
「お金のため」復帰した新谷仁美 一度引退した“駅伝の怪物”の覚悟と進化の理由とは?
今年の日本女子陸上界において新谷仁美の存在が際立っている。1月にアメリカで行われたハーフマラソンで日本記録を更新すると、コロナ禍を挟んで9月には5000mで日本歴代2位を記録。10月のプリンセス駅伝では区間記録を更新している。なぜ一度引退を経験し、4年間のブランクを持つ彼女がここまでの大復活を遂げられたのか。自らを「積水化学とNikeを背負う一商品」と表現し、復帰の理由を「単純に給料がよかったから」と語る彼女の発言の真意と、進化の理由に迫る。
(文=守本和宏、写真=ナノ・アソシエーション)
新谷仁美を金の亡者とするなら、それはメディアの罪である
「アスリートは走るのが好きみたいに思われますが、私、全然そういうのじゃないんで。単純に復帰したきっかけは、OLで稼ぐより、走るほうが給料がよかったから。それだけです」
新谷仁美が、日本の女子陸上界を席巻している。
駅伝の名門、岡山県の興譲館高校出身。元々“駅伝の怪物”とまで言われ、日本代表として2012年のロンドン五輪出場、2013年のモスクワ世界陸上(世界陸上競技選手権大会)10000mで5位。長距離のホープとして期待される中、2014年に25歳で突如引退。その後、4年間はOLとして働いた。だが、エクセルなどのオフィスワークに慣れず、2018年6月に復帰した選手である。
その新谷が今年、一度目の現役時代を上回る記録を連発しているのだ。
ハーフマラソン日本記録更新、5000mは“15分の壁”を破り日本女子歴代2位の記録をマーク。プリンセス駅伝はエース区間の記録を1分15秒縮めた。4年間のブランクを挟み、32歳になった今、なぜ“駅伝の怪物”は復活したのか。その質問をぶつけると、彼女はこう答える。
「お金がもらえるからです」
彼女のパーソナリティを知っていれば、ある意味、想定できる答えだろう。ただ、これで彼女が「金の亡者」とか「お金と結果を最優先するチーム軽視の人物」「怖い人」と読み手に受け取らせたら、それはメディアの罪だ。
「復帰」と「復活」の2つのフェーズ
彼女自身は、自分の見られ方を的確に意識している。
「お金、お金と言うと、(誰も批判はしないが)イメージ的にはよろしくない」
「素直すぎて私の言葉が強く、悪口に聞こえることがある」
「自身の価値観を共有するのはいい。でも、他選手への押しつけは迷惑」
と、その状況を理解しつつも、「お金のために走る」と主張し、「これ以上、怖がられたくないですよ」と笑う。
「私は、積水化学とNikeを背負う一商品。だから、商品を出していくだけ」
「皆さんオリンピック、オリンピックと言いますが、私は考えていない。私たちは仕事人。駅伝でも個人競技でも、求められるレースで結果を出す。それだけがすべて」
社会人として責任を持ち、高いレベルで仕事をこなし、対価を得る。それで、彼女の印象が悪くなるなら、一流の仕事人はみんな悪人だろう。だから、「お金をもらうために強くなった」として、何一つ責められる筋合いはない。
ただ、一度目の現役時代以上に強くなれた理由をひもとくのであれば。それは、いくつかの要因に分けられる。
自らの力で競技力を過去の状態まで戻した「復帰」と、信頼する横田コーチらと共に過去以上に強くなった「復活」の2つのフェーズだ。
復帰への道。「日本のトップを取るぐらいのやり方は自分でわかっている」
新谷に復帰を促したのは、スポーツメーカーのNikeだった。
現役引退後の4年間、Nikeは彼女に復帰のオファーを送っていたが、右足の足底筋膜炎が痛み、復帰後の所属チーム問題もある。そんなタイミングでできたのが「NIKE TOKYO TC」というクラブチームだった。第二の競技人生を歩みだす新谷。そこで出会ったのが、当時NIKE TOKYO TC代表を務めていた横田真人コーチだった。
横田コーチは男子800mの元日本記録保持者で、同種目にて44年ぶりのオリンピック出場を果たした、近年の陸上中距離界を切り開いてきた男である。その後、最良の師弟関係を結ぶ彼ら。だが、会ったばかりの頃は、お互いに距離を置く関係だった。
「2017年の夏にNikeと契約して、最初の半年くらいはずっと横田さんのこともシャットアウトしていました。私も、確定申告とかパソコンを使った手続きだけフォローしてもらえればいい。日本のトップを取るぐらいのやり方は自分でわかっているから、走るのにはノータッチで構わない、という状況でした。それで、向こうも嫌々ながらに声をかけ始めたタイミングが、2018年1月ぐらいだったと思います」
復帰当初の新谷にとって、最初のミッションは、以前の現役当時のタイムまで戻すこと。一時期、OL時代には体重が13kg増えたという。その状態から、過去のベストコンディションまで戻す。言うのは簡単だが、その「努力」がどれだけ大変かは、想像に難くない。
一人でやれる、それをやりきった彼女自身の“ハンパなさ”
加えて新谷は、一度目の現役時代の経験から、誰も信用できない、頼りたくないとの意思を持っていた。だから、一人で競技に向き合うしかなく、そして彼女もそれでよかった。
「今では恩師と言える先生が2人、中学時代に1人、高校時代に1人います。その頃は陸上に対して、楽しい気持ちがある中で走れたんですけど、社会人になってからまったく楽しくなくなった。人間の嫌なところばかりしか見なくなり、結局、“陸上嫌いだなぁ”と思ってしまった。自分が心を開かなかったのもあって、自分の味方と思える人もいなかった。だから、社会人になってから一切、信用とか信頼できる人がいなかったんです」
その中で、黙々と自身の知識・経験・手法でトレーニングを続け、復帰から数カ月で国内トップレベルまで記録を戻した新谷。すると、横田コーチとの関係も少しずつだが、改善されていく。そして、2018年12月に10000mで世界陸上の参加標準記録(31分50秒00)を突破。2019年の世界陸上に、日本代表として参加することになった。
まず、ここまで自分で“復帰”したことが、彼女の強さの理由だと、横田コーチは語る。
「復帰まで持っていけたのは、新谷の精神力が“ハンパない”からです。正直、どんな環境でも、そこまでは彼女なら戻せていたと思う。僕も動きとかはサポートしましたが、当然、新谷がすごかっただけ。彼女にとっては、モスクワ世界陸上に出場した時のトレーニングと内容的にあまり変わらないことをやっていたはず。でも、5年前の全盛期の自分をちゃんと追いかけて、それを最後までやりきった。その強さがある。口で言うのは簡単ですが、4年もブランクがある中、独学で戻すまでを新谷自身がやったのが一番大きい」
そして、この世界陸上での結果が、彼女の過去を超えるための布石となる。
復活に向けての共闘。築かれた横田コーチたちとの信頼関係
2019年9月28日、土曜日。ドーハ世界陸上で、新谷仁美は女子10000mに出場。結果は31分12秒99、11位だった。年齢は数字でしかないが、31歳でこの成績である。立派すぎる結果だ。しかし、これについて新谷は「ただただ日本の恥だな、と思った」とコメントしている。
そして横田コーチは、この結果をある程度予測していた。「僕はもう無理だってわかってたんです。練習を見ていても、彼女が一人でメニューを考えるやり方で、引退前の記録を超えるのは無理だろうとわかってた。でも、『お前は無理だ』って言ったってしょうがない。本人が気づかないと意味がない。後はタイミングですよね。ドーハ直前で言ってもダメなので、世界陸上はとりあえずこれでいって、本人が気づくように話をするしかない」。
レースが終わった瞬間、新谷もそれをわかっていたようだ。試合直後、ドーハ現地のマクドナルドで夜中、2人で話をした。そこで出たのが横田からの提案だった。「もうモデルチェンジしなきゃいけないんじゃないかと。新谷も『私もそう思います』という話になり、『何すればいいですか』ってなった。じゃあ、とりあえずハーフマラソンやろうと。そこから僕がメニューを組むようになったんです」。
そこから、彼女を過去以上に強くするプロジェクトが始まる。横田コーチと新谷でランニングメニューを決め、オーストラリア留学から帰国したマロン アジィズ 航太がストレングスコーチを担当、コンディショニングはトレーナーと、一つのチームができた。
横田コーチの言葉を借りるなら、「新谷が一人で全部背負っていたものを分散させたのだ」という。
「もちろん、今も変わらず新谷は自分の責任だと思ってますけど、彼女が100%背負っていたのを、20%ぐらいは彼女と一緒に背負うことができた。僕はもっと背負ってるつもりですけどね。彼女の中では、少し気が楽になったのがよかったんだと思います」
横田コーチと一緒でなければ、“進化”はできなかった
そこからは、新谷の本当の復活劇が始まる。
2019年末には「NIKE TOKYO TC」が成績不振を理由に解散。新谷は積水化学工業に所属しながら、横田コーチの中距離専門チーム「TWOLAPS TRACK CLUB」に拠点を残し、トレーニングを続けた。
1月19日にはアメリカ・ヒューストンでのハーフマラソンで、1時間6分38秒の日本新記録を樹立。コロナ禍を挟み、9月20日の全日本実業団陸上5000mで14分台を出し、日本女子歴代2位の記録をマーク。10月のプリンセス駅伝では8年ぶりの実業団駅伝で区間記録を更新と、圧倒的な走りを見せた。
11月22日のクイーンズ駅伝、12月4日の日本選手権(日本陸上競技選手権大会)長距離種目でもおそらく、周囲を驚かせる記録を出すだろう。横田コーチも、その結果に対するこだわり、選手が持つマインドを最大限に尊重している。
「逆に僕は、過去がどうとか昔に戻すとかより、今の彼女を強くすることしか考えなかった。新谷自身を復活させたのは彼女自身。そこから一緒に成長していったのは共同作業。僕ももちろんやりましたけど、新谷自身がやりきったのが最も重要で、そのプロ意識の高さは僕も本当に尊敬しています」
新谷自身もまた、この出会いこそが、自分をさらに強くした要因だと話す。
「横田さんと今になって出会えたのは、大きいですね。振り返って思うのは、横田さんのところじゃなければ、元には戻せたけど“進化”はできなかった。自己ベストは出なかっただろうし、わかりやすくタイムなら5000mで15分10前後止まりだったと思う。25歳前後の身体がピークと勝手に決めつけられたのを、変えることができたのも、横田さんのところだったから。他の環境でやっていたら、“成長”や“進化”はなかったと思います」
「最初は極端な話、周り全部が敵と思っていた人間だったんです。それが復帰して、大人の事情でくっつけられた関係だったとしても、横田さんの価値観が、方法は全然違うけど、見るところが同じだと思った。何より強みだったのが、横田さん自身が選手として、世界陸上やオリンピックのスタートラインに立っていること。その場に立ったこともないのに、偉そうにわかったように言うだけの指導者は、日本中にたくさんいる。あの緊張感や景色、さまざまな思いは、本当に走った人しかわからない。だからこそ、中途半端な発言をしないのが、私にとって一番信用できるポイントでした」
復帰した“駅伝の怪物”がお金と共に手に入れたもの
実業団選手の中には、オリンピックを優先して駅伝をセーブしたり、箱根駅伝を優先した結果、オリンピックへの調整を諦めたり、そうやって大会を天秤にかける選手もいる(それはもちろん、所属クラブの意向であることも加味されるし、選手の体を考えた判断でもあり、悪いことではない)。
しかし、新谷にとっては、すべての大会が大切な“仕事”だ。クライアントが求める結果に対して、実直に人生のすべてを懸けて挑む。それだけだ。その生き方を誰かが否定できるものではない。
“駅伝の怪物”は、なぜ復活したか。本人曰く、その理由はお金である。
ただ、彼女の周りにあるのは、お金だけではない。
巡り合った信頼できるチームであり、自分の人生を共に背負う仲間たちだ。
そのチームと一緒に彼女はプロとして、自分の仕事をする。
求められる限り、自分のすべてを懸けて。
<了>
小出監督との出会いで夢を見なくなった。それでも走り続ける怪物ランナー・新谷仁美の本音
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