイルスの影響で)中止になってしまいましたが、3月に行われるはずだった(IBSA ブラインドサッカー)ワールドグランプリ2020のメンバーに選ばれなかったのが大きなポイントです。2017年9月に代表から外れて、そのあと2018年の6月か7月に、高田(敏志)監督とご飯に行ったんですね。その時に、「一度代表から外れて自分と向き合って、2020年のワールドグランプリにもう一度呼ぶので、その時に最終テストとして代表でまたできるかどうかを見る」という話がありました。ご飯を食べながらなので、リップサービスかなとも思いながら、そこが最後のチャンスと考えていました。この大会のあと、国際大会がないので。ここで選ばれなかったら、仮に本番選ばれたとしても、戦力としての選出ではないと考えて結論を出しました。
――監督が、食事の席とはいえ、明言したということですか?
落合:まあそうですね。
――監督としては多分、「そこを目標に頑張れ」という意味だったわけですね。
落合:そのおかげで僕は頑張ろうと思えました。落とされた理由をはっきり監督は言わなかったですけど、若手育成というところは、ご飯の中でも話していました。監督からは「おっちー(落合の愛称)は、自分でいろいろと考えて成長できる選手だから、しばらく自分で調整してほしい」というのはその時に言われました。
――そこまでずっと、いわば代表選手の顔としてやってきたと思うんですが、そこから外れてこれまでどのような思いでやり続けられたのですか?
落合:続けてこられたのは、東京(2020)パラリンピックのピッチに立って恩返しをしたいという気持ちです。2011年にケガの影響で一度引退をしようと覚悟したんです。その時に震災(東日本大震災)が起きて、ボランティア活動を通じて東北の人たちと出会えて、また立ち上がれたというか。その感謝の気持ちが大きかったので、東北の人たちのために自分ができることって何だろうと考えて、やっぱりプレーすることだなと。メダルを持って東北に行くことが、勇気づけることだなと思っていたので。それを本当は2012年のロンドンパラリンピックでやりたかったですけど、予選(ブラインドサッカーアジア選手権2011)で負けて、また2016年のリオ(リオデジャネイロパラリンピック)の予選(ブラインドサッカーアジア選手権2015)で負けて、それを実現できていなかったので。2020年の自国開催でプレーする姿を見せて、かつメダルを持って東北に行くということだけを考えて、この2年半くじけることなくやれたというのが大きいですね。
目が見えないプラスもう一つ障がいが増えると…
――2011年1月に一度代表を引退しようと考えられたのは、当時、ある程度やり切ったという思いがあったのですか?
落合:やり切ったというよりは、ケガが大きかったですね。
――どこのケガですか?
落合:試合中に首を蹴られて、全身がしびれて、そのしびれがなかなか取れなくなって。2010年12月に、広州でアジアパラ競技大会があって、その試合の時にまた手のしびれが出ちゃって……。
――手のしびれが出ると、プレーにすごく影響がありますよね。
落合:そうですね。目が見えないプラスもう一つ障がいが増えると結構大変だなというのがあって。それで「もうやめます」って感じで。
――それが2011年3月の震災を機に、また考え方が変わったということですね。そのあと首と手は治療をしたのですか?
落合:リハビリをして、しびれはほとんど出なくなりました。
――それでもそこから9年も現役を続けるとは思わなかったのでは?
落合:当時東京パラリンピックまでは考えてなかったですね。2012年のロンドンに行けなかったので、次の2016年のリオでメダルを取りたいというところまでしか考えてなかったです。
――そしてリオにも行けないと決まった時は、もう東京パラリンピック開催が発表されていたわけですね?
落合:そうですね。2015年9月にリオに行けないと決まった時に、東京パラリンピックに向けてスタートするしかないと。あの時はすぐに切り替えました。
――簡単ではなかったですよね、その決断は。
落合:簡単ではなかったです。でも心の奥底にあるのは、やっぱり「東北を元気にする」だったので、そこはブレなかった。自分の心は悔しかったし落ち込みましたけど、腐ることなくやれたという感じですね。
――その後、代表から外れて、そこからさらに2年半やり続けるって並大抵のことではないと思います。「東北の人のため」という気持ちだけで、乗り越えられたということですか?
落合:そうですね。東北の人だけではなく、他にも応援してくれている人たちの声援は、直接じゃなくても、SNS を通しても感じるので、そこは本当に大きなパワーになりましたね。あと、自分なりに試行錯誤して努力を続けて、うまくなっていく実感もすごくあったので。そういう自分自身もうまくなって楽しいなっていう気持ちもあって。応援されている実感と、自分自身がうまくなっているという実感と、その2つが大きかったですね。
2017年の自分はメンタルが崩壊していた
――せっかくうまくなっている部分を代表で試せなかった、もう一度代表でチャレンジする機会がなかった悔しさは、やっぱりあるのですか?
落合:そうですね。やれる自信はあるので。パフォーマンスとしては、代表の中でも他の選手に引けを取らないとは思っているので悔しさはあります。ただサッカーって、本当に監督の考えのピースにはまるかはまらないかなので。
――本当にアスリートですよね。考え方自体が。例えば永里優季選手もパフォーマンス的にも年齢的にもピークなのに代表に入れない。でも彼女は彼女なりに自分なりの道を見つけて、自分の活動はぶれないという感じでやり続けていますよね?
落合:優季さんも変わりましたよね。多分代表に呼ばれなくなってすぐの時って、「なんで?」という気持ちはあったと思うし、僕自身もそれはありました。けど、そこから何か自分で試行錯誤していって、自分の道を見つけていくと、代表に呼ばれるだけがすべてじゃないという考えに至るというか。優季さんのインタビュー記事などを読んでいて、なるほどなという部分はありますね。
――その間お酒もやめていたんですよね?
落合:やめていましたね。
――今までの中でも一番ストイックにブラインドサッカーという競技と向き合ったということですよね?
落合:そうですね。週5くらいは1人の時間なので、その個人トレーニングが正しい道にいっているかどうかって、正直わからないじゃないですか。なので、自分と向き合ってやっていく中で、かなりストイックにできたし、本当に自分自身と向き合えた時間だなと思いますね、この2年半。
――この2年半を振り返って、自分自身の成長はどういうところにあったと感じますか?
落合:そうですね。一つは今振り返ると2017年の自分って、ちょっとメンタルが崩壊していたんですよね。その理由としては、2016年のドイツ遠征の時に、また試合中に首をやったんですよ。また全身がしびれて、2017年1月にJISS(国立スポーツ科学センター)に行って診断したら首のヘルニアになっていて。これ今まで誰にも言っていなかったんですけど。ドクターストップがかかったんですよね。
――そうだったんですね……。
落合:次、首に強い衝撃を受けて、もし神経が切れたら、車いす生活になるというのはドクターに言われていて。それと同じタイミングで代表ではサブ組でやることが多くなって、高田監督には怒られることも多くて、自分のイメージと監督のイメージがなかなか合わなくて……。そこの歯がゆさとか焦りが首のケガとも重なってしまって。監督に気に入られるためにはどうしたらいいかと考えている自分がいて……。
――ブラインドサッカー選手としての向上よりも、監督に気に入られる選手になりたいというマインドになってしまっていた?
落合:そうですね。悪循環になってしまって。例えば2017年7月の合宿の時に、監督から「疑問に思ったことは、プレーを止めてもいいから選手同士で話し合え」と言われたので、ゲーム形式のトレーニング中に監督に「ちょっと止めてください」と言って、選手間で自分の考えを伝えたんです。そしたら「そんなことで止めるな」と怒られちゃって。監督の言葉が自分の中で強くなりすぎて、「言い合ったほうがいいんだ」と思い込んで実行して、それが逆にマイナス評価になった。その後も監督からは怒られることが多くて、どんどんメンタルが崩壊してしまって。代表から外れてさらにメンタルが崩壊して。このままじゃよくないと思って、2018年にメンタルトレーナーやカウンセラーになるための学校に1年間通って。
――2018年に?
落合:そうですね。1年間通いました。具体的にカウンセラーになるとかメンタルトレーナーになるという考えではなくて。それまでもメンタルトレーニングとか何回か受けたことあるんですけど、やっぱり自分がプレーするためには、メンタルのもっと奥を知っておかないといけないと思って。ただ何となく技法をやっているだけではなく、自分のメンタルをしっかり理解して、一から作り直そうと思って学校に通いました。1人の時間に自分でメンタルコントロールして、自己成長を感じられたりとか、その経験はとても大きかったなと思います。
「選手もやめます。現役引退です」
――その時、家族含めて周囲は「もうやめたほうがいいんじゃないの?」とはならなかったのですか?
落合:家族間ではなかったですね。家族はすごく応援してくれていました。周りからも「なんで代表に呼ばれないの?」とか、代表選手からも「早く戻ってこいよ!」とか、いろいろ声を掛けてもらえてありがたかったですね。
――三浦知良さんも、1998年の(FIFAワールドカップ・フランス)大会直前で代表を外れてなかったら、あの時ワールドカップに出ていたら、今もプレーしていることはなかったという話をしていました。落合さんも代表から外れたことで、逆に、より頑張れたのかもしれないですね。
落合:それはありますね。代表に選ばれなかったこともそうですし、今までパラリンピックに出られていないということも。17年間ブラインドサッカーを現役選手としてやってこられたのは、そういう悔しさとか達成できなかったものに対する諦めきれない思いが大きいですね。
――今回引退の決断に際して、相談した人はいますか?
落合:あやふるさん(夫人の愛称)。ワールドグランプリのメンバーに選ばれなかったら引退しようと思うというのは、あやふるには相談していました。「ワールドグランプリまで頑張って、駄目だったら引退しようと思う」と話して、向こうも現状を知っているので、「そうだね。そこまで頑張んなきゃね」という感じでした。
――ワールドグランプリのメンバーはいつ発表されたのですか?
落合:2月13日ですね。2月15日から代表合宿があって、その合宿に招集されるかどうかがラストチャンスだなと思っていたんですね。一回合宿に呼んでもらえれば、結果を出す自信はあったので。ただ、そこの前に決まっちゃったのは残念だなという感じですね。
――高田監督に「最後のチャンスをください」みたいな連絡はしなかったのですか?
落合:しなかったですね。
――とはいえ、そこの合宿には呼んでもらいたかったですね。
落合:合宿の直前に国内の大会がなくて、パフォーマンスをアピールできる場がなかったのも残念でした。
――メンバーに入ってなかったというのは、どうやって知ったのですか?
落合:Twitterか何かでリリースを見ました。
――代表をやめても選手は続けるのですか?
落合:選手もやめます。現役引退です。なので、そのリリースを見た瞬間に17年間を振り返ったりしましたね。今年に入ってから、3月のワールドグランプリで代表に戻れなかったら、現役は一区切りつけようと思っていたので。その発表を見た時は、選ばれなかったこと自体は残念ですけど、これからの時間をどうしていくかというのを考えたりとか、今まで17年間お世話になった人に感謝を伝えに回らなければとか、そういうふうなことを考えていました。
17年間を振り返って出てきた「3つの場面」
――ブラインドサッカーをプレーした17年間を振り返った時に、一番鮮明に出てきたのはどの場面ですか?
落合:2007年にブラジルで行われた(IBSA視覚障がい者スポーツ)世界大会です。スペイン戦で、僕のバースデーゴールで1-0で勝った試合です。日本ブラインドサッカーの歴史上初めてヨーロッパに勝った試合でした。自分のゴールで歴史的な試合の勝利を決められたことがうれしかったことをよく覚えています。
あとは2011年の震災後に仙台で行われたロンドンの予選で、初日に中国に負けてあとがない中で韓国戦を迎えて、前半0-1で負けていた場面です。僕はその時ベンチにいて、後半に急に監督から「トップで入れ」と言われて、「(当時ポジションは中盤だったので)トップなんてほとんどやってないのに」と思いながら入って、コーナーキックからゴール決めたんです。長年ブラインドサッカーをやっていて初めてゾーンに入った感覚で、ボールの音とガイドの音しか聞こえなくて、全然敵の声も聞こえなくて、ゴールを決められて、そのあとトモ(黒田智成)がゴール決めてくれて逆転勝利しました。あのゴールの瞬間も思い出しましたね。
あと、リオの予選で最後(3位決定戦)、韓国との試合でPK 戦で負けて、最後観客席にあいさつに行った場面。キーパーのゴリ(佐藤大介の愛称)が泣いていて。僕がキャプテンをやっている時、副キャプテンとして彼にはだいぶ支えてもらったんで。慰めるというより「ありがとう」と伝えた瞬間も。引退すると決まった瞬間にその3つの場面が大きく出てきましたね。
――リオへの道がなくなった時のことはよく覚えています。その時、印象的だったのは、落合さんがそこで自分自身が悔しむというよりも周りを気づかっていて。そこでその行動ができるって素晴らしいことだなと思いました。
落合:ありがとうございます。自分がキャプテンをやらせてもらった3年間は、本当に他の選手たち、サポーター、スタッフに僕自身が支えられて成長させてもらったので。自分が悔しいという気持ちよりも、「ありがとう」と「ごめんね」という気持ちが大きかったですね。
――発表を見てそういったシーンを思い出したりしたのは何時くらいですか?
落合:発表を見たのは、夕方だったと思います。家で見ました。そのあと頭の中でいろいろ考えていたという感じですね。その次の日かな? 1年ぶりにお酒を飲みました。
――1年ぶりにお酒を飲むことが一つの区切りになったわけですね。
落合:そうですね。もちろん自分自身もまだ現役をやれる自信はありますけど。いろんな選択肢がある中で、今後のブラインドサッカー界とか、もっといえば今後の視覚障がい者のことを考えた時に、自分が現役を続けているよりも、次のステップに向かったほうがいいんじゃないかなというのがあって。東京パラリンピックが終わったあと、引退する選手って結構いると思うんですよ。パラリンピックが終わったら、正直どこまでメディアが障がい者のことを取り上げてくれるのか未知数じゃないですか。
――未知数ですね。
落合:そこで、僕自身が今まで培ってきたこととか、ブラインドサッカーを次の世代の子どもに教えたり、視覚障がい者としてもっと発信できることがあると思って。選手をするってなると、仕事以外全部の時間をサッカーに注いでいかないといけないので。そう考えた時に、限られた時間をどこに使うかと考えたら、現役じゃないなって思ったんですよね。
――もう落合選手のプレーを見られないということですね……。
落合:……そうですね。
――引退試合はやるべきでは?
落合:そうですね。それは、やりたいですね。オフの時にJ リーガーにも出てもらって。
「本当にありがとう」と「戻れなくてごめんね」
――改めて17年間支えてくれた人たちへのメッセージをお願いします。
落合:まず、東北の人たち。その中でも、やっぱり宮城県石巻市在住の小向家ですね。被災地支援活動で出会ったあの家族がいたから、今があります。毎年会いに行かせてもらって、その時に一緒に笑ったりしている中で、やっぱり最後に直接頑張ってと言ってくれる言葉に支えられました。
――被災地支援活動に行っている体(てい)なんだけど、結局、パワーをもらって帰ってくるわけですね。
落合:そうなんですよね。2012年に初めて小向家と出会って、ずっとパワーをもらっているので、ありがたいなあと思いますね、本当に。3月11日もまた東北に手を合わせに行くんですけど、その時に小向家に会って、家族みんなにありがとうと伝えようと思っています。あと風祭(喜一)さんにも感謝しています。
――日本のブラインドサッカーの父のような存在ですね。
落合:そうですね。監督と選手という関係だけなく、人として育ててもらったので。風祭さんにも本当に感謝しています。あと一緒に代表で長年やってきた選手たち。黒田智成とか、僕が代表になってからずっと一緒にやっていますけど、当時の僕は、結構チームにも文句を言っていて。他の選手もそうですけど、みんな僕が文句言っている時代から一緒にやってる選手たちは、よく一緒にやってくれたなあと思います。
――みんな優しいですよね。
落合:優しいですね。本当に文句を言い返さないところがすごいなと思って(笑)。聞き流す能力というか。ただその中でも僕のプレーを認めてくれていた選手たちなので、本当にありがたいですね。こんなわがままな選手を……。
――同じスポーツをやっているから、しかもすごく特殊なスポーツをやっているからこその、お互いのリスペクトがあるのですね。
落合:本当にいろんなことを学ばせてもらいましたね。そういう意味では代表から外れてからも、「戻ってこいよ」と言ってくれるし、僕のことを必要としてくれている彼らには、「本当にありがとう」と「戻れなくてごめんね」という気持ちです。
視覚障がい者にサッカーを好きになってほしい
――今後、落合さんはどんなことやっていきたいと考えていますか? いろんな可能性があると思うのですが。
落合:今後については、一つは今日本ブラインドサッカー協会から打診されているのが、育成部の手伝いをしてほしいと言われています。今の10代〜20代前半の選手たちに、僕がプレーヤーとしてやってきたこと、僕だからこそわかることを伝えてほしいと。他の講師たちはプレーヤーとしての経験がないので。
――確かに。
落合:それこそ自分が取り組んできたトレーニングメソッドもあるので、それを言語化して全国のクラブチームを回って落とし込んでいくことも考えています。ブラインドサッカー界は、関東と地方の格差がすごくて、いつも上位に入るのは関東のチームなんですよ。なので、地方のレベルアップに力を注いでいくのが一つ。その中でもしオファーがあれば、どこかのチームで監督としてチームを強くしていきたいです。一つのチームに絞らないとメソッドってしっかり落とし込めないと思うので。
――それはbuen cambio yokohama(ブエンカンビオ横浜/落合選手が代表を務めるブラインドサッカーのチーム)ではないのですか?
落合:ブエンカンビオは強いので大丈夫です。なので、もっともっと地方の……。
――地方のチームでやるということですね?
落合:地方のチームでやりたいです。地方のチームはすごく頑張っているんですけど、やっぱり勝てないと面白くなくて、チームが盛り上がっていかないというのはあるんじゃないかなと思っていて。地方のチームが強くなれば、注目されたり集まる人が増えたりして、そうすると地方の視覚障がい者たちも、もっともっと生きがいを持ってプレーできるようになると思うので。
さらに言えば、視覚障がい者と健常者とのコミュニティをもっと広げていきたい。そのためにどこか一つのチームで指導する。その地方に行って、少なからず僕の経歴というのは、ある程度地方のメディアも取り上げてくれやすいと思うので。そういうところで僕が広告塔になって、その地方のチームが取り上げられて、そこの選手を教えていく中でその選手自身がうまくなったら、サッカー好きになると思うんですよ。サッカー好きになって、今まで Jリーグとか興味なかったブラインドサッカープレーヤーが、地域のスタジアムに行くとか。ブラインドサッカーの練習に来てサポートしてくれている人と一緒にJリーグ見に行ったりとか。僕はそういうことがしたいんですよね。
結構、ブラインドサッカーをやっている選手って、ブラインドサッカー好きだけどサッカー好きじゃないという選手、多いんですよ。もったいないなあと思っていて。ただ本当にサッカーが好きじゃないと、スタジアムに行っても面白くないんですよね。ピッチでどんなサッカーをしているのかわからないし。家で中継を見ているほうが、実況、解説があってわかるし。でもスタジアムにしかない空気ってあるし、スタジアムに行って空気感がわかれば、もうやっぱり全然テレビよりも楽しいと僕は思うので。ブラインドサッカーを教えていく中で、視覚障がい者にサッカーを好きになってほしいという思いがあります。
――ブラインドサッカーの伝道師的なことも求められていると思います。
落合:そうですね。その先いろいろと広がっていくとは思うんですけど。自分にできることを一つひとつやっていきたいですね。あれもこれもやりたいですけど、体は一つなので。
――あれもこれもやってみるべきだとも感じます。
落合:そうですね。一つ終えて、また一つ。
――最後にご家族へのメッセージがあれば。
落合:あやふるには本当に感謝しています。アスリートフードマイスターの資格を取ってくれて、栄養サポートをしてくれました。朝早い時もしっかりとご飯を作ってくれて、とても助かりました。あと代表を外れた時に一番近くにいてくれて、話を聞いてくれたり、何気ないことで一緒に笑ってくれて、メンタル的にとても支えになってくれました。本当に心から感謝しています。
<了>
ポジティブおっちー
全盲の視覚障害者でパラタレントのおっちーこと落合啓士が見えない世界をおもしろおかしくあたたかく伝えていくYouTubeチャンネル! 知らないことが偏見をつくるからといろんな面を伝えてます。 手術で見えるようになるとしても見えない人生のほうが楽しいから手術しないと言うくらい人生楽しんでる姿をご覧ください! チャンネル登録よろしくお願いします! お仕事のお問い合わせは↓ …youtube.comでこれを読む >
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PROFILE
落合啓士(おちあい・ひろし)
1977年8月2日生まれ、神奈川県出身。10歳の時に徐々に視力が落ちる網膜色素変性症を発症。18歳で視覚障がい者となる。25歳でブラインドサッカーと出会い、同年に日本代表に選出。以降、10番を背負いキャプテンを務めるなど長年にわたり中心選手として活躍。ブラインドサッカーチーム「buen cambio yokohama」を設立し、代表を務める。著書に『日本の10番背負いました』(講談社刊)がある。2020年3月9日に引退を発表。
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