マテラッツィ「イタリア最大の問題は…」伝説のW杯優勝の要因とカルチョへの愛を語る

Career
2020.02.04

2006 FIFAワールドカップ決勝で際立った存在感を見せ、イタリア代表を優勝へと導いたマルコ・マテラッツィ。現役時代から熱血漢として知られ、強いキャプテンシーも持ち合わせ、何よりサッカーへの深い造詣を持つ彼が説くセリエA復権への道しるべとは? イタリアに栄光をもたらした男が母国への愛、伝説のワールドカップの優勝を語る。

(文・撮影=栗田シメイ、取材協力=ワカタケ、写真=Getty Images)

一夜にしてイタリアの英雄、世界の“悪役”へ

ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップ決勝は、一人の男の劇場と化した。カルチョ(イタリア語でサッカーの意)の国に実に24年ぶりのトロフィーを帰還させた舞台の主役は、間違いなくマルコ・マテラッツィだった。

1994年以来の決勝進出を果たしたイタリアと相対したのは、ジネディーヌ・ジダン率いるフランス代表。巨漢のイタリア人DFは、先制点となるPKを与えるファールを犯すが、すぐさまへディングをフランスゴールに叩き込んだ。世界中で語り草となっている、ジダンの“頭突き事件”では張本人として、結果的にジダンを退場に追い込み、PK戦の末にイタリアを4度目のチャンピオンに導いた。マテラッツィは一夜にしてイタリアの英雄となり、世界中からは“悪役”のレッテルを張られることになったのだ。

以降、マテラッツィは欧州メディアに対してあの決勝を断片的に話すことはあれど、進んでドイツワールドカップ優勝を回顧することはなかった。

来日したマテラッツィと対面した印象は、ウイットに富んだ冗談好きで、仕事に対して真摯なプロフェッショナルだということだ。そして、何よりカルチョへの深い造詣と、セリエA復活の道を模索する、熱血漢でもあった。

今のイタリアには力強さや対人の強さを感じない

――2006年のワールドカップ優勝から、イタリア代表は2大会連続のグループリーグ敗退。前回は予選敗退と、イタリアはかつての輝きを失っています。

マテラッツィ:今のイタリアにはかつて世界一ともいえたプレーの力強さや対人の強さを感じない。それは技術的な部分よりも、メンタル的な要因が大きいと俺は考えている。2006年以降、そして現在の代表を見ても、明らかに俺たちの時代のほうが誰もが闘志を剥き出しにしていた。ジジ(ジャンルイジ・ブッフォン)や(ジェンナーロ・)ガットゥーゾ、(ファビオ・)カンナヴァーロ。世界的な選手たちが国のために体を張り、戦っていた。当時の代表はまさに伝統的なカテナチオと呼ぶにふさわしいチームだった。時代が変わりサッカーの流行が変わろうが、イタリアの国としての強さの源泉には守備がある。だからこそ今の代表を見ていて思うのは、カテナチオの時代のように力強くいくべきだということだ。

――かつてイタリアの代名詞であったファンタジスタと呼べる存在も絶滅しかけています。

マテラッツィ:イタリアの伝統は、DFが耐えて、少ない得点チャンスをストライカーがモノにするというスタイルだ。そして、得点機を創造する10番の存在があった。2006年も、(フランチェスコ・)トッティと(アレッサンドロ・)デル・ピエロというファンタジスタがチャンスを生み出した。今のイタリアにあのレベルの選手は確かにいないかもしれない。ただ、代表の問題はDFにあるといえる。トップレベルの試合となるとわずか1mの判断ミスでゴールを奪われてしまう。俺からすると、本来であればあと1m相手に寄せないといけない場面でも、寄せきれていないシーンが多い。もっとガツガツ当たり、相手FWに恐怖心を与えないといけないのに、プレッシャーをかけきれていない。

――ディフェンス面の弱さがイタリアを停滞させていると。

マテラッツィ:その通りだ。高いレベルでFWとDFが競い合わないと、優れたストライカーとセンターバックは育たない。代表が勝ちきれないということに、イタリア最大の問題点はつながっている。

――その問題点とは?

マテラッツィ:かつてセリエAは長らくフットボールの中心地だった。多くのトップ選手がイタリアを目指し、各国の有望株が集まるからこそ、選手も成長できた。ただ代表が結果を残せないことで、他の国からセリエAは評価されなくなった。今では有望なイタリア人選手ですら、他のリーグに流れてしまうようになったんだ。俺たちの時代は、イタリア人がセリエAを出るという発想はほとんどなかったよ。自国のサッカーが一番魅力的に感じていたし、わざわざ国外に出る必要がなかったんだ。事実、2006年の優勝メンバーも全員がセリエAでプレーする選手だった。ただ、時代が変わり、代表が弱体化したことで国内リーグの魅力を感じる人たちが減少した。それが問題の本質のように思えるよ。

世界一を取るのと取らないではすべてが違う

――2006年のドイツワールドカップでは、イタリア国内ではカルチョスキャンダル(2006年5月に発覚したイタリアサッカー界の審判買収事件)などさまざまな問題が重なり、ベテラン勢が多く下馬評は決して高くなかった。どのような意識で大会に臨んだのですか?

マテラッツィ:開幕前は、俺たちに期待する声は多くなかった。2年前の(UEFA)欧州選手権でも予選敗退し、長らく国際大会で結果を残せていなかったからな。大会前はイタリア国内の論調もさまざまだった。だが、チームは落ち着いていたし、不思議と団結していたんだ。大会では簡単な試合はなかったよ。だが、勝ち進めることでチームの結束は強まっていったんだ。何より結果を出したことにより国民からの後押しが大きくなり、それが俺たちの力に変わった。

――改めて優勝の要因を挙げるとするならどのような部分なのか。

マテラッツィ:まずはチームとしてデフェンスがしっかりできていて、大会を通して我慢ができたことだ。決勝トーナメントでも1回戦のオーストラリア戦で試合終了直前のゴールでギリギリ勝利し、準決勝のドイツ、決勝のフランス戦も延長を経験した。その結果は、イタリアが試合の流れの中でやられてはいけないところを抑えられたことを証明している。ゴールを入れられれば流れは変わるし、逆に我慢ができればチャンスはやってくる。あの時のイタリアは、とにかく耐えて耐え抜くことができるチームだった。誰もが集中力が途切れることなく、チームで守り抜くことができた結果が優勝につながった。

――決勝戦ではPKを献上し、得点を決め、さらに世界中から注目されたジダンとの騒動もあるなど、あなたにとって忘れられない試合だったかと思います。

マテラッツィ:あの決勝のことはノーコメントとさせてくれ。既にヨーロッパのいろいろなメディアで話しており、俺にとっても決して良い思い出ではないからだ。俺から言えることは一つ。ドイツワールドカップは、俺にとってもイタリア人にとっても言葉にできないくらい素晴らしい大会だったということだ。優勝し、イタリアを世界一にできたことは心から誇りに思うよ。

――ドイツワールドカップ優勝はあなたのキャリアにどのような影響をもたらしましたか?

マテラッツィ:世界一を取るのと取らないではすべてが違う。ワールドカップは世界中のフットボーラーにとってそうであるように、俺にとっても小さい頃からの夢だった。トロフィーを獲得したことで初めて知る景色を見ることができた。何より、自信を持ってこれまでの俺のサッカー人生は正しかったと思えるようになった。そして自分のキャリアにも誇りを持つことができたんだ。それはやはりワールドカップで頂点に立つまでは、持ち得ない感覚だった。

――最後にイタリアが再び輝くために必要なことを教えてください。

マテラッツィ:難しい質問だ。だが、経験談として俺に話せることは、ドイツワールドカップでイタリアサッカーが世界一と証明できたことにより、セリエAに良い選手たちが帰ってきたということだ。あの優勝がなければ、セリエAの状況は悪化していたかもしれない。それはイタリアにとって非常に大きなことだったと思う。やはり自国リーグに選手が集まることで、代表も強化され、逆に代表が強い国のリーグには選手も集まりやすい。セリエAは少しずつ復調の気配を見せており、代表が国際大会で結果を残すことができれば流れは変わるだろう。強いイタリアが再び見られる日を、俺自身が楽しみにしているんだ。

<了>

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PROFILE
マルコ・マテラッツィ
1973年8月19日生まれ、イタリア・プッリャ州レッチェ出身。FCメッシーナの下部組織で育ち、下部リーグのクラブを渡り歩いたのち、ペルージャにて23歳でセリエAデビュー。1998-99シーズンにプレミアリーグのエバートンに移籍して海外経験を積み、翌年ペルージャに復帰。迎えた1999-2000シーズンにDFによるシーズン最多得点記録を更新する12得点を挙げる活躍を見せ、インテルに移籍。以降、クラブを象徴する闘将として10シーズン在籍し多くのタイトルを獲得。イタリア代表では2001年に27歳にして初出場を果たし、2002年、2006年のFIFAワールドカップに出場。2006年ドイツ大会では優勝の立役者となった。一度引退を経験したのち、2014年にインドのチェンナイインFCで現役復帰、選手兼監督として3シーズン過ごした。

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