「本気で国籍を変えようと」パラ・中西麻耶が理不尽な批判に晒されても跳び続ける理由

Opinion
2020.12.21

「信じ抜けば、夢は叶う」というメッセージをテーマに大きな注目を集めている12月25日公開の『映画 えんとつ町のプペル』。さまざまな時代背景から、夢を持つこと、そしてその夢を叶えることが簡単ではなくなっている今、REAL SPORTSではこのメッセージに共感し、「夢を持ち、夢を叶えるために、自分の道を信じて、努力し続ける」アスリートたちの姿や信念を伝えるコラボ企画をスタートする。

今回はその第3弾。突然の事故での右足切断、陸上との出会いからアメリカでの挑戦、義足セミヌード、そして受けた理不尽な批判――。いくつもの苦難を乗り越え、いまもなお陸上界の最前線で活躍を続けながら東京五輪を目指す義足の陸上選手・中西麻耶は、どんな状況にも負けず、なぜ努力し続けられるのか。その道のりを振り返りながら、今の彼女をかたち作ってきたもの、その背景を語ってくれた。

(インタビュー=岩本義弘[『REAL SPORTS』編集長]、構成=REAL SPORTS編集部、撮影=水野真澄)

大事なのは「背伸びをしない目標設定」

――中西さんはこれまで数々の壁を乗り越えてきた「努力の人」という印象がありますが、「自分の道を信じて、努力し続ける」ための秘訣は何だと思いますか?

中西:私自身は、特別なことをしているという感覚はないんです。努力というよりは、自分に見合ったことをコツコツと頑張っているという感じですかね。大きい目標と日々の小さな目標とを区別して、継続的にやるべきことを毎日ちゃんと積み重ねるということだったり。

――やるべきことが分かっていて、あとは継続してやるだけということでしょうか。

中西:そうですね。例えば私が陸上を始めたきっかけは、「テニスに復帰するため」だったんです。テニスのプレーの中の走る動作ができないので、陸上のコーチにリハビリのヒントをもらいに行ったのがきっかけだったんです。そのときは、まだ心のどこかに「テニスのためのリハビリだから」という感覚があったんですね。

ただ、陸上を始めてみると、それがいきなり大きな目標になっちゃうというか、「障がい者スポーツをしたいです」って言うとすぐに「パラリンピック」「世界を」と言われてしまって・・・・・・。

新しいことを始める時は、まずは楽しむことが一番だと思うんです。でも、なんだかものすごく大きいことを成し遂げなきゃいけないような感じになってしまう。私の場合は、あくまでも「小さな目標を積み重ねてきたら世界大会につながった」というかたちなので、「背伸びをしない目標設定」というのがすごく大事かなと思います。

「パラリンピックに出たい」とか「世界新記録を出す」といった大きな目標を口にすることもありますけども、「それを達成するための今なんだ」というのを自分自身に言い聞かせるために言っています。

――昔からそういう考え方で物事に取り組んでいるんですか?

中西:そうですね。だからリミッターもかけていません。東京五輪が延期になった今年、35歳を迎えたので、「今年が最後のチャンスだったでしょう?」と言われることがあったんですけど。私としては年齢で制限をかけているわけでもないですし、いつまでにこの夢を叶えなきゃいけないということもないので、自分自身は特に焦りを感じたりしていないんです。

――2019年のパラ陸上世界選手権の直前に義足の素材を変更したそうですが、パラアスリートにとって義足を変えるという選択はかなり勇気がいることだと思います。その時も迷いはなかったのですか?

中西:何かを決断をする時に、迷いがあって「ちょっと時間ください」っていう場合にも実は自分の心の中にはすでに答えがあって、決断する理由を探すために時間をもらうということのほうが多いんですよ。自分の答えに確信を持てる時間がほしいというか。だから、それが失敗しようがしまいが自分が考えて決断したという行動自体は絶対に正しくて。

だから、ギリギリで義足を変えて失敗していたとしても、あの時にそういう決断をする勇気を持てたことっていうのは、後々いい経験にもなると思うんですよね。ただ、試合に負けた時に「やっぱりあの時、義足変えていればよかった」って思ってしまったらまずいと思うんです。

足の切断もそうです。切断ををしなければ、生身の足は残ったかもしれないけど、後々スポーツをした時に足としての機能が充分に発揮できる足ではなくなった場合、「やっぱりあの時に切断しておけばよかった」となっていたら……。日本では外傷がなければ再手術ができないので、一生後悔すると思うんですよね。だから私は自分が「この道を選んだほうがいいんだ」って思ったら、自信を持ってその道を進むようにしています。

――結局は、自分自身の考えで決断するというのが大事なんですね。

中西:そう思います。自分の中に答えがあったとしても、人に左右されて違う道を進んでうまくいかなかった時って「人を信用したから悪かった」と思ってしまいがちじゃないですか。私は昔から敵は多かったですし、いろいろな経験をしてきた今だから思えることかもしれないですけど、やっぱり自分の人生を自分で決断しながら進んできてよかったなと思っています。

結局、批判する人の中には、私が自分の選んだ道で成功した後で「あの時、本当はそう思っていた」というような人もいますしね。

――何をするにも、手のひら返しをしてくる人はいますよね。今回の『映画 えんとつ町のプペル』は、えんとつの煙で町から空が見えないんです。煙の向こうに「空がある」とお父さんに言われたことを信じている主人公の少年が、みんなからバカにされていじめられていて。でも、煙の向こう側の世界を誰も見たことがないないから、自分自身がその世界を信じるというところからストーリーが始まります。でも、そうは思いながらも批判される時にはやっぱり精神的にダメージを受けますよね?

中西:私自身も、そこまでいろいろ言われるんだったら「あの時死ねばよかったのに」って思うくらい、すごく精神的に参ったことはもちろんありました。でも、その人たちにとっても自分にとっても死ぬという選択が正解ではないだろうと思い、踏みとどまることができたんですけど。それにはかなり強いハートも必要でしたし、思い悩んで無駄にした時間もあったと思います。

お金もない、味方もいない。ものすごく孤独だった

――これまでで一番大変だったのは、いつ頃ですか?

中西:やっぱり2009年から2013年の間。「このまま日本でやっていてもしょうがない」と思ってアメリカへ本拠を移したんですけど、日本を飛び出すのがすごく大変で、それに対してのバッシングもものすごかったんです。まだ(日本パラ陸上競技)連盟としても海外に拠点を置く選手への対応をどうすればいいのかも分からなかったと思うんですよね。

当時は、日本選手団としてパラリンピックに行って、日本選手団として来ているスタッフにコーチングもお願いするというのが一般的だった中で、私は自分のことを一番よく知っていて、4年間一緒に目標へ向かって日頃から練習を見てもらっているパーソナルコーチを一緒に連れて行ったんです。

それまでそういう選手がいなかったので、きっと受け入れがたいことだっただろうし、パーソナルコーチをつけたり海外でやってみたいという選手が今後出てくるのか分からない時代に、ルールを変えるのも難しかったんだろうなと思います。一緒に頑張ってくれる人もいない中で「なかった道を作ろう」と必死になっていたのに、そのすべてを否定された状態だったので、あの時代はやっぱりすごくきつかったですね。

――実際にアメリカへ行って、現地ではどうでしたか?

中西:アメリカでは、やっぱりギャップが大きかったですね。アメリカの選手はナショナルトレーニングセンターでトレーニングしていたんですけど、それができるということは国からサポートを受けているということ。一方で私はまったくサポートがない状態でした。

だから大会一つ出るにしても、アメリカの選手は渡航費から何から出してもらえているのに、私はまずお金を準備しないと大会にエントリーすらできない。「この大会があるからいつまでにエントリーしてね」と言われて、「エントリー料いくらかな」とか、「飛行機いくらで乗れるかな」とチームメートに話すと、鼻で笑われるというか。「アジア記録も持っているのに、あなたが出すの?」みたいな感じで言われちゃって。

同じ練習をして同じ努力をしているのに、全然評価が違う。やっぱり私も人間だから「なんで同じ評価をしてもらえないのかな」ってものすごく感じましたし、「海外でやるなら応援できない」というスポンサーも多く、当時の資金はほぼ自分の貯金を切り崩して、借金も作ってやっている状況でした。お金もない、味方もいない。ものすごく孤独でした。

――本当に大変な状況を、よく乗り越えられましたね。

中西:やっぱり、アメリカの仲間の存在というのは大きかったですし、何よりアル・ジョイナーコーチ(以下、アル)は、今振り返っても自分の人生の中でもすごく大切なことを教えてくれたコーチで、大きな存在です。選手たちも競技者としてはもちろん、一人の人間としても尊敬できる人ばかりでした。その中にいられて、彼らに認めてもらえている事実を失いたくなかったから「何が何でもこの場にいたかった」っていう思いはありました。

――すごいですね。世界トップレベルの場所にいられて認められるというのはもちろん素晴らしいことだと思うんですけど。とはいえ、周りの人たちは恵まれていて、自分だけ苦しい状況というのは本当に葛藤があったと思います。

中西:そうですね。本気で国籍を変えようとか、いろいろ考えました。実際にはやっていませんが、チームメートのアメリカ人男性が「僕の籍に入ればどうにかなるし、僕は別に夫婦生活を望んでいるわけではない。頑張っている姿を近くで見ていて、何か君にできることはないかと思って考えた」というふうに言ってきてくれたこともあったんですけど。

なんか、本当に悔しかったですよ。競技で見れば本来ライバルじゃないですか。性別は違っても、国ごとに競うのがオリンピック・パラリンピックですから。そんなライバルの国の選手に対してここまで考えてくれるのに、「なんで同じ日本人が、こんなに私のことを嫌うんだろう」っていうのは……。

――当時の日本は今以上に、人と違う行動や意見に対して批判的だったのかもしれないですね。

中西:そうだと思います。その後「あの時代はなんだったんだろう」って思うぐらい、みんなパーソナルコーチをつけるようになったし、「積極的に海外遠征をして力をつけてきてほしい」という流れになっていて。

中西麻耶の陸上人生を大きく変えた「恩師の言葉」

――パイオニアだからこその苦労もあった中で、その状況を乗り越えられたきっかけは何だったのですか?

中西:アルに「好きになってほしいなら、自分も相手のことを好きになる努力をしなきゃいけない」という話をされたことがあって。例えば結婚でも、他人同士が一緒になるということは好きな部分もあるけど「ちょっとそれは」って思う部分ももちろんある。でも総合的に「やっぱりこの人のことを好きだな」って思うのは、相手を好きになる努力もしているから。

悪いところばかり見ようと思ったらそこばかり見えてしまうじゃないですか。アルに「お前は嫌いになる努力しかしていなくて、好きになる努力をしていない」って言われたんです。その時、アルとの唯一の大喧嘩になって。私は「自分のことをこれだけ文句言われているのに、どうしたらその人たちに対して『私あなたのことを好きになる努力するわ』みたいな気持ちになれるのよ」みたいに言っていたんですけど。

でも、いろいろ話しているうちに腑に落ちることがたくさんあって。私の場合は日本を思っているからこそ「なんでなの」って思うことがたくさんあったと思うんですけど、自分の中では日本に対して感謝の気持ちを持っていても、やっぱり口に出さないと伝わらないですよね。その「なんでなの?」の部分しか言っていなかったので、聞く人からしたら「文句ばかり言いやがって」と受け取れるなということにも気づいて……。

――なるほど。

中西:だから理不尽なことがあっても、「それを受け入れること」「そういう意見もあるんだなと思うこと」も、相手を好きになる努力だと思うんですよね。なので、アルと大喧嘩をしたあとに「自分ももっと日本のことを好きにならないといけないし、日本に対して感謝しなきゃいけない。私がそうできなければ、日本の人たちが私に対して感謝することはないよな」と思うようになりました。

2013年に一度引退して復帰する時に、アルと約束をしたんです。自分も故郷を好きになる努力と、故郷に感謝の気持ちを伝える。そしてやっぱり結果を残すだけじゃなくて、人間としての価値も高めていって、故郷にとって必要な人物になれるようにやっていきたいって。

――一度引退した後に、また現役復帰しようと思ったのは?

中西:引退しても、批判してきた人たちが「引退してくれてありがとう」とか言ってくるわけでもなく、自分が陸上界に存在していたのかすら分からないような感じで時間がただただ流れていくだけだったんです。引退という決断が何にもならなかったんですよね。そんな時にアルはずっと「復帰しろ」と言ってくれて、さっきのような話もしてくれていました。

もう一つの理由は、これだけ海外に行って海外のノウハウを持ち帰って、「日本に対して何かできないか」と思っていたけど、当時の日本は、そもそも海外に行ってほしくないという雰囲気。パーソナルコーチをつけてやるというシステムを作りたいわけでもない。「障がい者陸上界にいるべきではないと思うのなら、普通に陸上をやればいいじゃないか」って言われたんですけど、当時の日本では、障がい者は健常者の大会に登録すらできなかったんです。

一方でアメリカへ行った時は、以前は海外選手を受け入れていなかった中で、2008年の北京五輪後からもっと練習環境を国際的な場とすることでレベルアップを図りたいという時期にちょうどタイミングが重なり飛び込むことができた。これまでいろいろなことに挑戦して、その中に飛び込んできたのに、その時「健常者の大会にはエントリーできないから」と諦めるのはおかしいだろって言われたんです。

当時の記録は4m90cmくらいで健常者の大会に出たら中学生でも跳べてしまう記録でした。でも障がい者の大会では誰にも負けることがなくて「私はアジア記録保持者です」って言えた。

私はそれまで、健常者と同じように扱ってほしいとも思っていましたし、それだけのことをやっている誇りもあったんですけど、「アジア記録保持者だとか、そんな小さなプライド捨ててしまえ」って言われてはっとしたんです。やっぱり心のどこかで自分が「障がい者」ということを武器にして都合のいいようにやっているのかもしれないということに気が付いたんですね。世間に対しても、自分に対しても嘘をついている感じがして。それで、「やっぱりもう一回、純粋に陸上をやってみたいな」というふうに思って、もう一度復帰することにしました。

――復帰を決めた時に、心の持ちようみたいなものも大きく変わったんですね。

中西:変わりましたね。ちゃんと感謝するようにもなりました。例えば、テニスって試合前と試合後必ず審判の人にも挨拶するし、選手同士でも握手してコートを去るんです。陸上では審判の人にも一緒に戦ったライバルたちにも挨拶することもなかったなと思ったんです。復帰してからは、大会が終わったら必ず役員の人、審判、選手たち、そして観客席にもお礼を言うようになりました。あとは純粋に「私、陸上が好き」っていう気持ちでやれるようになったので、笑顔がすごく増えたなと思いますね。

――再スタートを果たしてから陸上への向き合い方も変わって、今後はさらにどんな目標を置いているのですか?

中西:やっぱりスポーツって、ただ競技をやるだけでなくて、練習で経験したことや感じたことだったり、海外や国際試合でいろいろな異文化と触れて感じたことなどを、しっかりと社会にアウトプットして、「結果を残す」ということ以外の「存在価値」というものを作っていきたいなと思っています。

<後編はこちら>

<了>

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PROFILE
中西麻耶(なかにし・まや)
1985年生まれ、大分県由布市出身。義足の陸上競技選手。高校時代にソフトテニスでインターハイに出場経験を持つ。2006年に勤務先の事故で右ひざから下を切断。2007年から陸上を始め、陸上へ転向直後に100m、200mで当時の日本記録を樹立。2008年に北京五輪、2012年にロンドン五輪、2019年にリオデジャネイロ五輪とパラリンピック3大会連続出場を果たす。2016年には走り幅跳びでアジア記録・日本記録を3度更新。2017年世界パラ陸上競技選手権大会ロンドンで銅メダル、2019年ドバイで金メダルを獲得。現在は東京五輪での金メダル獲得を目指しトレーニングを重ねている。

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