なぜ、日本では佐々木朗希登板回避をめぐる議論が起きるのか? 高校野球改造論

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2019.08.04

7月25日に行われた全国高等学校野球選手権岩手県大会決勝、大船渡対花巻東戦は、その勝敗以上にプロ注目の逸材・佐々木朗希投手の登板回避に注目が集まった。この結果を受けて、甲子園の元名将、プロ野球選手からコメンテーターまでさまざまな意見が飛び交った。作家・スポーツライターの小林信也氏は「佐々木投手登板回避をめぐる発言はその人の本音、スポーツへの眼差しを浮き彫りにする“踏み絵”のようだ」と語る。

(文=小林信也、写真=武山智史)

登板の是非をめぐる野球界の長老たちの反応

佐々木朗希投手が岩手県大会決勝に登板しなかった。この出来事をめぐって議論が噴出している。

横浜高校の前監督・渡辺元智さんはスポニチでこう語っている。

「連投して我慢を覚えさせるという選択肢もあったかもしれない。佐々木君がどこか痛めて投げられないなら仕方ないが、どこかで我慢しながら目指すのが甲子園。少しもったいない気もした」

どこかで我慢しながら目指すのが甲子園……。これを名将の金言と深く同意する人も多いだろう。だが、その発想は現代でも是とされるだろうか?

元千葉ロッテマリーンズのスカウトで、現役時代は巧打者で知られた得津高宏さんは東スポWebでこう語る。

「甲子園を目指していた者としては、大きな違和感を覚えます。監督がプロのこととか考えすぎて、ほかのメンバーのことを考えていない印象を受けます。(中略)甲子園のかかった大事な試合にエースを投げさせないだけでなく、4番打者を打席にも立たせないのはやりすぎではないか」

そしてさらに、こうも言っている。

「あまりに大事にしすぎると、苦しいときに踏ん張れない。すぐにあきらめてしまう選手になってしまうかもしれない」

佐々木投手は、今回の一件で、すぐあきらめる選手になるのか?

7月28日のTBSサンデーモーニングでは、「喝!」でおなじみの張本勲さんが、「最近のスポーツ界で一番残念だった」として、佐々木投手の登板回避を非難した。

「ケガが怖かったら、スポーツはやめた方がいい。将来を考えたら、投げさせた方がいいんですよ。苦しいときの投球を、体で覚えて大成した投手はいくらでもいる。楽させちゃダメ。スポーツ選手は」

甲子園が高校野球の唯一無二の目標だという前提で、長老たちは語っている。そして、我慢や痛みこそが成長につながる、と信じて疑わない思いが伝わってくる。それが長く野球界を支配していた考え方であることが、こうした発言から浮かび上がってくる。

登板の是非は「甲子園幻想」にとらわれているかどうかで決まる

一方、張本さんの発言に対して海の向こうからダルビッシュ有投手(シカゴ・カブス)がツイートし、

「シェンロンが一つ願いこと叶えてあげるって言ってきたら迷いなくこのコーナーを消してくださいと言う」と、ドラゴンボールに登場するキャラクター“神龍”の名を借りてやんわりとだが明確に批判し、1日足らずで12万を超える「いいね」がついた。

菊池雄星投手(シアトル・マリナーズ)は、現地で取材陣にこう語ったという。

「投げる、投げないの問題ではなく、日程を全体的に考えていかなきゃいけない」

これについてはダルビッシュ投手もツイッターで、

「春の地方大会やめて、夏の県大会予選5月からやればいいやん」

と書いている。

こうして見ると言わずもがな。すでに現役を終えた野球界の成功者たちは、ケガをいとわず、監督の厳しい指導に耐え忍んだからこそ、その後の成功があったと青春の日々を美化している。もっと言えば、「ケガなんてして当たり前」「それでも生き残る人間しかプロ野球では生き残れない」という驕った考えが見え隠れする。それは成功者たちの歪んだプライドだと思うが、実際、数十年もの間、そんなサバイバルゲームで生き残った選手だけが栄光をつかんできたのは事実だ。

一方、海外の野球を経験し、日本の野球を卒業(超越)した立場から見ると、日本のとくに高校野球の体質があまりにも旧態依然としている。もっと変化を起こして当然だという確信が窺える。彼らが日本からメジャーを目指したのは、単に「より上のステージ」「巨額の年俸」に魅かれたのでなく、「自分らしく、のびのびと野球ができる」より自由な野球環境に魅かれたからではないか。改めて彼らの真意に触れる気がする。日本の野球選手は、高校生はとくにそうだし、プロ野球選手であっても、古い思い込みと抑圧的な空気の中でいまも生きているのだ。

高校生に「刹那の美学」を押しつける甲子園至上主義

「國保(陽平)監督は佐々木投手を投げさせるべきだった」「甲子園で佐々木投手を見たかった」といった意見は、中高年の野球ファンや野球人に限らない。ことに、高校野球へのボルテージが高い熱烈なファンは若い世代でも長老たちと同じ論調で語っている。

「高校野球を愛している」的な思い込みの強いファンたちは、『選手の痛みには冷ややかで、故障回避を重視していない』傾向を感じる。

ファンもまた、消えゆく故障者には悲劇のドラマを見て涙するが、その彼らが野球を追われ、才能を活かしきれずに消えていく痛みをどこまで感じているのか。佐々木投手の登板回避を批判する人たちの大半は、「だって、オレが見たかった」「楽しみにしていたのに」という自分本位の希望から批判しているように感じる。

理屈があるとすれば、「甘やかしたら伸びない」という言い分だが、連投が成長の必須条件なのかどうか、検証が必要だろう。松坂大輔(中日ドラゴンズ)も、田中将大(ニューヨーク・ヤンキース)も、ダルビッシュも、みんな連投を乗り越えてスターになった。そして、肘や肩の故障を少なからず経験している。

高校野球ファンたちは、高校生たちの「刹那の美学」に酔い、涙し、カタルシスを味わってやまない。それを「高校野球の魅力だ」と決めつけて見直そうともしないのは、主役でもない外野席(観衆)の勝手なセンチメンタルだ。

多くの高校野球ファンが「夢の舞台」だと信じてやまない甲子園は、元々もっと図抜けた才能の持ち主であった彼らにすれば、苦痛の存在だったかもしれない。

私は、ダルビッシュ投手が中学3年だった晩秋に、羽曳野ボーイズのグラウンドで会ったことがある。半分遊びに来ていた彼が、私との他愛ない会話の後、後輩の打撃投手を買って出て、投げて見せてくれた。球の速さ以上に、多彩な緩急を駆使して、打者を翻弄し、楽しそうにマウンドで躍る彼のピッチングに魅せられた。

「このままプロに行ってもいいんじゃない?」と真面目に言うと、ダルビッシュ投手はただ笑って、「球の速さより、バッターを翻弄する投球術の方が好きなんですよ」と言った。プロ野球選手でも、スピードと投球術を併せ持つ投手は数えるほどしか思い浮かばない。私が見た世代で言えば、江川卓、松坂大輔……。その次元のピッチングを見せられたとき、「高校野球をする意味がどこにあるのか?」と本気で思った。

それがこれまでの日本球界の常識だったとしても、「甲子園が夢の舞台ではない」現実だってありえるのだ。

高校野球、スポーツは“治外法権”ではない

最後にひとつ、メディアでもまだ曖昧にされている厳然とした事実を記しておこう。

日本社会は、パワハラやセクハラの完全一掃、コンプライアンスの遵守をすでに社会規範として規定した。いま会社や一般社会で、「ケガが怖くて仕事ができるか!」「俺たちはケガを重ねて一人前になってきたんだ」などと上司が部下に命じたら、どうなる? スポーツ界、ことに野球界は「結果のためなら当然、必要だ」という免罪符を半ば公然と認められ、悪びれず体罰や言葉の暴力も野放しにされてきた。結果を出せば帳消しにされ、むしろ名将、名選手と呼ばれた時代が長くあった。

しかし、もう時代は変わった。たとえ高校野球でも、社会で許されない考え方を強要し、それに応じない選手を罵倒したなら、立派な犯罪者になることを野球人たちは肝に銘じなければならない。もう治外法権の時代は終わった。いつまでも、古い美学をふりかざし反省のない長老たちにはレッドカードを出すのが、メディアやファンの務めではないか。

私は自由を愛する。自由な発想が好きだ。けれど、すべては、ルールとマナーの土俵の上で展開される勝負や表現であることが文化としての発展の基盤だ。

これからを生きる若者にとって最も重要な資質は、未来を予見し、先に行動を起こす先見性と行動力ではないか。高校野球は目の前の1試合、もしくは限られた2年数カ月の期間でしか選手の成長ビジョンを描いてこなかった。

今回の出来事を契機に、「もっと遠くまで見通した上で、いま何に取り組むかを複眼的に感知し行動できる人材を育てる高校球界」に変わればうれしい。

<了>

第7回 なぜ萩生田文科相「甲子園での夏の大会は無理」発言は受け入れられなかったのか?

第5回 いつまで高校球児に美談を求めるのか? 甲子園“秋”開催を推奨するこれだけの理由

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