
「日本のスポーツ界は結果が出てしまったらもうおしまい」。町田樹が募らせる危機感、スポーツアーカイブの現状とは?
元フィギュアスケーターの町田樹さんが現役時代に見せた数々の名演技は、今も色あせぬ記憶とともに胸に刻まれている。自らの演技で運命を切り拓いてきた“氷上の哲学者”は現在、スポーツ科学の研究者として日本のスポーツ界の未来を切り拓く旅路を歩んでいる。
日本スポーツ界の枢要施設が、機能不全に陥っている――。
そう危機感を募らせる町田さんが、「日本のスポーツアーカイブを取り巻く現状」を話し始めた。
(インタビュー・構成=沢田聡子、撮影=浦正弘)
町田樹がスポーツ科学の研究者として抱く危機感。「スポーツアーカイブ」とは?
7月某日、千葉県船橋市のとある倉庫に、町田樹さんの姿があった。
自身が企画・構成・出演を務めるスポーツ教養番組『町田樹のスポーツアカデミア』(J SPORTS)の収録のため、移転中の秩父宮記念スポーツ博物館・図書館を訪れていた。
2014年ソチ五輪5位、同年の世界選手権2位の実績を持ち、引退後はプロスケーターとしても唯一無二の存在感を放った町田さんは、現在スポーツ科学の研究者として活動している。今回町田さんが冠番組で秩父宮記念スポーツ博物館・図書館を取り上げることにしたのは、日本スポーツ界が世界に大きく後れを取っているスポーツアーカイブに強く問題意識を持っているからだ。
同博物館は日本スポーツ界の歴史が刻まれた資料や文献を保存し継承する国内随一のスポーツアーカイブ機関で、かつて旧国立競技場に設置されていた。だが東京五輪の招致決定後、国立競技場の建て替えに際して立ち退きを命じられた。2033年に完成予定とされている新秩父宮ラグビー場に併設されることになっているが、現在はスポーツの彩りをまったく感じられない地で倉庫を借り切り収蔵品の保管業務に徹している。本来アーカイブされた数々の資料は展示や教育、調査・研究に利活用されることが望ましいが、対外的なサービスは事実上停止されている。町田さんの言葉を借りれば、「日本スポーツ界の枢要施設が機能不全に陥っている状態」だ。
なぜ町田さんはスポーツアーカイブをこれほど重要視し、危機感を募らせているのだろうか――。
日本では一度スポーツイベントが開催されてしまえば、それで終わりになっている
――町田さんはスポーツアーカイブの重要性を強く発信しています。なぜスポーツ界にとってアーカイブが重要になると考えているのですか?
町田:それはスポーツもれっきとした人間の知的活動の一種であるからです。19世紀末における近代スポーツの黎明(れいめい)から現代に至るまでのスポーツ史の流れを考えてみても、時代に応じて競技規則が改正されたり、次々と世界記録が塗り替えられたり、新しい競技種目が開発されたりと、スポーツ文化は常に変化してきました。また、スポーツが経済活動と結び付いたり、まちづくりに貢献したり、国際問題の解決に寄与したり、と競技以外にもさまざまな社会的役割を担うことを期待されるようにもなりました。
こうして現代に生きる私たちがスポーツをより良く実践することができたり、あるいは、スポーツそのものをより良く発展させていくことができているのは、いつでも歴史を顧みたり、過去の情報にアクセスすることができるからです。例えば、過去の戦績を確認せずして、どのように目の前のパフォーマンスが世界記録を樹立したことを証明することができるでしょうか。過去の競技規則を参照しないで、どのようにこれからの競技規則を検討していくことができるでしょうか。また、ある競技会を招致して、運営するとしましょう。そうした競技会をめぐる過去の前例を学ばないで、どのようにして大会を成功へと導くことができるのでしょうか。全て、アーカイブによって過去に積み重ねられてきた情報が保存され、いつでも参照できるようになっているからこそできることなのです。
――町田さんの著書『アーティスティックスポーツ研究序説――フィギュアスケートを基軸とした創造と享受の文化論』に、社会全体のあらゆる分野において、アーカイブは「知のインフラ」であり、新たな創造につなげる知的な循環を生み出す効果がある、だからこそ欧米各国ではアーカイブへの取り組みが精力的に推し進められている、と記述されていました。<同行編集者>
町田:人間は、ゼロからは何も生み出すことができません。先人たちが築いた英知の礎に乗って初めて、創造行為をより良く実践することができます。先人の英知に学ぶというのは、それすなわちアーカイブにアクセスするということです。これは、いかなる分野においても共通することで、スポーツ界でも例外ではないと考えています。
例えば、アートの世界では、作品を創作したり、あるいは作品を鑑賞したりする上で、まずアーカイブ(過去に先人たちが創作してきた作品)をたどるのが常識となっています。しかしスポーツ界ではそれがなく、競技会は結果が出てしまったらもうおしまいで、再び参照されることなく、一瞬で忘却のかなたに消えていってしまいます。
しかし、結果が判明している過去の競技会は、果たして再観戦の価値はないのでしょうか。もしかしたら、アスリートが繰り出す達人技の神秘を解き明かすヒントが隠されているかもしれません。あるいは、過去の競技会の映像を体系的に収集整理することで、けがやアクシデントが起こりやすい条件が明らかになるかもしれませんし、逆に勝利を導くためのセオリーを発見することができるかもしれません。今やスポーツ界でもさまざまな場面でAI(人工知能)が導入されていますが、過去の競技会に関するあらゆる情報をAIにインプットすればするほど、そのAIは有能になることでしょう。
このように、過去の競技会はたとえ結果が分かりきっていて観戦価値がなかったとしても、さまざまに有効活用することができるのです。
フィギュアスケート界はアーカイブ映像にアクセスできない不条理な環境
――町田さんは、フィギュアスケート界においてもアーカイブはすぐにでも取り組むべき問題だと発信しています。
町田:はい、とりわけパフォーマンス映像に関するアーカイブは早急に構築されてしかるべきだと考えています。アーティスティックスポーツであるフィギュアスケートは、ジャンプ・スピン・ステップというアスレチックなパフォーマンスの中で、“芸術性”も追求しなければなりません。過去のプログラムが備えている芸術的価値であったり、あるいは、過去にどのようなスケーターが何の曲で演じてきたのかといった先行事例を丹念に分析しなければ、自分らしい作品を生み出すことはできないでしょう。フィギュアスケートのプログラムをめぐる創作の質を高めていくためにも、そうした先行作品に「いつでも」「どこでも」「誰もでも」アクセスすることのできるアーカイブシステムを構築することが極めて重要なのです。
しかしながら、現状ではそうしたアーカイブの構築は非常に困難です。なぜならば、フィギュアスケートのパフォーマンス映像は各テレビ局に眠っていて、その多くは一般公開がされていません。しかも、利用したいとなると、法外な著作権料を支払う必要があります。せっかくパフォーマンスの映像自体は存在しているのに、誰にも気付かれず再利用されることがないのです。これでは、まさに“宝の持ち腐れ”状態で、フィギュアスケートの芸術性は一向に発展していかないでしょう。
私の研究でもたくさん不自由なことがあります。例えば、パフォーマンスを美学的に分析するために映像を確認したくてもできません。現状では動画投稿サイトにアップロードされている権利的にグレーな映像で確認するほかないのです。これは、芸術の世界ではあり得ないことです。芸術のジャンルに属している彫刻や絵画は、美術館に作品が収蔵されていて、展覧会があれば誰でも鑑賞できますし、調査研究が目的であればいつでも作品にアクセスすることができます。しかし、同じように“芸術性”を形づくっていかなければいけないはずのフィギュアスケート界ではアーカイブに一切アクセスすることができないという、とても不条理な環境にある。非常に深刻な問題として捉えています。
――パフォーマンス映像が一元管理されて誰でもアクセスできるようになっていないという現状は、これまでアーカイブがそれほど重要視されてこなかった証明にもなっていますね。<同行編集者>
町田:先ほども説明した通り、結果が明らかな過去の映像ではハラハラドキドキの観戦はできないかもしれませんが、かつての選手はどのようにパフォーマンスを発揮していたのか、その卓越したパフォーマンスはどのようなメソッドで繰り出されていたのかといった、より良い未来の創造に繋がる有意義な情報がたくさん詰まっています。こうしたことにフォーカスを当てたら、スポーツ界における知的活動は飛躍的な発展を遂げると思います。だからこそ、まずはスポーツ界に関係する方々のアーカイブに対する価値観から抜本的に変えていかなければいけないと感じています。
――テクノロジーの発展によって、過去には分析し切れなかったことが分析できるようになり、過去の映像からも新たな知見を発掘できるようになる。例えば、ある技を成功させた複数のアスリートのパフォーマンス映像から共通点を見いだして、次世代の育成やトレーニングに生かしていく、ということも考えられるのですか?<同行編集者>
町田:まさにそれこそがアーカイブの醍醐味だといえるでしょう。ところが、現状では映像が最も利用価値のある資料であるにもかかわらず、アーカイブが構築されていないというねじれが起こっているわけです。
――特にフィギュアスケートは、結果が出たからといってそのプログラムに価値がなくなるという競技ではありません。
町田:その通りです。良質なフィギュアスケートの演技というのは、たとえ勝敗の文脈を離れたとしても、何度でも堪能できますよね。一つのパフォーマンスや作品を何度でも味わうことができる点で、フィギュアスケートはダンスや美術作品と同じなのです。だからこそ、きちんとパフォーマンスの映像をアーカイブして、中継放送が終わった後の二次利用も促進していくべきだと考えています。
欧米ではデジタルアーカイブ化が積極的に取り組まれている
――町田さんはアメリカ・コロラド州コロラドスプリングスにある世界フィギュアスケート博物館を訪れていますが、そこでは映像の管理もしているのですか?
町田:2017年に調査に行ったのですが、その時にはアーカイブされている映像は見せてもらえませんでした。というのも、その時はビデオテープやDVDといった媒体に記録されている映像をデジタル化している途中だったのです。それから約5年たちますので、今はもしかしたらデジタル化の作業が完了しているかもしれない。そうなると、コロラドスプリングスにある博物館に行かなくても、日本からインターネットやデータベースにアクセスして映像資料を見せてもらうことも可能になるかもしれません。もう一度世界フィギュアスケート博物館に調査に行き、そのあたりもしっかりと確認していきたいと思っていますが、アメリカでは確実に映像のデジタルアーカイブ化が進んでいることは確かです。
――日本ではそうした動きはないのでしょうか?
町田:ありませんね。こればかりは個人では絶対動かせないことで、日本スケート連盟のような競技の統括組織が、放送事業者と連携をしなければ事態を好転させることはできません。ですから、日本スケート連盟にはぜひこの問題に積極的に取り組んでほしいと、切に願っています。
また日本スケート連盟だけではなく、どの競技連盟もアーカイブ事業に積極的に取り組んでいるわけではありません。ただ東京五輪が行われたことで、スポーツ文化とそこから生み出された資料をアーカイブする重要性が認知されてきています。こういう大事な時ですから、各競技団体がアーカイブに対する認識を変えて、変革していっていただきたいと願っています。アーカイブに関する予算が全然組まれずに事業方針も打ち出されないという、今の窮状を変えていかなければいけません。スポーツ庁や日本スポーツ協会、日本オリンピック委員会(JOC)のような日本のスポーツ界の頂点にある統括組織がしっかりと方針を打ち出し、トップダウンで指示を出さないと、各競技団体は動いていかないと感じています。
スポーツアーカイブについては、7月25日放送の『町田樹のスポーツアカデミア』(J SPORTS)でも詳しくお話ししますので、ぜひ多くの方々に見ていただけるとうれしいですね。
後編は、隆盛を誇る日本のフィギュアスケート界が抱える危機について話を聞く。
<了>
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PROFILE
町田樹(まちだ・たつき)
1990年3月9日生まれ。3歳からフィギュアスケートを始め、2014年のソチ五輪で5位入賞、世界選手権で銀メダルを獲得するなど、トップスケーターの一人として活躍した。2014年12月に競技スケーターからの引退を発表。以後プロスケーターとして自ら振り付けた作品をアイスショーなどの舞台で実演を続け、2018年10月に引退した。2020年3月、博士(スポーツ科学/早稲田大学)を取得。現在、國學院大學人間開発学部助教。専門はスポーツ&アーツマネジメント、身体芸術論、スポーツ文化論、文化経済学、知的財産法。著書に『アーティスティックスポーツ研究序説――フィギュアスケートを基軸とした創造と享受の文化論』(白水社)、『若きアスリートへの手紙――〈競技する身体〉の哲学』(山と渓谷社)。ブルーレイ作品集『氷上の舞踊芸術――町田樹振付自演フィギュアスケート作品Prince Ice World映像集2013-2018』(新書館)。日本最古のアイスショー「プリンスアイスワールド」アンバサダー。J SPORTSで放送中の『町田樹のスポーツアカデミア』で企画・構成を手掛ける。
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