
ヴィンセント・ジョウが味わった慮外の挫折も、不可能を可能にする凄み。宇野昌磨も感嘆する精神力
シニア1年目で迎えた平昌五輪でいきなり6位入賞を果たし、翌シーズンの世界選手権ではネイサン・チェン、羽生結弦と共に表彰台に上った。だが決して順風満帆なスケート人生ではなかった。挫折も味わった。そして、もっと強くなった。ヴィンセント・ジョウは、北京でさらなる輝きを放つはずだ――。
(文=沢田聡子、写真=Getty Images)
昨季世界選手権で25位、まさかのショート落ちで味わった挫折
「人生は時々、カーブボールを投げてきます」
北京五輪出場枠の獲得が懸かった昨季の世界選手権(3月、ストックホルム)のショートプログラムでミスが重なり、25位でフリーに進めなかったヴィンセント・ジョウ(アメリカ)は、そう語っている。
「今日の経験を生かして成長し、次はもっと強くなりたいと思います」
2017年世界ジュニア選手権王者であるジョウは、シニアに上がった翌シーズンは平昌五輪に出場、6位という成績を残している。2019年にさいたまで行われた世界選手権では3位に入り、優勝したネイサン・チェン(アメリカ)、2位の羽生結弦と共に表彰台に上がった。頭脳明晰(めいせき)で知られるジョウはブラウン大学に通う大学生でもあり、2019-20シーズンは学業のためグランプリシリーズを欠場したが、昨季はグランプリシリーズ・スケートアメリカから出場している。北京五輪プレシーズンの大一番となる世界選手権での、まさかのショート落ちだった。
スケートアメリカで見せた、不可能を可能にした“すごみ”
ジョウは予想外の結果となった世界選手権・ショートの数日後、自身のインスタグラムで、ストックホルムへ出発する前に足首を痛めていたことを明かしている。この世界選手権で、アメリカは北京五輪出場権を最大3枠ではなく2枠のみの獲得にとどまった。しかしジョウは、今年9月に行われたネーベルホルン杯で優勝し、自らの言葉通り自力で母国に北京五輪出場権の3枠目を持ち帰っている。
そして、ジョウがさらに成長した姿を見せたのが、今季グランプリシリーズ初戦となるスケートアメリカ(10月21~24日、ラスベガス)だった。ショートで2種類2本、フリーで4種類5本の4回転を着氷させ、世界王者チェン(3位)や平昌五輪銀メダリスト・宇野昌磨(2位)を抑えて優勝を遂げたのだ。すごみさえ感じさせたフリーを終え、ジョウはキスアンドクライで結果を知り、感極まったように顔を覆っている。
「まだ実感が湧きません。このような結果を期待していたわけではありませんが、自分に期待していたのは、可能な限りの準備とトレーニングをすることでした。毎日ホームリンクでそのことに集中することで、不可能と思われていたことが可能になったと思います」
宇野昌磨が感嘆するほどの精神力。誰よりも厳しい鍛錬を積んできた
宇野は、再びジョウと一緒に出場することになったNHK杯(11月12~14日、東京)の記者会見で、スケートアメリカでのジョウについて振り返っている。
「この前のアメリカ大会で、ヴィンセント選手は、出ている選手の中で一番ショートプログラム、フリープログラムともに滑り込んでいる(と感じた)。僕は全員の選手を見ていないから分からないですけれども、多分見る限りこのシーズンオフ、そしてアメリカ大会まで、誰よりも練習していたんだな、ということが(公式)練習から見て取れました。いつか(ジョウの)日々の練習を見る機会があれば、それ以上に練習できる精神力を持って練習に励みたいと思っています」
「スケートに対する日々の気持ちというのは、公式練習一つを見れば、どの人がどれぐらいの気持ちでやっているのかなんとなく分かる」という宇野が感嘆するほど、ジョウはシーズンオフから厳しい鍛錬を積んでいたのだ。
五輪イヤーに選んだのは、3年前に銅メダルを獲得したプログラム
NHK杯のショートプログラムでは、ジョウは宇野に次ぐ2位発進となった。ジョウは、ショートで自らの名前と同じタイトルの曲『Vincent』を使っている。冒頭の大技、4回転ルッツ―3回転トウループは3.61の加点がつく出来栄えで成功。4回転サルコウ、トリプルアクセルは4分の1の回転不足と判定されたものの、スピン・ステップは全てレベル4をそろえ、完成度の高い滑りを見せる。緩やかな曲に乗ったジョウの伸びやかなスケーティングが温かい雰囲気を醸し出す、心のこもったプログラムだった。演技を終え、客席で起こったスタンディングオベーションに応えるように両手でハートを作ったジョウは、記者会見で日本のファンへの感謝を語っている。
「日本のお客さまが温かく声援を送ってくださり、素晴らしい東京で、この素晴らしいアリーナで滑れることをうれしく思っています」
北京語も話せるという中国系のジョウは、今季のフリーに中国をテーマにした映画『グリーン・ディスティニー』の曲を選んだ。フリー後の記者会見で、この音楽の選択はオリンピックの開催地が北京であることに関係あるのかと問われたジョウは、次のように答えている。
「この曲は2018-19シーズンでも使っていて、とても成功しました。コスチュームも大変良く、本当にお客さまの反応が良かった作品の一つです。力が高まっていくような曲で、自分の中でも気持ち良く滑れると思っていました。自信を持てるプログラムで戦っていきたいですし、自分が気持ち良く落ち着いて滑れる曲がたまたまオリンピックの舞台にもぴったり合うものだったということだと思います」
2019年世界選手権で、さいたまスーパーアリーナを埋めた大観衆を魅了して銅メダルを獲得した時に滑った曲は、北京五輪を目指すジョウの背中を押してくれるのだろう。
不本意な出来に終わったNHK杯。だがその失敗も次につなげる
しかし、NHK杯のフリーは不本意な出来になってしまう。最初の大技である4回転ルッツは、パンクして1回転になってしまった。続く4回転フリップは決めたものの、3本目の4回転となるサルコウは軽度の回転不足と判定され、次の4回転トウループも回転が4分の1足りなかった。スピン・ステップはすべてレベル4だったものの、後半に跳んだ4回転1本、トリプルアクセル2本にも軽度、または4分の1の回転不足がついている。ジャンプの回転不足はジョウの課題でもあり、スケートアメリカではやや克服したかに見えたものの、NHK杯では再び悩まされることになってしまった。
銀メダリストとして臨んだフリー後の記者会見で、ジョウは「今日のフリーは非常に残念でした」としつつ、「ただ、これがオリンピックではなかったということがありがたい」とも語っている。
「このような失敗を一回やっておけば、もうよかったんじゃないかなと。(北京五輪のある来年)2月にこんな失態をさらけ出したくないなと思いました」
「(フリーのジャンプ構成である)4回転5本は、一つ一つが重要な礎で、良いプログラムにつながると考えています。4回転5本の構成は、必ずしも全ての試合に勝つために必要というわけではないと思います。ただ、このチャレンジにぜひ挑んでみたいと思わせる構成でもある。一貫して練習を安定させることによって、初めて4回転5本を跳べると思います。全てを行うのは難しいことなので、ステップバイステップ、一つ一つやっていかなくてはいけない」
北京五輪に懸ける想いが、ヴィンセント・ジョウを突き動かす
フリーの内容は不本意だったとはいえ、スケートアメリカに続きNHK杯でも表彰台に上がったジョウは、グランプリファイナル進出を果たしている(※)。競技生活の中でも特に厳しい経験だったと思われる昨季の世界選手権後、北京五輪シーズンを控えたジョウはどのように立て直しを図ったのだろうか。
ジョウは「間接的にではありますけれども、昨季の世界選手権が、今季の安定した結果につながっているのかもしれませんね」と語る。
「チーム全体で、いろいろな要因やトレーニングを考え直しました。一つ一つ見直したことが一貫性を持った一つの公式になって、トレーニングが安定し、うまくいくようになったのかもしれません。一ついえるのは、反省をどう生かしたかということ。チームと私自身が、落ち着いてスマートなアプローチで、もう一度トレーニングを一から組み直した結果だと思います」
3月のストックホルム、観客がいない会場で、人生が投げてきたカーブボールを真正面から受け止めたヴィンセント・ジョウは、北京への道を真っ直ぐに歩んでいる。
(※編集注:12月2日、日本スケート連盟は9日から大阪で開催予定だったグランプリファイナルの中止を発表した)
<了>
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