史上3人目の世界グランドスラム達成。レスリング元木咲良が見せた“完全制覇”と、その先にある敗北
世界を制した直後、人はどんな感情を抱くのだろうか。パリ五輪、女子レスリング62kg級の金メダリスト・元木咲良は、史上3人目となる世界グランドスラムを達成したわずか1カ月後、マットに倒れ込んだ。「そんなに何回もラッキーは起きない」――。栄光と挫折を同時に経験した23歳は、いま何を見据えているのか。勝ち続けてきたレスラーが初めて口にした“敗北の言葉”は、再生の始まりでもあった。
(インタビュー・文・撮影=布施鋼治)
「史上3人目の快挙」全試合無失点で、世界グランドスラム達成
2025年10月25日(現地時間)、セルビア第2の都市ノヴィサドで開催のU-23世界選手権で元木咲良は至福のときを迎えていた。
この日、女子レスリング62kg級で優勝し、世界グランドスラムを達成したのだ。レスリングのグランドスラムとは、オリンピック、シニア世界選手権、年代別の世界選手権すべてを制覇したことを指す。
元木は2018年の世界カデット選手権を手始めに、2020年にはU-20世界選手権、2024年にはオリンピック、そしてU-23の1カ月前にはシニア世界選手権も制している。世界グランドスラムの達成は史上3人目の快挙だった。
しかも、今大会では準決勝までの4試合をすべてフォール勝ち。イリナ・ボンダー(ウクライナ)との決勝も10-0のテクニカルスペリオリティ(野球に例えるとコールドゲーム)で切って落とした。元木はこう振り返る。
「イリナは強い選手で、昨年のU-23でも優勝している。まずは気持ちで負けないように強気で前に出て、そこから自分の攻撃を仕掛けていこうと思いながら戦いました」
おまけに全試合無失点という完全優勝だった。
「圧倒して勝ちたかった」育英大で芽生えた責任感
一方で、1カ月前のシニア世界選手権決勝ではキム・オクユ(北朝鮮)を相手に試合終了24秒前まで3-4と1点のリードを許していた。試合終了直前に放った首投げは当初0点と判定されたが、チャレンジによるビデオチェックの末、相手の肩が残り時間0.3秒の時点でマットについていたと判定され、スコアは5-4と覆ってギリギリの優勝を遂げた。
シニア世界選手権では“奇跡を呼ぶオリンピック金メダリスト”のニックネーム通りの試合運びだったが、U-23世界選手権ではワンサイドゲーム。そのギャップについて訊くと、元木は本音を漏らした。
「(1カ月前には)シニア世界選手権で優勝したので、今回はそこまで意識はしてなかったけど、できるだけ圧倒的な力で優勝したいという思いはありました。それを達成することができたことはうれしい」
いつも控え目な発言が多い元木の口から初めて強気な言葉を聞いた気がした。続けて今後のビジョンを口にした。
「今一番できることは、大学でみんなの先頭に立って仲間(育英大学の後輩)に自分の背中を見せて引っ張っていくこと。今助手という形で大学に残らせてもらっているので、つらいことあったらどうやって立ち向かっていくか。勝つためにどういう準備をしていけばいいのか。そういうことを伝えていくことだと思う」
これまで育英大のレスリング部といえば、元木や櫻井つぐみがパリ五輪で金メダルを獲得。さらに世界選手権で優勝している石井亜海や在籍中の清岡もえも輩出するなど、“女子レスリングが強い大学”というイメージが強かった。
しかし今回のU-23世界選手権では元木の後輩である五味虹登が男子グレコローマン60kg級で優勝するなど、男子の台頭も目立つようになってきた。男子も強くなりつつあることを指摘すると、元木は「五味選手の優勝は本当に誇らしい」と声のトーンを一段上げて話し始めた。
「自分が入学した時と比べたら男子部員も女子部員も増えました。みんなで切磋琢磨しながら、高い意識の中で練習に打ち込んでいる。さすがに男子の指導はできないけど、精神的に引っ張っていける存在になりたい」
通算戦績は元木の3戦全勝。しかし…
レスラーとしての元木の評価は国内より海外のほうが高い。12月下旬、世界レスリング連盟(UWW)は、2026年の「モスト・ドミナント・レスラー(最健闘選手)」の女子部門に元木を選出した。とりわけシニア世界選手権でのラスト0.3秒という勝利は「後世に語り継がれる」と絶賛している。
しかし、何から何までうまくいっているわけではない。この賞を受賞する1週間ほど前、元木は天国から地獄へと突き落とされた。
舞台は2025天皇杯全日本選手権。女子62kg級にエントリーした元木は当然優勝候補筆頭に挙げられていた。対抗馬はパリ五輪の日本代表の座を争った尾﨑野乃香、伏兵は女子59kg級で2025年の世界王者になった尾西桜。三つ巴の争いは今大会最大のハイライトと評する識者も多かった。
3人は順調に勝ち上がり、まず準決勝で尾﨑と尾西が激突。尾﨑がキャリアの差を見せつける形で尾西を打ち破った。もう一方のブロックからは元木が難なく勝ち上がっていた。
尾﨑との試合は半年ぶりだったが、通算戦績は元木の3戦全勝。初対決時のときと比べると、両者の立場は完全に逆転したように思われた。この日も「元木の勝利」を予想していた識者は多い。元木の場合、尾﨑との初対決をきっかけに大化けしたと思われている選手なのだから、しごく当然だった。
直近の試合は2025年6月22日行われた明治杯全日本選抜選手権で、シニア世界選手権出場を賭けて争われたプレーオフで両者は激突。タイムアップ寸前に元木が6-5と逆転に成功し、シニア世界選手権出場の切符をつかんだ。ちなみにプレーオフに先立つ同日の2時間前に行われた全日本選抜選手権の決勝でも2人は顔を合わせ、2-3のビハインドから残り時間43秒でタイスコアに。結局「同点の場合、ラストポイントを取った者が勝ち」というルールで元木が勝利している。
天国から地獄へ。それでも元木咲良は再び這い上がる
よくよく考えてみると、いずれの試合も僅差。何かをきっかけに、勝負の流れが尾﨑のほうに傾かないとは限らない。4度目の対決に向け、尾﨑は「相手にできて自分にできないことはない」と発想を転換した。
「前回は1秒以下の残り時間で負けてしまい、こういうこともあるんだと学びました。なので、元木さんの戦い方や精神力を見習おうと。今回2ラウンド目で点を取られたけど、やられたらやり返そうと思いました」(尾﨑)
実際にはどうだったのか。初対決のときと同様、第1ピリオドを終えた時点で尾﨑が1点をリードしていた。元木にしてみれば、ワンチャンスで一気に逆転できる点差である。実際、1点を返し、すぐ1-1に。「この流れで元木が逆転するだろう」と予想した者は多い。そうした周囲の期待に応えるかのように第2ピリオドになると元木は2点をとり返し、3-1と逆転に成功した。
ほんのわずかなワンチャンスも逃さない。62kg級で日本代表の座を獲得して以来、元木には勝負に対する大きな執着心を感じる。このまま逃げ切りかと思われた矢先の出来事だった。残り時間30秒を切ったところで、尾﨑は、かつての元木のように逆転の鬼と化す。片足タックルで2点を奪い返し、逆転に成功したのだ。試合はそのままタイムアップ。スコアは3-3とイーブンながら、最終得点を得た尾﨑が勝者となった。
尾﨑に初めて敗北を喫した元木はマットの上で大の字になった。試合後は「やっぱりそんなに何回もラッキーは起きない」と激闘を振り返った。「(3-1とリードした時点で)組み手争いに徹底して守ろうという考えになってしまいました。(最後に決められた片足タックルは)反応できなかった」
しかし、元木にとってはこれも“ありのままの自分”であるかのように受け止めていた。
「今年(2025年)はちょっとありえないぐらい勝ち続けていた。今回のような敗北が自分の原点というか――。わたしは一つひとつの挫折を着実に乗り越え成長してきた。逆境に強いのが自分の強み。今回の課題にしっかり向き合いたい。そして『この負けがあったからこそ』といえる日が必ずくるように、またここから自分のペースで頑張りたい」
天国から地獄に突き落とされても、決してめげたりはしない。世界グランドスラムを達成しても、有頂天になることはなかった元木咲良は再び這い上がる。
【連載前編】狙っていない反り投げが、金メダルを連れてきた。“奇跡の人”元木咲良、七転び八起きのレスリング人生
<了>
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