「声が出なくなるまで戦った」ケインでも届かなかった。イングランドが世界一を逃した“37分間”の真実
FIFAワールドカップ・ラウンド16メキシコ戦後、ハリー・ケインはほとんど声が出なくなっていた。標高約2200メートルのアステカ・スタジアム。開催国の大観衆、退場者を出した数的不利……。極限の90分を戦い抜いた代償だった。この大会、イングランドは何度も苦境を乗り越えた。そのたびに試合中の修正を施したトーマス・トゥヘルと、ゴールを決めるケインが勝利をもたらしてきた。しかし、アルゼンチンとの準決勝だけは違った。イングランドを鍾離へ導いてきた武器が、最後の37分間で機能しなくなったのである。
(文=田嶋コウスケ、写真=AP/アフロ)
ウェイン・ルーニーが思わず笑った“ケインの声”
ラウンド16のメキシコ戦後、ハリー・ケインはほとんど声が出なくなっていた。
標高約2200メートルのアステカ・スタジアム。開催国を応援する大観衆を敵に回し、イングランドは退場者を出しながら3-2で辛くも逃げ切った。試合後のインタビューで、ケインがかすれた声を絞り出すと、解説者としてスタジオにいた元イングランド代表のウェイン・ルーニーやジョー・ハートも、あまりに滑稽な声に思わず笑った。
「とんでもない試合だった。戦わなければならなかった。もうほとんど話せないよ」
英メディアが「ヘリウムガスを吸ったようだ」と表現したその声を聞くだけで、試合の過酷さは十分に伝わった。ケインは得点とアシストを記録しただけではなく、10人になった後も前線でロングボールを収め、主将としても声を張り上げ続けた。英紙『ガーディアン』が「英雄的なパフォーマンス」と伝えたこの勝利は、今大会のイングランドを象徴する一戦でもあった。華麗に相手を圧倒したのではなく、状況に応じて戦い方を変え、最後は身体を張って勝ち残ったのである。
公式記録には、フランスとの3位決定戦を6-4で制した「3位」が残った。ただ、準決勝敗退直後の両国が戦った特殊な一戦を、このチームの到達点として評価するのは難しい。イングランドのワールドカップは、アルゼンチンに敗れるまでの7試合として振り返る方が実像に近い。
データ分析会社『Opta』によると、準決勝までの7試合で、トーマス・トゥヘル監督は試合中に20回もフォーメーションを変えた。アルゼンチンの11回、フランスの9回、スペインの7回を大きく上回り、大会最多だったという。そして、センターフォワードのケインは6得点を挙げた。監督が試合の流れに手を入れ、エースがゴールで決着をつける。その組み合わせが、イングランドを準決勝まで運んだ。
ドイツ人のトゥヘルは、スベン=ゴラン・エリクソン、ファビオ・カペッロに続く、史上3人目の外国人監督である。求められたのは、2026年ワールドカップの優勝だった。ガレス・サウスゲート前体制で準決勝や決勝までは進みながら、最後に届かなかったイングランドを、もう一つ先へ進めるために呼ばれた。
なぜケインは32歳で最高の状態を迎えられたのか
トゥヘルがチームの中心に据えたのが、バイエルン・ミュンヘンでも指導したケインだった。
ケインは2023年、タイトルを求めてトッテナムを離れた。その移籍先で最初に指揮を受けた監督がトゥヘルである。クラブで一度、代表でもう一度、ケインは同じ監督と頂点を目指すことになった。
トゥヘルが求めたのは、ペナルティーエリア内で待つだけのストライカーではない。中盤に下がってパスを引き出し、左右へ展開し、相手センターバックを動かしたうえで、自らもゴール前へ入る。バイエルンでその役割を理解していたケインは、代表でも攻撃の基準点となった。
しかも32歳で迎えた今大会に、ケインは衰えを隠しながら来たわけではない。
2025/26シーズンはバイエルンで公式戦51試合に出場し、実に61得点。ブンデスリーガでは31試合36得点、欧州チャンピオンズリーグでは13試合14得点、ドイツ杯でも6試合10得点を記録した。過去の実績によって代表の座を守ったベテランではなく、欧州屈指の得点力を保ったままワールドカップを迎えた。
彼の身体は、時間をかけて作られてきたものでもあった。トッテナム時代には足首やハムストリングの故障を繰り返し、クラブとは別に身体の専門家を自費で雇った。30代でも高い稼働率を保つため、走り方や身体の使い方、回復方法まで見直した。
かつてトッテナムを率いたジョゼ・モウリーニョは、就任直後にケインを監督室へ呼び、「君がリーダーであることに疑いはない。私と一緒なら、さらに飛躍できる」と語った。すでにイングランドを代表する選手だったケインを、世界的な映画スターになぞらえながら、その名声はクリスティアーノ・ロナウドやリオネル・メッシの域にはまだ達していないと発破をかけた。
モウリーニョの言葉に対し、ケインは答えた。
「でも私は、ロナウドやメッシのクラスになりたい」
得点数だけでなく、世界的なタイトルによって記憶される選手になりたい。そのために身体を管理し、バイエルンへ移り、32歳のワールドカップに照準を合わせてきたのだ。
7試合で20回。修正するたびに勝ってきたイングランド
その集大成となるはずだったのが、今回のワールドカップだった。
イングランドはクロアチアとの初戦を4-2で制した。トゥヘルが掲げた前向きなサッカーが形になった一方、ガーナ戦は0-0。ボールを持ちながら中央を崩せず、パナマ戦も2-0で勝利したものの、毎試合同じ攻撃を再現したわけではなかった。
そこでトゥヘルは、相手の配置や自軍のプレーぶりに応じ、試合中でも速やかに布陣を変えた。7試合で20回という数字は、戦術家としての即応性を示している。実際、決勝トーナメントに入ると、彼の修正力が勝敗を左右した。
ラウンド32のコンゴ民主共和国戦が、最も分かりやすい。
開始7分に先制され、イングランドは相手の守備とGKリオネル・ムパシの好守に苦しんだ。そこでトゥヘルは、後半の給水タイムを使って選手を集めた。
「最初の給水タイムの後には、3回、4回、5回と大きなチャンスがあった」
試合後、トゥヘルはそう振り返り、「岩を砕くまで叩き続けた」と表現した。給水タイム後、イングランドは相手陣内でボールを動かす速度を上げ、ゴール前へ入る人数も増やした。
75分、ケインがヘディングで同点に追いついた。終了4分前に、勝負を決めたのもケインだった。ペナルティーエリア手前の密集でボールを受けると、相手に寄せられながら右足でシュート位置へ動かし、姿勢を崩さずに振り抜いた。寄せを受けても軸を失わない体幹の強さと、わずかな隙を逃さない決定力が凝縮された一撃だった。試合後、英紙『デーリー・テレグラフ』は「ハリー・ケインがイングランドのワールドカップを救った」と見出しを付けた。
トゥヘルが給水タイムで攻め方を修正し、ケインが2得点を奪う。監督が試合の流れを変え、主将が得点に変える。コンゴ戦は、今大会のイングランドの勝ち方を明確に示した一戦だった。
メキシコ戦では勝因だった“ある采配”
メキシコ戦では、同じ修正力が反対方向に使われた。
自軍に退場者を出した後、トゥヘルは守備者を投入し、後方の人数を増やした。コンゴ戦では攻撃を活性化させた変更が、アステカではリードを守るために機能した。ケインは前線に残り、クリアボールを受ける出口となった。
試合後、トゥヘルは選手たちを「英雄的だった」と称え、「最後まで行けると信じている」と語った。給水タイムの修正でコンゴを破り、10人でメキシコを退けた。イングランドには、試合が予定通りに進まなくても勝つ方法があるように見えた。
ところが準々決勝のノルウェー戦後、トゥヘルは勝利を喜ぶより先に、プレー内容への不満を口にした。
イングランドは先制を許し、パスやボールコントロールのミスを繰り返した。延長戦で2-1と逆転し、準決勝へ進んだものの、トゥヘルはプレーを「雑だった」と評し、技術的なミスや攻撃の遅さを問題にした。指揮官の厳しい評価について、ケインは言った。
「監督は、僕たちの最高の姿を見たいだけだ。試合ではまだ十分に出せていない」
準決勝へ進んだ直後としては、奇妙なやり取りにも見えた。だが、トゥヘルの不満には理由があった。コンゴ、メキシコ、ノルウェーを破ったものの、いずれも最後まで相手を制御した試合ではない。得点、守備、交代策のどれかが、土壇場でイングランドを救った。ケインも、結果だけでアルゼンチンに勝てるとは考えていなかった。
そして準決勝では、トゥヘルの修正とケインの得点力を結んでいた線が切れた。
アルゼンチン戦で何が狂ったのか
アルゼンチン戦の前半、イングランドは高い位置から圧力をかけ、相手のビルドアップを制限した。55分にはアンソニー・ゴードンが先制。ここまでは狙い通りだった。
だが、その後の交代策を境に、試合は変わった。
トゥヘルは守備者を加え、4バックから5バックへ移行した。メキシコ戦で成功した、後方を固めてリードを守る発想だった。しかし、アステカとは相手が違った。アルゼンチンはボールを保持しながらイングランドを押し下げ、リオネル・メッシが右へ流れて守備の基準点をずらした。
最終ラインの守備者を増やしたことで、中盤でボールをつなぐ人数が減り、奪っても前線まで届けられなくなった。73分から92分までに、イングランドが成功させたパスはわずか2本。先制後の約37分間の支配率は12%だった。エンソ・フェルナンデスに同点弾を許し、後半追加時間にはメッシのクロスからラウタロ・マルティネスに逆転ゴールを奪われた。
コンゴ戦とメキシコ戦でイングランドを救った試合中の変更が、アルゼンチンとの最も重要な一戦では機能しなかった。敗戦後、トゥヘルは「能動性を失った」と認めた。ケインの言葉は、さらに簡潔だった。
「僕たちはもう1点を奪いに行くより、リードを守ろうとした。このレベルでは、それでは足りない」
ケインは、アルゼンチン戦で起きたことを最も正確に言い表した。イングランドは前半から先制までは、アルゼンチンと対等に戦った。しかし守備へ比重を移してから、ボールを跳ね返すだけのチームになってしまった。
次のワールドカップで、ケインは36歳になる。バイエルンで公式戦61得点を挙げ、得点力もコンディションも最高水準にあった32歳の大会は、決勝への道を閉ざされた。
メキシコのアステカでは、声が出なくなるまで耐えて勝った。だが、アルゼンチンを倒すには、耐えるだけでは足りなかった。先制後もケインやアンソニー・ゴードンらのアタッカーを使い、相手陣内へ出続ける必要があった。それができなかった37分間が、イングランドとワールドカップ決勝を隔てたのである。
<了>
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