名将エディー・ジョーンズが、ゴールドマン・サックス持田昌典から学んだ教え「成功するのに並外れた知能指数は要らない」

Business
2023.10.05

ラグビー史上最高の名将の一人とも評されるエディー・ジョーンズ。現在開催中のラグビーワールドカップでオーストラリアを率いる彼が突き詰めるリーダーシップ論とは? 本稿では、今月刊行された書籍『LEADERSHIP リーダーシップ』の抜粋を通して、これまでオーストラリア、南アフリカ、日本、イングランドと各国の代表チームを率いて、2019年ワールドカップではイングランドを準優勝に導いた名将が「チームづくりの秘訣」を明かす。今回は、ゴールドマン・サックス証券の持田昌典社長との出会いについてエディー・ジョーンズ本人が回顧する。

(文=エディー・ジョーンズ、訳=児島修、写真=ロイター/アフロ)

ハードなトレーニング法から日本独自のプレースタイルを構築

私が日本のヘッドコーチを引き受けたとき、新しい権力基盤をつくるのはなかなか難しかった。

日本代表の仕事に就いたのは、サントリーサンゴリアスのコーチを3年間務めた後だった。当時、日本のクラブの2強は、サントリーサンゴリアスと東芝ブレイブルーパスだった。私の就任後、最初のキャプテンふたりはどちらも東芝の選手で、そのおかげでバランスがとれた。つまり、サントリーが代表チームで幅を利かすのではないかという選手たちの懸念が払拭されたからだ。

私の戦略は、現状を否定する覚悟を持つことであり、一番やり合ったのはチームのベテラン選手たちだった。上下関係の伝統のある日本ではたいてい、リーダーは弱い立場の選手に対して強い力を持っている。そのため、チーム内の序列は変わりにくい。しかし、私はそれを破った。日本のことはよく知っていたし、その当時でさえ慎重さが必要なことも理解していた。ベテラン選手たちとは1対1で話し合った。そうすることで彼らの面目を保ちながらも態度を変えさせ、結果を得ることができた。

1996年、私が初めて日本のコーチに就任したとき、日本は外国人選手を入れずに、アジアラグビーチャンピオンシップで優勝した。私は選手たちに素早く流れるような攻撃的なラグビーをさせた。

それはオーストラリア最強のクラブチームだった頃のランドウィックのスタイルの再現だった。前々から日本は攻撃的なラグビーで、インターナショナルレベルの試合で勝てると思っていたが、トップクラスの試合となると、ハードルがぐっと高くなる。相手のディフェンスが圧倒的に固いからだ。ワラビーズとディフェンス重視の練習試合をしたが、思うようにはいかなかった。といっても、日本人選手は小柄だから、それもうなずける。 私が2度目に日本のヘッドコーチを務めた2012年から2015年は、人材面でのバランスが良くなり、我々はハードなトレーニング法から生み出した日本独自のプレースタイルをつくった。リーダーは常に、最終目標を頭に描きながら方向性を示さなければならないが、サイクルの全ステージを通してフォロワーとの関係を築いていく。そのためには交流し、コミュニケーションを欠かさず、互いに影響し合う必要がある。

「準備しすぎるということはない」。持田昌典の教え

私は、ゴールドマン・サックス日本法人代表取締役社長、持田昌典氏から多くを学んだ。

彼はチームワークの重要性とそれをいかに強化していくかについて話してくれた。並外れた経験に裏打ちされた彼の言葉には重みがある。1985年にゴールドマン・サックスに入社し、16年働いた後、2001年に日本法人代表の打診を受けた。はじめは抵抗した。日本で一番と言っていいくらいの優秀なインベストメント・バンカーで、ディールを獲得することに夢中だったからだ。昌典には最高のディールを見つける勘とそれをまとめる冷静さがあった。ディールの王者として知られ、それが大きな喜びでもあった。

サッカーで言えば最も多くゴールを決めるストライカー、ラグビーで言えばバックスのなかでも勝利を決定づけるトライを決める選手に似ている。ディール中毒同然の昌典は、ゴールドマン・サックスの当時のCEO、ハンク・ポールソンからのオファーにまったく気が進まないという反応を示した。

ポールソンはその後、米国の財務長官に上りつめた人物であり、実力者でもあった。彼は昌典の回答にひどく失望したと言った。後年、昌典は次のように回想している。

「ハンクは私に、自分のことだけ考えるのはやめて、会社のために何ができるか考える時期だと言いました。私は恥ずかしかった。そして、よく考えた末、ハンクの言うとおり、重責を受けないのは自己中心的だと思ったのです。最終的にオファーを承諾しました。正直に言うと、あのときほど人生が変わったことはありませんでした。変わり、成長して自分の可能性を最大限に引き出すには、いつでも何かを手放さなければなりません。それを学んだのは、この経験からでした」

昌典は会社の利益のために個人の栄光を諦めた。傍から見れば、ゴールドマン・サックスの日本法人代表になるのは、晴れがましい瞬間のように思える。だが、実際には、自身より会社の利益を重んじなければならないと昌典が認識した瞬間だった。彼は会社のあらゆる面を発展させ、強化するのにすべてを注いだ。戦略は明快である。最近のインタビューのなかで、リーダーシップに対する自身の哲学を次のように説明している。

「準備しすぎるということはありません」と、昌典は強調する。

「経験上、成功に必要なのは自信がすべてです。自信は周到な準備から生まれます。近道も優先レーンもありません。飽きるまで練習してください。それからさらにもっと準備してください。そのもうひと頑張りが、競争相手を引き離すのです。

 成功するのに並外れた知能指数は要りません。必要なのはやり遂げる持久力です。私の経験からすると、非常に成功している人たちは皆、目標を設定し、やり抜いています。もちろん、新しいことにチャレンジするなというわけではありません。相手の意見を聞くことも大事です。人事考課でネガティブな評価をされたら、同僚と共有してアドバイスをもらうといいと、私はよく従業員に勧めています。それが成長への最も確実な方法だからです」

昌典はゴールドマン・サックスのフロアを毎日歩き回る。本当に重要なのは、すべてを観察し、常に問題に目を光らせながら、コミュニケーションを密にし、つながりを強めるよう気を配ることだからだ。 私たちは何度かそのことを議論してきたし、リーダーは皆と交流すべきだというのが共通の信念である。

〝頭のいい人からアイデアを拝借する――アイデア泥棒になれ〞

昌典はいつも1日のはじまりは笑いをとってリラックスさせる。深刻ではなく楽しい雰囲気をつくったうえで仕事に取りかかれるようにするためである。従業員たちが情報交換し、互いに交流し合うよう配慮する。

昌典がゴールドマン・サックスでやっているように、私も重役用のテーブル――私の場合はコーチ用テーブル――を使わない。コーチたちが選手とともに座って食事をするほうが好きだ。クリス・ロブショーは、「こんな経験は初めてだ。気に入ったよ」と私に言った。私にはそのほうがずっと自然だ。

サッカー指導者のフース・ヒディンクがチェルシーで短期間だが監督を務めていたときに、昼食をともにしたのを覚えている。彼もまた私と同じようにふるまっていた。非常に魅力的な人柄で、私たちが食事をしているとチェルシーの選手たちが皆挨拶をしにやって来たものだ。フロアもしょっちゅう歩き回り、部屋じゅうに彼が発散するエネルギーがあふれていた。

代表チームの監督としての業績は素晴らしく、韓国、オーストラリア、ロシアで見事な働きをした。チェルシーが、混乱した状態に陥り新しい監督が決まるまで、いつも彼に頼る理由がよくわかる。フースはチームをまとめることができるからだ。また、チームの能力を把握したうえで、勝たせるための戦術を明快にすることにも非常に長けていた。そうした単純明快さは彼の素晴らしい能力のひとつであり、チームをより有効に機能させ、結束力を高めるのである。

本稿の精神に照らし、サッカー指導者アーセン・ベンゲルの言葉を拝借することにする。彼とは何回か2時間に及ぶミーティングをし、そのなかの1回は今も、これまでで最高の職業上の経験だと言える。

というのも彼は素敵な哲学者だからだ。賢明で、頭のいい話し上手な彼は、まだほかにも示唆に富む発言をした。

「チームのスタイルはコーチの考え方と選手の潜在能力の歩み寄りだ」

その言葉は端的に真実を言い当てている。

これで私がいつも心がけている〝頭のいい人からアイデアを拝借する――アイデア泥棒になれ〞のいい見本がまたひとつできた。

【第1回連載】ラグビー史上最高の名将エディー・ジョーンズが指摘する「逆境に対して見られる3種類の人間」

【第2回連載】エディー・ジョーンズが語る「良好な人間関係」と「ストレスとの闘い」。ラグビー日本代表支えた女性心理療法士に指摘された気づき

<了>

(本記事は東洋館出版社刊の書籍『LEADERSHIP リーダーシップ』より一部転載)

“史上初の黒人主将”の重圧。ラグビー南アのコリシが語る「象徴。つまり崇拝し、祈りを捧げる対象」

稲垣啓太が語る「世界一」へのロードマップ。「その面子でやるしかない。できると思っている」

リーチ マイケルが語る、ラグビーW杯優勝への手応えと課題「日本代表が個人、個人になると試合に負ける」

[PROFILE]
エディー・ジョーンズ
1960年1月30日生まれ、オーストラリア・タスマニア州バーニー出身。ラグビーオーストラリア代表「ワラビーズ」のヘッドコーチ。現役時代はフッカー。オーストラリアのニューサウスウェールズ州の代表として活躍後、コーチに転身。東海大学監督、ブランビーズ(豪)のヘッドコーチを経て、2001年、オーストラリア代表ヘッドコーチに就任。2003年のワールドカップで準優勝を果たす。2007年、南アフリカ代表のテクニカルアドバイザーとしてワールドカップ優勝。2012年、日本代表ヘッドコーチに就任。2015年のワールドカップでは、南アフリカ代表を撃破するなど歴史的3勝を挙げ、日本中にラグビーブームを巻き起こした。2015年よりイングランド代表ヘッドコーチを務め、2019年のワールドカップでは準優勝。2023年より現職。2012年東京サントリーサンゴリアスアドバイザー、ゴールドマン・サックス日本アドバイザリーボードも務める。

この記事をシェア

KEYWORD

#COLUMN

LATEST

最新の記事

RECOMMENDED

おすすめの記事