井上尚弥と中谷潤人はなぜ笑い合ったのか。日本人による世界戦が示した“KOのさらにその先”
試合中、井上尚弥と中谷潤人は笑っていた。世界最強を争う東京ドームのリング。一瞬のミスが敗北につながる極限の攻防の中で、互いの技術を読み合い、外し合い、そして微笑を浮かべた。5月2日に行われたボクシング『THE DAY』メインイベントの4団体世界スーパーバンタム級タイトルマッチ。4団体統一王者の井上尚弥と、WBA・WBC・WBO1位、IBF3位の中谷潤人の世紀の一戦。5万5000人を集めた歴史的一戦は、単なる「日本人同士のビッグマッチ」では終わらなかった。KOか否か。そんな単純な尺度では測れない、“ボクシングのさらに深い魅力”がそこにはあった。
(文・本文写真=布施鋼治、写真=スポーツ報知/アフロ)
“伝説”になった夜。日本人同士の世界戦は新しい領域へ
試合終了のゴングが鳴り響くと、12ラウンド闘い抜いた両者は健闘を讃え合った。観客席からは割れんばかりの温かい拍手が湧き起こり、しばらく止むことはなかった。
時計の針は午後10時43分を指していたというのに、出口に急ぐ観客は少ない。もう言葉は何も必要なかった。判定結果を即座に求めたくもなかった。会場に詰めかけた5万5000人の大観衆とともに、ただ激闘の余韻を味わいたかった。
5月2日、東京ドームで行われたボクシングのビッグイベント『THE DAY』。キャッチコピーには「やがて、伝説と呼ばれる日」と記されてあったが、“やがて”という副詞は意味をなさなかった。終わった時点で、すでに伝説となっていたのだから。
その刹那、筆者の脳裏は1967年12月14日、初めて日本人同士で行われた世界タイトルマッチ、沼田義明vs小林弘にタイムスリップした。決戦前日、翌日殴り合うような気配は一切見せず、2人は雨の中相合い傘で一緒に笑顔で歩いていた──。
お互いの実力を認め合い、信頼しあえるからこそ思い切り殴り合える。リアルファイトとは、得てしてそういうものなのだろう。さすがにリアルタイムで沼田と小林の相合い傘を見た世代ではないが、彼らの笑顔と目の前で微笑み合う井上尚弥と中谷潤人は筆者の心の中で見事なまでに重なり合った。これも、日本人同士の世界タイトルマッチの一つのあり方なのだろう。

井上尚弥は“倒す”ことより、“勝つ”ことを選んだ
判定を待つ間、メモ用のペンを持つ右の手のひらがうっすらと汗ばんでいることに気づく。このときの感情は今もうまく説明することはできない。ライター失格といわれるかもしれないが、何かすごいものを見たという解放感でいっぱいだった。
のべ36分にわたる井上と中谷の激しいやりとりから、「ボクシングとは何か?」という問いかけを胸に突きつけられた気にもなった。
昔も今もボクシングはKOを最高の美徳とする傾向がある。試合前、ボクサーが「必ず倒して勝ちます」「絶対KOで」と宣言するのは、KO勝ちが最も称賛されるからにほかならない。第三者の判断による判定ではなく、自らの手によって万人を納得させるように勝負をつける。確かにそのほうが納得はいく。
今回の一戦が決まったあとも井上と中谷には繰り返しKOを狙うかどうかという質問が浴びせられた。両者ともKO率は非常に高いのだから仕方ないといえば仕方ない。可能性を探るだけなら、それもありだろう。
しかしながら、2人ともそういう次元ではこの大一番を捉えていなかったと言わざるをえない。その代わりにボクシングにはKOとは別の魅力があることを証明してくれた。
ヒーローインタビューで井上は「勝ちに徹する、今夜勝つのは僕、という闘いを実行した」と明かしている。その後の会見では「前半からポイントを陣営と確認しながら戦っていた。闘う前から言っていた。今日は本当に勝つ」と倒す云々より勝ちそのものにこだわっていたことを強調した。
さらにいえば、試合後井上が口にした「今日は脳が疲れた」という一言がこの一戦の本質を如実に物語っていた。

笑い合う井上と中谷。東京ドームで繰り広げられた“究極の技術戦”
戦前から予想されていたことながら、1ラウンドから至高の技術戦が展開された。例えば井上が左のジャブを打つ。何気ない一打に見えるかもしれないが、その前後の動きにだって実は大きな意味がある。いくつものフェイントをトッピングすることで、その一発の精度をより高めようとしているのだ。仮にそのジャブがクリーンヒットしなくても、そうなったときの相手との距離や位置という“NEXT”まで想定している。
そうした予測は中谷陣営とて同じだったので、内野席の一角に設けられたプレス席で場内の臨場感を味わいながら席ごとに設置されたモニターで双方の視線や動きを注視するだけでも、相当の脳のスタミナが試された。
象徴的だったのは8ラウンドの攻防だ。中谷が井上の右をかわすやアッパーのダブルを打ち込んでいくと、井上はそれを外す。するとお互いニコッと笑ったのだ。筆者には感動と恐怖が同時に襲いかかってきた。本当に強い者は対戦相手を威嚇したり、粋がったりしない。究極の場面に遭遇したら、微笑を浮かべるのか。常人には想像もつかないレベルのパフォーマンスだった。
均衡が崩れたのは11ラウンド、井上の右アッパーを食らうと、それまでポーカーフェースを貫いていた中谷の表情は豹変し、つらそうな面持ちを浮かべるようになった。中谷は距離を保つことすら難しくなり、いたずらに井上の追撃を許す。
この時点では中谷の左目が眼窩底を骨折していたことなど知る由もない。片目の視界が塞がれたら、距離もリズムも立ち位置もあったものではない。10ラウンドにもらったバッティングが遠因なのではないかと勘繰るしかなかった。
信じられないことに12ラウンドになると、中谷は復調し反撃し始めた。ときには再び微笑を浮かべる場面も。試合中はアドレナリンが過剰に分泌されていたとはいえ、左目の眼窩底骨折による痛みは尋常ではなかったはずだ。にもかかわらず、体勢を建て直し再びいつものポーカーフェースで井上に挑んでいったガッツには脱帽するしかない。

“KOのさらに先”へ。日本のボクシングが到達した新しい景色
やはり中谷は、ただ者ではなかった。伊達に井上戦に到達するまで無敗で突き進んできたわけではない。敗れてもなお、中谷の評価は落ちなかった。
3-0の判定に関しては世間の意見が割れている。井上が勝ちであることへの異論はないが、一人のジャッジが115―113とわずか2ポイント差だったことに異論が続出しているのだ。井上も「2ポイント差は厳しいかな。自分のやっている感覚と(映像を)見直した感覚で(は)」と自己採点とは大きなギャップがあったことを明かした。
「技術を見直していくのも必要ですし、採点を試合中に僕とセコンドとズレないように、そこの見直しも必要じゃないかと感じました」
いずれにせよ、井上vs中谷によって、日本のボクシングは新しいフェーズ(局面)に入ったことは間違いない。井上尚弥というスーパースターがいて中谷潤人という好敵手がいたおかげで、日本でも世界最高峰のファイトを見ることができた。我々は“KOのさらにその先”を楽しめるようになったのか。
【連載後編】「井上尚弥vs中谷潤人」が変えたスポーツ興行の常識。東京ドーム5万5千人、PPV史上最大級が示した“新時代”
<了>
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