なぜ原大智は「合ってない」競輪転向を選んだのか? 五輪メダリストが選んだ“二つの競技人生”
2018年平昌五輪で、日本男子モーグルとして初めて表彰台に立ち、銅メダルを獲得した原大智は、世界の頂点を争う舞台を経験した後、日本競輪選手養成所に入所し、2020年に競輪選手としてデビューした。2022年の北京五輪まではモーグルと競輪を並行し、オリンピック後に競輪一本へと舵を切った。異なる競技を横断しながら、自身の限界と向き合ってきた競技人生の中で、なぜ新たな挑戦を選んだのか。モーグルとの出会いからオリンピックを目指した日々、競輪との出会い、二つの競技を並行した末に下した決断まで、原の競技人生と、その思考の変遷をひも解く。
(インタビュー・構成=松原渓[REAL SPORTS編集部]、トップ写真=松尾/アフロスポーツ、本文写真提供=公益財団法人JKA)
遊びの延長線にあったモーグルとの出会い
――少年時代は、どのようなスポーツを経験してきましたか?
原:大したスポーツ歴があるわけではないのですが、小学生の頃に習い事でサッカーをやっていたのと、両親がアクティブなタイプだったので、夏は海に行ったり、冬はスキーをしに行ったりと、アウトドアや遊びの一環としていろいろなスポーツに触れる機会がありました。どれも本格的にのめり込んだというわけではありませんが、さまざまな経験ができたと思います。
――モーグルは小学校6年生の頃に始めたそうですね。どんなところに魅力を感じたのでしょうか?
原:冬になるとシーズン中は、毎週末のようにスキーをしに行っていました。当時はまだ子どもだったので、寒いのが嫌で、そこまで熱中していたわけではなかったんです。ただ、斜面にできた雪のコブでジャンプができる場所で遊んでいて、初めてスキーとジャンプが一体になったモーグルという競技を知りました。楽しさとかっこよさを感じたのがきっかけで、モーグルを始めました。
――いつ頃からプロアスリートを意識するようになったのですか。
原:モーグルと出会う前から、オリンピックで金メダルを取りたい気持ちはありました。2004年のアテネ五輪でさまざまな競技の選手が活躍している姿を見て、「自分もああなりたい」と思ったのが最初のきっかけです。まずはオリンピックに出て、金メダルを取りたい。その思いがあって、その舞台を目指す競技がモーグルだった、という感覚です。
金メダルを目指す過程で鍛えられた「心」
――モーグルを通じて、最も鍛えられたと感じる部分はどこですか。
原:一番はメンタルの強さだと思います。オリンピックで金メダルを目指す以上、技術や体づくりは当然必要なものですが、それだけでは勝てません。「これだけやっているのに、なぜ勝てないんだろう」という挫折を何度も味わいました。その経験を通して、心が折れてしまうと、「技」も「体」も止まってしまうと感じたんです。心を鍛えることが、結果的に技術や体も強くすると感じるようになりました。
――その心の強さは、競輪に転向した後も生きていると感じますか。
原:そうですね。競輪はモーグルとはまったく違う世界で、最初からできるとは思っていませんでしたし、ある意味、予想通りまったくできないことばかりで、最初は打ちのめされました。ただ、ここでやめたら笑い者になると思いましたし、中途半端に終わらせることだけはしたくなかった。その思いで、続けてきた部分は大きいと思います。
17歳の出会いが導いた競輪という選択肢
――競輪選手としてのデビューは2020年5月ですが、競輪との出会いについて教えてください。
原:17歳の時、モーグルのナショナルチームのトレーナーさんに紹介してもらったのがきっかけです。その方は整体師で、もともと競輪選手も見ていて、今の僕の競輪の師匠のコンディショニングもしていました。そのご縁で体を見てもらった時に「あなたの体は競輪に向いている」と言われたのが、最初でした。
――競輪にどのような魅力を感じたのでしょうか。
原:自分はスピードを出すことが好きなので、「自転車でここまでスピードが出るんだ」という速度感は、大きな魅力でしたし、純粋に楽しいと感じました。
――競輪を選んだ背景には、将来への現実的な視点もあったのですか?
原:はい。そのトレーナーの方に誘われたことが大きなきっかけではありますが、日本ではスポーツを仕事にできる種目が限られていると思います。世界のトップで居続けられれば問題ないのかもしれませんが、選手寿命が短く、20代後半で引退が近いと言われる競技もあります。その先の人生は長いのに、そこで職を失う不安がありました。セカンドキャリアを考えた時に、競輪という「体を使ってお金を稼ぐ競技性」に、大きな魅力を感じました。
――実際に競輪に触れて、「自分に合っている」と感じる瞬間はありましたか。
原:正直に言うと、「合っている」と感じる部分は一つもなかったです。モーグルという一つの競技を小さい頃から全力で極めてきて、銅メダルは獲れましたが、自分が目指していた金メダルには届かなかった。その経験から、別の競技で上を目指すことがどれほど大変かは、始める前から想像できていました。実際に自転車に乗ってみても、何か特別な才能を感じたわけではなく、完全に素人と同じレベルでした。

二つの競技を背負った日々と、限界の自覚
――2019年には、日本競輪学校(現・日本競輪選手養成所)の特別選抜入学試験に合格しました。養成所に入ってから、イメージしていたことと現実のギャップはありましたか?
原:受ける時よりも、受かって養成所に入ってからが本当に「つらい」の一言でした。特別選抜では、他競技での実績を踏まえて身体能力を評価してもらい、合格を出してもらえました。ただ、長時間の高負荷なトレーニングや、規律の厳しい寮生活など、養成所の環境は本当に厳しかったです。きちんとタイムを出して資格を取ってから入ったほうが、養成所ではそこまでつらい思いをしなかったのかな、と感じる部分もあります。
――モーグルでワールドカップやオリンピックを経験したことは、精神面の強さとして、競輪にも生きていると感じますか。
原:そうですね。モーグルで、つらい時でも逃げ出さないための心はかなり鍛えられたと思います。その強さが一番生きたと感じたのが養成所でした。途中で逃げ出さずにデビューまで持ちこたえられたのは、「目標があるからこそ、逃げずに向き合おう」という気持ちがあったからだと思います。
――2022年北京五輪まで、モーグルと競輪を両立していた時期は、どのようなスケジュールで練習していたのですか。
原:ほとんど休んだ記憶がないですね(笑)。ただ、休まないと成長できないことも分かっていたので、綿密に計画を立ててスケジュールを組んでいました。競輪のほうが課題が多かったので、基本は競輪の練習を軸にしながら、その合間を縫ってモーグルの練習をする形でした。午前中に競輪、午後にスキーの練習、という日もありました。今振り返っても、本当によくやっていたなと思います。
――北京五輪以降にモーグルを引退し、競輪に完全転向したのですね。
原:はい。2つの競技を両立させることに限界を感じていました。モーグルと競輪の2種目を同時に極め続けるのは本当に大変でした。
競輪とモーグル、二つの舞台で報われた瞬間
――2020年5月の競輪デビュー直後、ある程度の結果が出るまでに一番大変だったことは何でしたか。
原:デビュー後はA級3班からスタートするのですが、同期の選手たちはスムーズにステージを上げていく中で、僕は最初のクラスに半期長くとどまりました。そのつらさやもどかしさは、かなり精神的につらかったですね。
――その悔しさを乗り越える原動力はなんだったのでしょうか。
原:一つは目標があったことです。もう一つは、競輪が公営競技だという点です。パフォーマンスが良くても悪くても、結果に対してヤジが飛ぶことがあります。それに対して、「結果で見返そう」という思いが強くなりました。「お前には自転車は無理だろう」と直接言われることもありましたが、そう言われれば言われるほど、反骨心が芽生えて、見返してやろうという気持ちになりました。
――努力が報われたと感じた瞬間は、どんな時でしたか。
原:競輪で次のステージに上がれる見込みが立ち、同時にモーグルで北京オリンピックへの出場が決まった瞬間です。代表選考を突破して北京オリンピックに出場できると決まった時は、「やってやったぞ」という気持ちでした。
<了>
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[PROFILE]
原大智(はら・だいち)
1997年3月4日生まれ、東京都出身。競輪選手。元フリースタイルスキー・モーグル日本代表。日本大学スポーツ科学部競技スポーツ学科出身。小学6年生の頃に競技としてモーグルを始め、新潟県南魚沼郡のNASPAスキーガーデンを拠点に技術を磨いた。16歳でカナダへ渡り、カナディアン・スポーツ・ビジネス・アカデミーに進学。スキー留学を通じて国際的な競技環境を経験した。帰国後はモーグル日本代表として頭角を現し、2017年冬季アジア大会で銀メダルを獲得。2018年平昌五輪では男子モーグル決勝で82.19点を記録し銅メダルを獲得し、冬季五輪のフリースタイルスキー男子種目で日本人初の表彰台に立った。その後、日本競輪選手養成所を経て2020年5月にプロ競輪選手としてデビュー。モーグルと競輪の二刀流に挑戦し、2022年の北京五輪ではモーグルで7位入賞を果たした。同大会後にモーグル競技を引退し、競輪に専念。2024年7月には競輪選手の上位30%にあたるS級へ昇格。現在はA級で戦っており、来季はS級復帰を控え、トップカテゴリーでの定着とさらなる飛躍を目指している。
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