追悼・野村克也。「野球を好きになれ」その言葉の真意を伝え続けた野球人生

Opinion
2020.02.12

11日午前3時半、日本の野球界に偉大な足跡を刻んだ野村克也氏が虚血性心不全のため84歳で亡くなった。現役時代、「長島や王がヒマワリなら俺は月見草」と自らを例えた野村氏。作家・スポーツライターの小林信也氏は、「監督としての野村さんは、輝くヒマワリだった」と振り返る。

(文=小林信也、写真=Getty Images)

野村克也が求めた「本当の自由」

野村克也さんが亡くなられた。各メディアで功績をたたえる追悼報道がなされている。
実際に指導を受け、ともに戦った元選手たちの言葉に触れると、改めて知られざる一面が浮かび上がってくる。私は、実際にお会いしたときにお聞きした話を踏まえ、あまり語られていない側面を綴りたい。

最後にお会いしたのは3年前の夏、単行本の取材だった。約束の場所に野村さんは車いすで現れた。その力のない姿に驚いた。が、会話は確かだった。古い記憶もはっきりしていて、それでまた驚かされた。

「私が入ったころのプロ野球界は、根性論、精神論だけでひどいものだった。あの当時、名監督と呼ばれていた人だって、技術的なことは何も教えてくれなかった。戦争が終わって10年も経っていたのに、グラウンドには軍隊用語があふれていた。ミスをすると『営倉行きだ!』とかね。営倉ちゅうのは、軍隊の刑務所のことです」

戦争が終わって軍国主義が否定され、日本は民主主義の世の中になったはずだった。
戦勝国、アメリカの国技である野球はいち早く奨励され、日本中に球音が鳴り響いた。そのグラウンドで、実は戦前の封建的指導体制が一緒に復活していた。野球だけは、民主化しないまま復活してしまったのだ。野村さんは肌でそれを体感する。

「家が貧しかったものですから、早く稼げる仕事がしたかった。それで南海(ホークス/現・福岡ソフトバンクホークス)のテストを受けたわけですが、入ってみると大した給料はもらえませんでした。1年目は一本もヒットが打てなかった。シーズンが終わったらクビだといわれた」

「野村再生工場」の原点は自身の“再生”にあった

野村さんは、1年目のオフに解雇通告を受けている。19歳の秋。理由は不明だが、球団の事情、それに打撃はいいが捕手としては致命的な“弱肩”が露呈し、「プロでは無理」と判断されたのかもしれない。野村さんは焦った。そして粘った。このままクビになったら死ぬしかない、という迫力で球団を説得。「一塁手へのコンバート」を条件になんとか2年目の契約をしてもらう。

後年、野村さんは戦力外通告された選手たちを幾人も復活させ、その指導手腕が『野村再生工場』と称賛されたが、その原点は自分自身の“再生”にあった。

「打撃を生かして一塁を守れば2年目から試合に出る機会は増えたかもしれない。だけど、一塁手ではプロ野球で長くはやれない。私が生き残るにはキャッチャーしかない。そう考えて、1年かけて肩を鍛え直しました」
そのシーズン、南海の一塁を守ったのは不動のベテラン飯田徳治だった。連続試合出場を続ける飯田を押しのけて出るのは大変だが、俊足の飯田を翌年からセンターで起用するプランがあり、野村一塁案が浮上したのかもしれない。

結果的に2年目のシーズン、野村さんは1軍戦に一度も出場しなかった。ずっと2軍で暮らし、夜は大阪球場のネット裏に座って、パ・リーグの打者たちを研究し、配球を学んだ。
「一塁転向」を、事実上拒否して、肩を鍛え、捕手としての脳を鍛えていたのだ。器具も乏しい時代、一升瓶に砂を詰めて鉄アレイ代わりにして鍛えた、という伝説も残されている。

3年目、野村さんは捕手として1軍に定着。129試合に出場、打率.252、7本塁打、52打点。打者成績はまだパッとしないが、1年目は4回走られて一つも刺せなかった盗塁阻止率を4割近くまで押し上げて、「野村の肩は弱くない」と、評価を一転させた。

そして4年目の1957年、30本塁打を放ち、打率も.302を記録。「強打の捕手」としての階段を上り始める。こう書けば当然のようだが、最初の1年、2年の状況を考えれば、野村克也のプロ野球人生はそこで終わっていてもまったく不思議ではなかった。

支配的な軍国思想がはびこる野球界で、反論するでもなく、ただジッと自分の生き残る道筋を見定め、セルフプロデュースに邁進した。
わが道を行く発想と生き方で、野村さんは自ら野球界に居場所を作ったのだ。

パワハラ体制への非難はここ数年、激しくなっているが、結局、最大の解決策は、選手自身が指導者に依存せず、支配されず、平然と自立することで道は開ける。それを野村さん自身の生きざまで示しているように感じる。
民主的な環境や体制は、権力者の姿勢にかかわらず、選手の自立によって実現するのだ。

野村が山崎武司に発した「野球を好きになれ」の真意

「ID野球」の言葉に代表されるとおり、野村さんといえば『頭の野球』の印象が強い。
「考えろ」は口癖のように耳にした。だから、『頭脳野球』とも形容された。だが、私はそのイメージは偏りすぎていないか? と感じている。
野村さんは決して、「身体より頭が大事」と言いたかったのではない。「身体ばかりで野球をする選手が多すぎる」「野球の面白さを十分に生かしていない、味わっていない」ことへの警鐘を鳴らし続けていたのではないか。

現役生活の終盤を楽天でともに過ごした山崎武司さんが、私も出演したCBCテレビ『ゴゴスマ』の中で、「会ってすぐ、人格まで否定されました」と語った。野球との向き合い方、野球に対する考え方を徹底して改めるきっかけを与えられた。それがなければ、39歳でホームラン43本を打ち、ホームラン王になることはできなかった。
その山崎さんが、一番印象に残っている言葉は何かと最後に訊かれて、こう言った。
「とにかく、野球を好きになれ! ずっとそう言われました」

野球を好きになれ。そんなことは言われるまでもない。好きだからプロ野球選手にもなった、と選手なら誰もが思うだろう。ところが、野村さんは「好きになれ」と言う。つまり、野村さんから見れば、大半の選手が、野球の面白さのごくわずかな部分しか感じていない、味わっていない、と思えて歯がゆかったのではないだろうか。

肉体派、感覚派の代表は言うまでもなく長嶋茂雄さんだ。野村さんは、長嶋さんばかりが目立つことに嫉妬していたのでなく、長嶋さんが目立てば目立つほど、結果や感性ばかりに光が当たり、もっと面白い野球の潜在的な魅力や可能性が見過ごされる、そのことに無念を抱いていたのかもしれない。

月見草は、平成の野球界に咲いた輝くヒマワリになった

「長嶋や王が太陽に輝くヒマワリなら、おれは日陰にそっと咲く月見草が似合う」
自分の存在感を表す野村さんの言葉は広く知られている。それはONへの敬意と自負、メディアや世間への皮肉、また注目の低いパ・リーグにあってファンの支持を得るための「苦肉のセルフプロデュース」だったのではないか。実力でも実績でもONに負けていないという自負は強く持っていた。しかし、それを言ってもファンには届かない。ましてONを批判したら非難されて一利もない。

だが、私は野村さんの著書を読み、実際にお会いして確信した。
長嶋さんと野村さんを比較するのは間違っている。たまたま同じ時代に現役生活を送った同時代の人だが、「昭和の長嶋」「平成の野村」と理解すると、もっとそれぞれが果たした役割が鮮明に浮かび上がって見える。

昭和の時代、プロ野球を国民的な人気に押し上げた最大の功労者は『ミスター・ジャイアンツ』長嶋茂雄であり、『世界のホームラン王』の王貞治だった。まぶしいほどに輝き、大衆の歓心を奪ったスターたちと比べたら、野村さんの輝きはマニアックなファンの一遇を照らす程度だった。

しかし、平成の時代が進むにつれ、光が当たる機会が激増したのは野村さんの方だった。
東京ヤクルトスワローズで3度の日本一に輝き、阪神タイガースでは3年連続最下位 という結果だったが、星野仙一監督時代の優勝が野村さんの築いた礎があったからだという事実は誰もが知っている。
東北楽天ゴールデンイーグルスでも優勝こそできなかった が、田中将大投手や嶋基宏捕手を育て、やはり星野監督に受け継がれて日本一に輝いた。そこには確かに野村さんの仕事が存在していた。結果ではなく、野球界のスポットライトの中心にいたのは、ある時期から間違いなく野村克也であり、『野村監督』だった。

貫いた、沙知代夫人との「夫婦愛」

最後に、「夫婦愛」についても心からの敬意を伝えたい。
野村沙知代夫人は『天下の悪妻』のようにいわれ続けた。実際、南海の監督解任騒動は、まだ結婚前の沙知代さんの存在が原因だった。オーナーから「野球を取るか、女を取るか」と訊かれて、野村さんは「女を取ります」と言って球団を去った。

選手としてはロッテ、西武を渡り歩き、45歳まで現役を続けるが、その時期の野村さんは「生涯一捕手」と自称し、いっそう地味な存在になっていた。
現役引退後、評論家として独自の色を放ち人気と評価を築いたが、悪名高き沙知代夫人の存在があるため、「彼女といるかぎり、野村が監督になる目はない」という風評が野球界を覆っていた。それでも、野村さんは動じることなく、沙知代夫人との結婚生活を当然のように謳歌した。

あれほどの才能があり、ましてONへの強烈な負けじ魂と渇望がある中で、そのような冷遇を受け入れることにもどかしさもあっただろう。しかし、その沙知代夫人の貢献と支援もあって、ついにヤクルトに活躍の場を得る。
『野村監督』の伝説が始まったのはそれからだ。時に55歳。野球界では半ば指導者としても引退を覚悟する年齢になってから、月見草は“ヒマワリ”に変身するのだ。

55年間もの地道な歩み。いつ与えられるか、展望も見えない中で、一筋に野球をそして自分の才能を磨き続けた姿勢には頭が下がる。野村さんは50代になってもなお、自分が開花し、輝く未来を信じていたのだろうか。それを沙知代夫人が確信し、叱咤し続けていたのはどうやら間違いなさそうだ。

その後も、学歴詐称問題、脱税騒ぎなどで沙知代夫人は物議を巻き起こした。2000年のオフ、「来季こそは」と期待され、留任も発表されていながら、12月になって阪神監督を辞任したのも、沙知代夫人の脱税問題が原因だった。それでも野村さんは迷うことなく、沙知代夫人と運命をともにした。野村さんには沙知代夫人が絶対的に必要な伴侶だったのだろう。

ヤクルト黄金時代を築いてからの野村さんは、月見草どころか立派なヒマワリになっていた。だが、自らを「月見草」と呼び続けたのは、目立ちすぎれば飽きられる、驕れば嫌われる、謙虚を貫く見事なセルフプロデュースの一環だったのかもしれない。

平成の中盤以降のプロ野球界は、明らかに野村克也を中心に回っていた。
誰もが野村さんを見ていた。野村さんの言葉を待っていた。実際、野村さんが選手を育て、チームを育てた。すっかり人気者になったし、多くの人から愛される存在だった。野村さんは中高年になって咲き誇った、遅咲きのヒマワリの花だった。

野球界に知的な見識を拓き、身体の能力だけでない知的スポーツとしての魅力を伝えた野村克也さんに感謝を捧げるとともに、心からご冥福をお祈りします。

<了>

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