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町田樹、世界を虜にした『エデンの東』“夢の舞台”への道を切り拓いた美学と探求心
2020年の世界フィギュアスケート選手権は、残念ながら中止となった。出場を予定していた選手たちもさまざまな想いを口にしながら前を向いており、ファンもまた同じ気持ちだろう。世界選手権の名場面を振り返り、美しい記憶に身を委ねながら、新たなシーズンへと想いを馳せる連載の第3回。
あの日、世界を虜にした『エデンの東』。
自分の運命は自分で切り拓く――。
自身が“史上最高傑作”と評する珠玉のプログラムに込められた想いは、そのままに、夢の舞台への道を切り拓いた町田樹の半生へと描き出されていた。
(文=沢田聡子、写真=Getty Images)
ソチ五輪シーズン、町田は強い意志を持って迎えた
町田樹は、2018年10月6日、さいたまスーパーアリーナで行われた「カーニバル・オン・アイス」出演を最後に、プロスケーターを引退している。さいたまスーパーアリーナは、現役時代の町田が記憶に残る名演技を見せてきた会場でもあった。
町田は2006年全日本ジュニア選手権で優勝しているが、シニアに上がったのは2009-10シーズンで、その後2012年までの全日本で表彰台に上がることはなかった。遅咲きのスケーターといえる町田は、23歳で迎えたソチ五輪シーズン、一気に能力を開花させる。その大躍進と、独特の美学を感じさせるプログラムは、今もなお強烈な印象を残している。
ソチ五輪のプレシーズンとなる2012-13シーズンを終えた時点で、町田はソチ五輪日本代表候補の一人ではあったが、有力とは言い切れない立場だった。2012年のグランプリファイナルに進出したことで実力を証明していたものの、同年の全日本選手権では9位に沈み、世界選手権の代表入りを逃している。
ソチ五輪シーズンを前にした2013年春、心機一転のためか髪を短く切り坊主頭にした町田は、五輪への切符をつかむためにあらゆる手段を講じ始める。まず、練習環境としては恵まれていたアメリカから大阪に拠点を変更し、あえて自分を追い込む方法をとった。そして基本となるコンパルソリーや、ジャンプのためにあえて回転をかけずに上に跳び上がるといった地味な練習に励む。また、アスリートとしての在り方を考え直した結果、大学への復帰も決めている。現在研究者として歩んでいる町田のセカンドキャリアは、このシーズンから始まったともいえる。今何をすべきか、根本から問い直して臨んだ町田のソチ五輪シーズンだった。
全日本選手権、さいたまスーパーアリーナを満たした気迫
町田のソチ五輪へ向かう強い意志の象徴といえるのが、町田自身「町田樹史上最高傑作」としていたショートプログラム『エデンの東』だ。元バレエダンサーであるフィリップ・ミルズの振り付けによる壮大なプログラムのテーマは「ティムシェル」。ジョン・スタインベックの小説『エデンの東』のテーマである「汝、治むることを能(あた)う」という意味のヘブライ語を、町田は「自分の運命は自分で切り拓く」と解釈し、このプログラムを完成させることでまさにソチへの道を切り拓いた。
グランプリシリーズ初戦のスケートアメリカで優勝し幸先のいいスタートを切った町田は、2戦目のロシア杯をも制し、グランプリファイナルに進出。ファイナルのショートでは最下位の6位発進となったがそこから奮起し、フリーでは総合4位まで順位を上げている。
さいたまスーパーアリーナで行われたソチ五輪代表選考がかかる2013年全日本選手権、男子シングルは激戦となることが予想された。代表の3枠を、五輪本大会で金メダルをとることになる羽生結弦、バンクーバー五輪銅メダリストの髙橋大輔、同大会代表の織田信成、小塚崇彦、2013年世界選手権代表の無良崇人、そして町田樹らが争ったのだ。
町田は、ショート・フリーとも圧巻の演技を見せる。特にショート『エデンの東』は、五輪への思いがプログラムのテーマと重なり、芸術的に洗練された表現となって観衆を魅了した。ショート・フリーを通して、ミスらしいミスはフリーのコレオステップシークエンスでのわずかなつまずきだけで、ほぼ完璧な滑りだった。何より、大舞台への切符を是が非でもつかみ取りたいという町田の気迫が、さいたまスーパーアリーナの広大な空間を満たしていた。ショート・フリーとも羽生に続く2位で総合2位となった町田は、ついに念願のソチ五輪代表に選出される。
失意のソチ五輪 物語の続きは6週間後の世界選手権へ…
勝負のシーズンを有言実行のスタイルで勝ち抜いてきた町田は、日本代表としての責任感もあってか、五輪にもメダル獲得を目指すと公言して挑む。しかし、ソチのショートで町田は痛恨のミスを犯してしまう。冒頭のコンビネーションジャンプで4回転トウループの後に跳ぶ予定だった3回転トウループが2回転になり、さらに最後のジャンプ・3回転ルッツが2回転になってしまったのだ。芸術性にこだわり、一つの作品として『エデンの東』を作り上げてきたからこそ、それを世界に披露する五輪でジャンプのミスが出てしまったことは今も惜しまれる。
ショート11位スタートと出遅れたものの、3位とは3.50差だった町田は、メダル獲得への巻き返しを誓ってフリーに臨む。1本目の4回転トウループで転倒するも、2本目の4回転トウループは2回転トウループをつけて成功させ、それ以降はほぼミスなく滑り切る。フリーだけの順位は4位、総合でも5位まで追い上げたが、1.68点という僅差でメダルを逃した。ソチ五輪を戦い終えた町田は、練習の際ショートでミスした3回転ルッツを跳ぶたび、やるせなさに襲われたという。町田はその悔しさを、約6週間後さいたまスーパーアリーナで開催される世界選手権にぶつけることになる。
最初で最後の世界選手権で、人々を魅了した芸術作品
世界選手権のショート、再びさいたまスーパーアリーナのリンクに立った町田は、応援の声が飛び交う中スタート位置に着く。求めるものに手を伸ばすような所作から演技は始まり、4回転トウループ―3回転トウループ、トリプルアクセルと美しいジャンプを決めていく。スケーティングはフェンスにぶつかるのではないかと思うほどよく伸びていき、最後のジャンプとなる3回転ルッツが綺麗に決まると、五輪での失敗を知る観衆からは大歓声が沸き上がった。その後の要素であるステップになっても歓声は尾を引いて長く続き、町田は演技後「最後ステップを踏むにつれて、お客さんの感情も高まっていくのが自分でも手にとるように分かった」と振り返っている。演技を終えた町田は総立ちで拍手を送る観客席に向かい、バレエダンサーのように端正なお辞儀をした。自己ベストを更新する98.21というハイスコアを得た町田は、初出場の世界選手権でショート首位発進というこの上ないスタートを切る。
ショート後、町田は彼らしいコメントをしている。
「得点よりも、多分これが今シーズン僕のベストの『エデンの東』だったので、ただただ幸せです」
また、ソチでの借りを返せたかと問われると町田は「ショートプログラムはしっかり挽回できたと思います」と言い、「ただ」と言葉を継いだ。
「まだ戦いは終わっていない。フリーも2年間『火の鳥』をやっていたので、2年間で一番いい『火の鳥』を皆さまにお届けできるように、頑張りたいと思います」
引退後、町田は、この世界選手権ではゾーンに入っていたと話している。ショートから1日おいて迎えたフリーでも、町田は大きなミスなく演技をまとめ、作品としての『火の鳥』を見せることに成功、再びスタンディングオベーションを起こす。演技後「僕のすべてをこの舞台で解放したつもりです」と充実感をにじませた町田は、次のように語っている。
「順位とかスコアとかをまったく意識せずに『作品のみを完成させるんだ』という気持ちだけでやろうと思っても、やっぱり(ショート)1位という順位や、98点という(ショートの)スコアが拭い去れなくて、非常に苦しかった。本当につらい4分半でしたけど、最後まで懸命に踊ったつもりです」
芸術指向の強い町田だが、同時に競技会で作品としてのプログラムを全うするためには、ジャンプを含めた要素をミスなく滑り切ることが必要だと知っていた。そして、勝利への意識を常に高く保っている選手でもあった。ショート・フリー両方でさいたまスーパーアリーナの大観衆を総立ちにさせ、銀メダルを獲得した町田は、初めての世界選手権を「最高の舞台でした」という言葉とともに終えている。そして、翌季の全日本で引退を発表することになる町田にとり、結果的にはこれが最後の世界選手権となった。
独特の感性と豊富な語彙を持つ町田はその発言で注目を浴びていたが、彼の本領が発揮されるのはやはり氷の上だった。見る者に問いかける力を持つテーマのある芸術作品として完成された『エデンの東』は、町田の探求心と血のにじむような鍛錬から生まれている。最初で最後の世界選手権で銀メダルを獲得しただけではなく、最上段の席まで埋め尽くしたさいたまスーパーアリーナの大観衆を魅了したのは、町田のスケーターとしての力の証明に他ならない。
<了>
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