小松原美里&尊が「和」の心で表現する『SAYURI』。試練の日々に立ち返った原点、流した涙の意味…
その瞬間、2人は立ち上がり、そして抱き合った。2021年全日本フィギュアスケート選手権、アイスダンス。北京五輪最終選考会を兼ねたこの大会、優勝が決まったと知りキス&クライで流した涙。苦しみの日々に、「なぜ2人でスケートをしているのか?」と自らに投げ掛けた問い。小松原美里と小松原尊は、つかみ取ったオリンピックの舞台で、日本代表の誇りと「和」の心を表現してくれるだろう――。
(文=沢田聡子)
北京五輪シーズンのフリー『SAYURI』に込められた強いメッセージ
「言葉と滑っている」
全日本選手権(2021年12月)でフリーダンス『SAYURI』を滑りながら、小松原美里はそう思ったという。英語で入っていたナレーションを俳優の夏木マリさんによる日本語バージョンに換えたことで、言葉の意味を真っすぐに受け止めることができたのだ。この大胆な変更は、小松原美里&小松原尊組の「日本の皆さまと物語を共有したい」という思いによるものだった。リズムダンスで首位発進した後、美里はフリーダンスへの意気込みを語っている。
「“私たちは日本代表だぞ”ということを滑りで出して、皆さまにも伝わればいいなと思います」(美里)
日本のカップルの中では2位に終わったNHK杯(同年11月)で、美里はこのプログラムに対する強い思いを口にしている。
「このプログラム『SAYURI』は、自分たちの競技人生のハイライトになるのではないかと思っている作品です。映画の中でも、水は石を貫くし、せき止められても自分の道をつくるという強いメッセージがあるので、それを皆さんと共有したいし、自分の力にしたいと思います」
「水は石を貫く」――まさにこの言葉通り、小松原組は北京五輪へ続く自分たちの道を切り開いた。
驚異的な成長を続ける村元哉中&髙橋大輔組との熾烈な代表争い
北京五輪アイスダンスの日本代表枠は1つしかない。その1枠を巡り、全日本選手権3連覇中の小松原組と、昨季の結成から驚異的な成長を続ける村元哉中&髙橋大輔が競うことになった。昨季の全日本では貫禄を見せて優勝した小松原組だが、今季のNHK杯では村元&髙橋に敗れている。
NHK杯フリー後のミックスゾーンで、尊は涙を見せている。彼らはスケートアメリカ(同年10月)に出場した後、ビザの更新ができず練習拠点のカナダに戻れなくなっていたのだ。
「モントリオールの先生に会えない状態では、自分の心が壊れてしまいます。本当に、なぜ今一緒に練習できないのか。自分の人生の中で一番大切な時間で、2人とも頑張っているから、自分たちに自信を持ちながら……でも、やっぱりつらいところです」
また、美里は肘の靭帯を損傷していたことを明らかにした。
夫婦である美里と尊は、公私を共にするカップルだ。アメリカ生まれのティム・コレトが、苦労の末に日本国籍と「尊」という日本名を得て、オリンピック日本代表となることを目指してきた。お互いさまざまなパートナーと組んできた経験を持つ苦労人の2人にとって、NHK杯から全日本にかけての日々は正念場だったといえる。
「NHK杯は大きなターニングポイントだった」と美里は言う。確かに、NHK杯での2人はどちらも精神的に落ち込んでいることが、はた目からも明らかだった。美里は、NHK杯での自らのインタビューを見て「この子、弱いんじゃないかな」と感じたと振り返っている。
根源的な問いで立ち返った原点。「お互いに、個人的に、強くなれた」
苦しむ2人は、「なぜ2人でスケートをしているのか?」という根源的な問いを自らに投げ掛けることで、再生への一歩を踏み出すことになる。
「地元(倉敷)で練習することもできましたし、すごく立ち返った。『自分たちでどうにかしなくては』と思ったし、元の深い部分に2人で気付けたなと思いました。『点がどうだろうと、滑っているのは楽しい』ということに強く気付いたので、それで毎日練習していたら、お互いに、また私も個人的に、強くなったかなと思います」(美里)
2人は、メンタル面の改善のための科学的なアプローチも行っている。
「2人でスポーツメンタルの先生のクラスを受けたり、個人では毎週メンタルの先生にお世話になって、しっかり準備できたと思います。“吐き出して、それから構築していく”ということができました」(美里)
また、全日本に向けて技術の改善も図った。
「(リズムダンスの)パーシャルステップはNHK杯からまるまる変えたような形で、自分たちが一番レベルを取れるターンをどの角度で入れるか、どのタイミングで入れるかを、ビデオなどを使って研究してきました」(美里)」
検査の結果、美里の肘は深刻な状態ではないことも分かった。
迎えた全日本、リズムダンスでいきなり失敗も…「悔いのないように笑顔でいたい」
しかし万全を期して臨んだ全日本、リズムダンスの冒頭に最初の要素として行うツイズルで、美里はバランスを崩すミスを犯す。
「すごく元気で『全て出すぞ!』という気持ちで臨んだら、押し過ぎた」(美里)
その後、美里はミスをした自分への怒りをエネルギーに換えて滑り続ける。
「第1エレメンツのツイズルから失敗をしてしまって、そこからすごく(自分に)怒っていたので、力としてはすごく元気な演技ができたと思います」(美里)
そして、2人は冒頭のミスに動揺することなく滑り続けた。
「1年前のチームココ(小松原組)だったら、多分そのミスがあったまま、そんなにいい演技を出せなかったと思います。それはチームココの成長だと思いますので、そのおかげで点が出た」(尊)
リズムダンスでは村元&髙橋組に思わぬ転倒があったこともあり、小松原組は4点以上の差をつけて首位に立つ。トップに立ったことをどう受け止めるかが彼らのフリーダンスでの課題であるように思えたが、順位への意識より強く美里の中にあったのは、リズムダンスでミスをした自分に対する怒りだった。
「リズムダンスとフリーダンスの間に1日あるということで、大会の前から、自分がどういう気持ちになるのかシミュレーションしていたところがありました。だけど、その予想をはるかに超えて怒りがすごかったんですよね。『ツイズルを失敗してしまった、絶対リベンジする!』っていう気持ちだったので。順位ももちろん気にしますけど、『ベストな演技をして、悔いのないように笑顔でいたい』って思っていました」
尊も「選手にとって自分のベストしかできないから、頑張ることに集中しています」と語っている。
日本代表の誇りと責任感を胸に…北京の地で表現する「和」の心
フリーダンス『SAYURI』は、小松原組の思いがこもった迫力ある演技となった。日本的な所作を指導した歌舞伎役者の片岡孝太郎さんは紫のネクタイを、夏木マリさんは紫のジャケットを身に着けて、客席で見守る。「日本の高貴な色」と美里が定義する紫の衣装に身を包んだ2人が、重厚なメロディと夏木マリさんによる深い声音のナレーションに乗って氷上を駆ける。持ち味である華やかなリフトと2人が一体になったスケーティングで、和の世界をリンクに描き出した。
キス&クライで優勝したことを知った美里は立ち上がり、尊と抱き合っている。NHK杯よりフリーダンスの得点が6点近く上がったのは、美里と尊が苦しみの中で原点に返って自らを見つめ直し、前に進むことを諦めなかったからだろう。
小松原組は、全日本4連覇を果たした。ミックスゾーンで村元&髙橋について問われ、美里は好敵手に敬意を表している。
「一番違ったなと思うのは、『ここで、この練習終わっていいのかな』というときに『いや、頑張らないと』という起爆剤になりました。感謝しています」
翌日、小松原組は北京五輪代表に選ばれ、記者会見に臨んだ。
「日本のアイスダンスのレベルが今すごく上がっているし、注目度も上がっていて。(自分たちが)しっかり上にいかないと、裾野が広がらない」
美里が代表としての責任感をにじませる一方、尊は「いろいろなことを乗り越えた強さもあると思っている」と静かな自信を口にしている。
その後取材に応じた美里が語ったところによると、夏木マリさんのナレーションによる「日本語バージョン」の『SAYURI』を、北京五輪で再び演じる可能性があるという。苦闘を経てオリンピック日本代表となった小松原組は、誇りと責任感を胸に、北京の地で「和」の心を表現する。
<了>
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