
「一発で勝負を決めに…」マラソン日本記録・鈴木健吾、奇跡生んだ世界と戦える武器とは?
日本記録となる2時間4分56秒。2月に行われたびわ湖毎日マラソンを驚きの結果で制した鈴木健吾。キュートな笑顔と、実直な性格の持ち主であるかつての“学生最強ランナー”は、悩まされ続けてきたケガと向き合いながら、いかにして頂点に上り詰めたのか。鈴木の底知れない“強さ”につながった、マラソンランナーとしての3つの素質をひもとく。
(文=守本和宏)
にわかには信じがたい“ヤバい記録”の伏線
2月28日、びわ湖毎日マラソン。1946年に第1回が行われた「日本最古のマラソン大会」も、今年が最後。そのフィナーレで、鈴木健吾(富士通)が日本記録となる2時間4分56秒のタイムを叩き出し、優勝した。
自己記録を5分25秒更新する、素晴らしい走り。風が強く、記録が出にくい難コースで奇跡的にコンディションが安定していたこと。36km過ぎの給水を取り損ねてからのスパート、終盤で早まるラップタイム。そして、日本人初となる2時間4分台の記録。どれもが、にわかには信じがたい現象・功績である。
レース後、本人でさえ父に電話をかけ、「お父さん、ヤバいよね?」と言ったというが、リオデジャネイロ五輪の金メダルタイム2時間8分44秒をも凌駕する、本当にヤバい記録だ(時期もコースも全く違うため比較に意味はないが、一つの指標として)。
ただ、彼の想定以上の走りを見て、思い出したレースがある。
少し古い話で恐縮だが、東京五輪日本代表選考レース、2019年9月のMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)だ。
直前の取材で、彼はこう言った。
「(MGC出場選手の中で、僕が)実力的には一番下といっても過言でない」
しかし、である。ふたを開ければ、レース終盤、37km前後の給水ポイント。一気にスピードを上げて、そこまで1位独走だった設楽悠太を抜き、先頭にたったのは鈴木健吾だったのだ。
「実力的に見れば一番下」と話す鈴木健吾がトップに立った瞬間
MGC直前の取材で、本人から聞いたこと。それは彼の状態が、トップを狙えるような状況ではないとの情報だった。
富士通に入社して2年。箱根駅伝の活躍により、“学生最強ランナー”と期待された鈴木健吾だったが、社会人入りした時点ですでに故障を抱えた状態。駅伝もトラックレースも満足に走れず、なんとかマラソンで、と獲得したMGC出場権だった。それも、東京マラソン2018(2時間10分21秒[19位])とハンブルクマラソン2019(2時間11分36秒[13位])の平均タイムによるワイルドカード。本当に最後の出場枠である。
その状況を鈴木健吾も、十分に理解していた。
「MGC出場権を獲得できたのも、一番最後。実力的に見れば一番下といっても過言ではないと思っています。だからこそ、次につながるレースにできると思うので、レースの中でも挑戦を忘れないようにしたい」
そう本人が語るので、上位は難しいだろうと、予想していた矢先のMGCである。
「30km以降、時間でいうと90分以降の後半は苦しくなってくるので、いかにペースを落とさず、さらに上げていけるかが一番重要だと思っています」
そう語っていた後半37kmの勝負どころ、あえて自分でペースアップを仕掛け、鈴木健吾は先頭に出た。調子は上向きでも、スタミナも他選手に比べて劣っていると、自分でも評価していた。それでも、だからこそ、先頭に出るのだ――そんな、彼の意志の強さを感じるスパートだった。
自分の実力で勝つのは難しいと、分析する。でもここで行くしかないと、決意する。そして勝負できるタイミングで実行し、やり抜く。言葉にするのは簡単だが、これをそろえられるアスリートはまれにしかいない。
最終的にMGCは、やはりスタミナが最後まで持たず、2時間12分44秒の7位でフィニッシュ。鈴木本人は、このレースを「こんなんじゃ戦えないと厳しさを痛感した」と回顧する。
ただ、筆者にとっては鈴木健吾の底知れない“力”。“強さ”とも言い換えられる可能性を、強く感じるレースだった。
びわ湖毎日マラソンで見せた、地道な積み重ねの成果
びわ湖毎日マラソンも、その“強さ”が際立ったレースだったと思う。
MGCから、コロナ禍をはさみ、約1年半。2020年3月のびわ湖毎日マラソンは終盤で失速して12位。以降はウェイトトレーニングを強化し、ケガしにくい体を作りあげた。「もっと走力をつけたい」とトラックにフォーカスしたが、2020年12月の日本選手権10000mは33位。「改めて『マラソンしかない』」と考え、2021年のびわ湖毎日マラソンの出場を決めた。
そして迎えた、2021びわ湖毎日マラソン。
日本記録更新も視野に入れた1km2分58秒のペースメイクが設定されたレース。鈴木は序盤、集団に紛れながら、冷静に力を温存。これまで、終盤の失速が何回かあったことを考慮した、頭脳的な走りを見せる。
中盤、25km付近で周りの選手が仕掛けた時も「余力はかなりあったが我慢した」と様子をうかがった。そして圧巻だったのが、ラストの走りだ。
36km過ぎ。給水に失敗したタイミングで、一気にスピードを上げて、残りの2人を振り切って単独トップへ。「ちょうど給水を取り損ねたので、2人いたんですけど、顔色を見ていけると思った」とスパート。前半から蓄えた力を開放し、これまでよりも速いペースで、最後まで走り切る。
35~40kmのタイムは14分39秒。ラスト5kmは14分23秒。この最後のペースアップこそが世界と戦える走りだと、有識者は評価する。
しかし、日本初の2時間4分56秒という記録にも、本人は全く浮ついた様子はない。
「こんなタイムが出るとは思わなかったので、正直自分が一番びっくりしています」と、いつも通り、謙虚かつ自然体だ。
「今までケガをすることが多かったので、ケガしないように練習を継続して、しっかりやっていくことが大事だと思っています」と語る、鈴木健吾の走りを見ていると痛感する。地道な積み重ねこそが、どれだけ大切であるのか。
MGC前、鈴木健吾が掲げたボード。強みは「走ることが好きなこと」
彼に、マラソンの醍醐味とは何か、聞いたことがある。
「マラソンに挑むにあたって、3~4カ月のトレーニングは心身ともにキツく、妥協したくなる時も、もっと練習したくなる時もあります。長いスパンの中では、自分の良い部分も悪い部分も見えてきますが、それをコントロールして乗り越えていかなければならない。走っている距離も長いし、トレーニング期間も長いので、自分と向き合う必要があります。それを大変に感じる人もいると思いますが、私にとってはそれがマラソンの魅力です」
箱根駅伝の時も、ケガの時も、調子が良い時も、自分らしい陸上人生を積み上げてきた鈴木健吾は語る。
「今回僕が一発で勝負を決めにいったように、一発、爆発的なタイミングで勝負ができるような余力度だったりをこれから磨いていかないといけない」「東京の代表にはなれなかったが、パリ(五輪)を見据えて、しっかりコツコツやっていきたい」
振り返れば、MGC2日前の記者会見。“自身の強み”をフリップボードに書いた時のことだ。鈴木健吾は、ボードにこうに書いた。
『走ることが好きなこと』
好きで勝てるほど、甘い世界でないのはもちろんだ。ただ、好きだからこそ打ち込む練習、飽くなきチャレンジが生む奇跡もある。そんな筋が一本通った鈴木健吾の強さに、明るい未来が待つことを、心から願いたい。
<了>
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