播戸竜二「サッカー選手の鎧」を脱いで…。等身大で語る引退後の想いと、幸せだった瞬間
9月14日、プロ生活をスタートさせた大阪の地に降り立ち、古巣ガンバ大阪と1日契約を結んで、引退セレモニーを開催した播戸竜二。
サッカーを始めて30年、プロ生活21年目の今年2月、「休憩」という言葉を使いながら将来について思い悩む日々を過ごした。その半年後に次のステージに向かうと決めた“現在”の想いを軸に、大阪、札幌、神戸、鳥栖、大宮、沖縄と渡り歩いた“これまで”についても今改めて振り返り、その想いを語った。
(インタビュー=岩本義弘[『REAL SPORTS』編集長]、構成=REAL SPORTS編集部、撮影=浦正弘)
引退していないけど引退しているような感覚
9月14日に現役引退を迎えて、今の率直な心境は?
播戸:やっと新しい一歩を踏み出したというか。今年の1月31日の時点でどこのチームとも契約がないという状態になって、そこからフリーというかちょっと休憩しながら、(チームとの契約の)話があったら……という感じでした。昨年FC琉球を契約満了になった時に、J3で優勝できて、ある程度チームに貢献できたという思いがあったので、選手としてこれで辞めるという踏ん切りが全然なくて。その頃は、どこか自分の中でまだ、現役選手みたいなイメージはずっとあって……。
その間、解説などさまざまな仕事にもチャレンジされていましたね。
播戸:本当にシンプルに、チームがない。じゃあ他のことをしながら、(プレーできるチームが)あったらやる、みたいな感じのイメ―ジでした。それがずっと続いて、試合を見てもだんだんサッカーをやりたいという想いが少なくなってきて。サッカー教室など、いろいろなことをやっていく中で、こういうのも面白いなと思ってきた時に、自分の中で現役を続けるという選択肢がかなり少なくなってきているんだなと感じるようになりました。
でも、辞める前日の9月13日は「あ、終わんねや……」みたいな、朝起きた時から、明日引退って発表したら俺はもうサッカー選手じゃなくなるんだなっていう寂しさがすごくあって。そこは俺の中でも意外だった。自分の中ではある程度、気持ちの整理がついているものだと思っていたから。それが案外、辞めるとなったらバタついてしまう自分がいるのが新鮮でした。この21年間、プロサッカー選手としてずっとやってきた中では、常に次の年のことを考えながらやってきたので、今までのことを振り返るということをあまりしていなかったから。
自分の人生のすべてを捧げてきたことの、一区切りですからね。
播戸:サッカー選手になるっていうのが自分にとって、子どもの頃からの夢であり、目標であり、俺の中のすべてだったから。この半年くらいの間に次のことについて少しずつ考えたりしたけれど、“サッカー選手の区切り”ということに対して深くは考えていなかったので、なんとも言えない感情でした。
ガンバ大阪と1日契約をして引退セレモニーをやるというのは、どういうきっかけで実現したのですか?
播戸:メジャーリーグではありますよね。松井(秀喜)さんとかを見ていて、サッカー界にもそういうのがあったらいいなと前から思っていました。サッカーの場合、日本でも石川直宏や鈴木啓太とか、ああいうふうに(引退セレモニーを)やれる人たちもいれば、なかなかできないこともある。自分の場合は、半年くらい選手から離れていたというのもあるし。
まだやりたい、でも次の仕事もやりたい。じゃあ、ちゃんと区切りをつけるという意味で、どうしようかと考えた時に、やっぱり最初のチームであるガンバ大阪で(引退セレモニーを)やれたら幸せだなって思うようになって。40歳まで現役でやるというのが漠然とあったので、8月2日の誕生日を区切りに引退を発表しようかなと考えました。
7月の中旬あたりに、川淵(三郎)さんと食事に行ったんです。今のJリーグ、日本サッカーの現状や昔の話、どうしたら今後もっと良くなるのかとか、俺が一番川淵さんに聞きたかったことを中心に2時間くらい話しました。その時に引退の話にもなって、そろそろ引退も含めて区切りをつけようと思っていることを打ち明けました。それで、どのように辞めたらいいかを相談したら、一番最初のチームであるガンバでやったらいいと言ってくださって。「でも、所属していた他のクラブのことも考えますよね」って言ったら、「そんなこと考えなくていいんだよ」と。
その会食の20分後くらいに、川淵さんの秘書の方から電話がかかってきて。御礼と併せて、「川淵から『現役引退を決意した様子ってツイートをしてしまってごめんねと伝えておいて』と言われました」って(笑)。なんの報告やねん!みたいな(笑)。「それって、もう投稿されているってことですよね? もう消せないですよね?」となって。
消したら消したで、変に炎上しそうですね(笑)。
播戸:そうそう(笑)。川淵さんが播戸引退って言っちゃったみたいな感じでネットニュースにもなったりしたので、これは本当にちゃんとやらなきゃあかんなと。それから、ネットの反響を見ていて、俺の引退というトピックを気にしてくれている人がけっこういるんだなというのが新鮮でしたね。自分自身、引退していないけど引退しているような感覚だったので。それでガンバに相談してみたら、じゃあやろうって考えてくれました。
個性がない選手はつくり、ある選手はさらに磨くべき
ガンバで活躍した選手はたくさんいる中で、さらにクラブを離れてから時間が経っているにもかかわらず、公式戦の日に引退セレモニーをやるってすごいことですよね。ガンバとの関係値がその後もずっとあったということですよね。
播戸:フロントスタッフの中には、俺が入った1998年からいる人たちが残っているので関係値はずっとありました。以前からその人たちと冗談で、1日契約などをして何か一緒にやろうという話はずっとしていましたね。引退セレモニー自体は、その週あたりまで何をするか中身が決まっていなくて、俺も何をするか知らなかったんですけど。
ガンバにお任せしたんですか?
播戸:お任せしました。引退セレモニーの試合日も時間が限られていたので、いっぱい話したいことはあるけれど、3分くらいで話すことになって。だから前日はナーバスになったけれど、当日になったらちゃんと3分で言わなきゃとか、そういうことを考えていたから本当にあっという間に終わってしまって。
そうですよね。当日は忙しいでしょうから、あまり浸っている時間はないですよね。
播戸:なかったですね。でもなんかこう、最後にスタジアムでサポーターを見ていて、もうこういうところでサッカーをやれることもないんだなって思うと、やっぱり悲しくなってきて。そこにカズさん(三浦知良)からのメッセージが出てきて、この人に憧れてこういうふうになりたいと思ってサッカーをやってきたなぁとか、これまでの自分の気持ちを思い出しました。この人より先に自分が辞めてしまうのか……とか、そういう気持ちもありながら、やっぱり泣いてしまいました。
感情が抑えられなかったんですね。
播戸:そうですね。でも、未練があるわけでもなく、本当にすごくスッキリした感じで終われたから、自分としてはガンバで引退セレモニーをできて良かったし、次の世代がそういうことをやるチャンスにつながればすごくいいなと思います。
すごく良いヒントとして、全クラブにアイデアを与えたと思いますよ。
播戸:日本サッカー界、Jリーグに望む姿を自分自身が体現していきたいという気持ちがどこかにあって。それは辞めてからも同じで、今まではサッカー選手を引退したらクラブにスタッフとして残ったり、監督、コーチ、解説者とか、あまり選択肢もなかったから、一緒にやっていろいろな道をつくっていきたいという気持ちはあります。
選手側からクラブにアプローチできる人というのは、なかなかいないですよね。でも逆にクラブからの提案だったら、平等性などを求められるから難しいですね。
播戸:自分はこれまでも、型にはめられるより「もっとこういうのをやったら面白いんちゃう? できるんちゃう?」とか、意志を伝えながらやってきたから。やっぱり選手も自分がどういうふうにしたいか意志を持たないといけないし、その意志を持って行動しなきゃいけない。それがない選手が最近は多いなと感じます。それも個性なのかもしれないけど、メディアやイベントで何かをするとなったら面白くないというか、プレーと一緒でみんな一緒に見えてしまう。もっとそれぞれの個性を出していかないと。個性がない人はつくらないといけないし、ある選手はさらにそれを磨かないといけないと思うし、そういう人が多いほどもっとJリーグも盛り上がると思うから。今は、それがちょっと薄いなと感じます。
あのメンバーで勝ちとった優勝が一番
播戸さんの現役サッカー選手人生の中で、特に印象的だったシーンや試合はありますか?
播戸:まずはガンバの時の、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)2008の優勝かな。その道のりもすごく険しかったし、個人的にはその年に肝機能障害になって、半年くらい棒に振ってしまった時期だったので。
あの時は、すごく苦しんでいましたよね。
播戸:足首を捻って、試合や練習をするために鎮痛剤をずっと飲んでいたら、肝臓の数値が上がって休まなければならなくなって。でも、なかなか数値も下がらず、2、3カ月休んでいるから復帰してもすぐにパフォーマンスも上がらないし。一方でチームはアジア優勝を目指していたから、自分自身も出たかったし、そこにレベルを合わせないといけない。でも最終的にはFIFAクラブワールドカップでケガ人が多く出て、自分は良いタイミングで出られたので。
持ってるなと思いました。
播戸:(笑)。同じ年の、第88回天皇杯全日本サッカー選手権大会の決勝戦で決勝ゴールを決めて、天皇杯もACLも勝って、やっぱり優勝っていいよねっていうことをクラブも選手たちも実感できましたね。
でも、あの天皇杯の決勝ゴールがなかったら今回の1日契約と引退セレモニーもなかったのでは?と思います(笑)。やっぱり、ガンバの歴史に残ったからですよね。
播戸:ははは(笑)。確かに。そういう意味では、あのゴールは自分にとってもガンバにとっても、初めての天皇杯優勝(編集部注:前身の松下電器産業サッカー部時代を含めると18年ぶり2度目)というのももちろんあるけど、あの仲間たちと一緒にサッカーをやって一つの結果が出たというのがすごく大きいです。やっぱり、あのメンバーで優勝したいとか、西野(朗)さん(編集部注:2002~2011年 ガンバ大阪監督)を優勝させたいという想いがガチっとはまって結果に出たような試合だったから。自分のキャリアにおいていろいろなことがあったけど、パッと振り返った時に、あのゴール、あの結果をみんなで出せたということは一番強いです。
カズさんと一緒に過ごしたかけがえのない時間
播戸さんがプレーしてきたそれぞれのクラブを振り返ってみて、印象に残っていることは?
播戸:コンサドーレ札幌では、2001年のガンバとの試合で、左サイドから流れてきたボールをボレーシュートで打ったのがバシって決まったのを覚えています。1999年の途中からガンバの監督がフレデリック・アントネッティから早野(宏史)さんに代わって、試合に出られないこともあって、ちょっと早野さんを見返したい気持ちがあったので、そういう意味であのゴールを古巣相手に決めて、1-0で勝てたのは、どや!みたいな感じで。あのゴールはすごく印象に残っています。
ヴィッセル神戸には2002年から2005年までいたから、いろんなゴールを決めてきました。2004年のプロ初ハットトリックや、J1残留を決めるようなゴールもありましたし。初めてハットトリックをした時には、自分自身はもちろん、メディアも含めて周りも盛り上がるから、やっぱりハットトリックっていいな、すごいなって思いました。
あと、カズさんと一緒にやりたいと思ってヴィッセルに行ったから、彼と一緒に同じ時を過ごしたというのは選手としても人間としても、かけがえのない時間でした。朝も練習が始まる1時間以上前からずっと準備していて、終わってからもしっかりケアしていたので、毎日毎日、ここまで一生懸命やれるのか、準備できるのかということをすごく感じましたね。自分の中で、サッカー選手として長くやれる選手になりたいというのがすごくあって。そのためには準備やケアは大事だなと、当時カズさんを見ていて思いました。カズさんは、サッカーがうまくなることやサッカーを楽しむことに対して、常にハングリーだった。日本のサッカー界をずっと引っ張ってきたトップ・オブ・トップの人が、あれだけ毎日ハングリーにやっている姿を近くで見られて、結局いかにサッカーと向き合えるか、真摯にやれるか、そういうことがすごく大事なんだなと。カズさんは、ずっとそれがブレずに今も続けていると思うから、すごいなと思います。
セレッソ大阪ではどうでしたか?
播戸:セレッソではハットトリックですね。2011年8月20日の清水エスパルス戦で途中出場でポンポンとハットトリックを決めて、9月10日のホームでのサンフレッチェ広島戦では、前半0-3で負けていたところに途中出場した俺がハットトリックを決めて逆転勝利しました。その2試合は特に心に残っています。
すごいですよね。途中出場でハットトリックを短いスパンで決められるような、そんな人なかなかいませんから(笑)。サガン鳥栖は?
播戸:鳥栖では、リーグ戦ではゴールを決められていないんですよね。2013年の途中に移籍して、鳥栖が残留争いをしていた時に結局J1に残って、2014年は途中まで首位だったんですけど、途中からうまくいかなくなり、体制や経営面がクラブにとって大きく影響する存在だというのを感じましたね。プレー面以外の部分が印象的でした。
九州のクラブは初でしたよね。
播戸:そうなんです。久留米に住んで、新幹線で博多まで20分くらいの場所だったけど、よく通っていたなぁ(笑)。すごく楽しかったです。街としても良くて、ごはんもおいしいし女の子もかわいいし(笑)。
「途中出場では、俺が一番ゴールを取っているので」
大宮アルディージャは?
播戸:大宮でも、ハットトリックした2015年アビスパ福岡戦。それももちろん覚えているんだけど、やっぱりホーム最終戦の大分トリニータ戦で、雨のNACK5スタジアム大宮で優勝とJ1昇格を決めたのはすごくうれしかったです。
J2からJ1への昇格は、タイトル獲得以上にうれしいところもありますよね。
播戸:自分がJ1へ上げようという気持ちがあったから、ある程度選手としても貢献できたし、全体のリーダー的存在になってくれと当時の大宮の強化部長に言われて入団したから、(J2で)優勝して昇格するというのが自分のミッションだったので。それを達成できたうれしさは、大宮の時すごくありました。
本当にすごいですね。大宮では、出場からたったの11分間でハットトリックを決めていましたね。
播戸:途中出場では、俺が一番(Jリーグで)ゴールを取っているので。
すごい。それは誇れますね。途中出場で点を取るというのは簡単なことではありませんよね。
播戸:難しいからこそやりがいがあるし、誰もができないことだから自分がやりたいという気持ちです。例えば、スタメンで90分出て1点だったら、俺は途中出場で3分間出て1点取るほうが気持ちはいい。長い時間出たほうが得点の機会は多いけれど、出場時間よりも点を決められるかどうかが重要。それから、途中出場だとスタメンで出るより責任も重くなくて、そこで途中で出て点を取ったらヒーローになれるっていう、こんなにおいしいなら、そのほうがいいですよね(笑)。
ベンチから試合を見ている時も、相手や味方を分析したり、イメージを持ちながら臨んでいたのですか?
播戸:ある程度イメージや分析はするけど、やっぱり実際にピッチに入ってみたり状況によって全然変わってきます。見るのももちろんだけど、入った時に90分近く戦っている人たちと同じような気持ちを短時間でどれだけアジャストできるかということのほうが、重きを置いていましたね。途中から入ったら、パッとチームの状況に合わせないといけないので。
それはすごい。FC琉球はどうでしたか?
播戸:大宮がJ2へ降格して、自分自身もケガが多くなって選手として限界なのかなとか、お母さんも亡くなったりいろいろなことが続いて……。精神的にも疲弊していて、もうサッカー選手辞めるわ、と投げやりになりかけていた頃に、琉球への移籍の話がきました。
お金やカテゴリーより、何よりやっぱりプロとしてやりたいという気持ちがあったので。とはいえ、お金を優先して考えたことは今までないけど、ガンバに練習生として入った当初は、「月10万の給料だけどそれでもいいか?」って言われて、練習生だからいいけど、プロになったらやっぱりプロとしての対価があると思っています。
自分の選手生活の中で、プロサッカー選手として結果を出すことに注力していたガンバでプレーしていた30歳くらいまでの期間と、それ以降の40歳に向かうまでの期間の2段階があって。後半は、サッカーをしながらマネジメントなどの部分も勉強していました。こういうふうにしたら選手たちはこうなるとか、監督がこう指示したらこうなる、というのを一番近くで見て答え合わせしながらやってきて。だから大宮が2015年にJ1へ昇格する時も、これは上がるなって思っていたし、逆に2017年には、これは落ちるなって思っていたらやっぱりJ2へ降格してしまったし。
そういうことが見れるようになってきた時に、琉球から移籍の話がきました。初めてのJ3で、沖縄という場所で家族からもめっちゃ離れるし、行って続けるのか、もう辞めて別の道でまた頑張るのか考えたけど、最終的には心が選手を辞めることを許さなかった。90%辞めるって周りの人や家族にも言っていたんですけど。
そうだったんですね。
播戸:でもやっぱり、自分自身はもちろん家族の願いもあって、じゃあもう一回踏ん張って、沖縄っていう新たな土地でやることにしました。J3で優勝してJ2へ昇格するっていう過程を、もう一度答え合わせしながらやってみようと。20年間プロサッカー選手としてやってきて、精神的な疲労もあったし、年齢的に体の疲労もあったので、沖縄という温かな環境は選手としても人間としても良かった。サッカーというものにずっとかけてきたから、やっぱりすごく疲弊している時もありました。それも、サッカーがプレーできていたらまだいいけど、ケガなどでできない時期は本当に悔しくて。それらの20年の蓄積まで癒してくれた1年でした。
やっぱり、プロだからかっこいいファッションで、いい車に乗らなきゃあかんとか気にしていた部分もあって。20年間“プロサッカー選手・播戸竜二”っていう鎧みたいなものをずっと着てきたような。そうやってプロとしての自分を世間にアピールしてきたところもあったけど、昨年1年間で、俺のことなんて知らない、サッカーのこともあまりよく知らないという人が多い土地で、しかも地域の人々もすごく純粋で、その人たちと交流しながら人間らしくなれたというか。すごく人として楽になったし、あまり周りのことも気にしないようになりました。
<了>
後編 「指導者は性に合わない。経営者、ゆくゆくは…」 播戸竜二が挑戦する道筋とは?
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[PROFILE]
播戸竜二(ばんど・りゅうじ)
1979年8月2日生まれ、兵庫県出身。琴丘高校卒業後、1998年にガンバ大阪に練習生として入団、同時期にU-19/U-20日本代表としても活躍。2000シーズンにコンサドーレ札幌へ期限付き移籍し岡田武史監督のもとJ1昇格を経験。2002シーズンより期限付き移籍を経てヴィッセル神戸へ完全移籍後、2006シーズンよりガンバ大阪に復帰。2006年にはA代表初選出・初得点を果たす。セレッソ大阪、サガン鳥栖、大宮アルディージャ、FC琉球を経て、2019年9月に現役を引退。現在はメディアやビジネスの新天地など多方面で活躍している。
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