「満面の笑み」の清原和博を撮れたワケ サッカー日本代表カメラマンが語る、撮影現場のリアルな舞台裏
2020年5月に立ち上がったオンラインサロン『蹴球ゴールデン街』では、「日本のサッカーやスポーツビジネスを盛り上げる」という目的のもと、その活動の一環として雑誌作成プロジェクトがスタートした。雑誌のコンセプトは「サッカー界で働く人たち」。サロンメンバーの多くはライター未経験者だが、自らがインタビュアーとなって、サッカー界、スポーツ界を裏側で支える人々のストーリーを発信している。
今回、多様な側面からスポーツの魅力や価値を発信するメディア『REAL SPORTS』とのコラボレーション企画として、雑誌化に先駆けてインタビュー記事を公開する。
第4弾は、スポーツカメラマンとしてサッカー日本代表などのカメラマンを務めている栗山尚久さんに、スポーツカメラマンの仕事、新聞社時代の思い出深いエピソードを語っていただいた。
(インタビュー・構成・撮影=五十嵐メイ)
新卒でスポーツ新聞社へ。入社4年目で突然のカメラマン転向
──新卒でスポーツ新聞社に入社し、独立後の現在もカメラマンとして活躍している栗山さんですが、学生時代からカメラマンを目指していたのでしょうか?
栗山:実はプロレスが大好きで、大学生の頃はプロレスラーを目指していました。ですが、現実的に考えた時に難しいと思って就職することにしたんです。
──カメラマンを目指していたわけではないんですね。冒頭から「プロレスラーになりたかった」と驚きのエピソードが飛び出しましたが、そこからカメラマンになるまでどのような経緯がありましたか?
栗山:新卒で入った会社は記者志望、カメラマン志望といったように自分の希望を出すことはできますが、入社してから配属部署が言い渡されます。最初は広告の営業部に配属されて、そこで3年間は営業マンをしていました。
ところが、突然4年目に入る時に「来月から写真部ね」といった感じで、突然写真部への配属になりました。それまでカメラを触るどころか、興味が全くありませんでした。どちらかというと写真を撮影するよりは、撮影される方が好きでしたね。そんな流れで突然、入社4年目にして新聞社のカメラマンになりました。
──カメラに触ったことがなかったということですが、撮影の仕方は教えてもらえるのですか?
栗山:カメラの使い方はもちろん教えてもらえます。ただ、写真は自分自身の感性が大切で、さらにスポーツの場合は目の前で起こることを瞬時に撮影します。スタジオでの撮影と違って「このシーンはこうやって撮る」といったように教えてもらえることは、ほとんどありません。
最初は比較的難易度の低い芸能人の記者会見や、動きがゆっくりな相撲から始まります。その後に高校野球の撮影に行かせてもらい、次第にプロ野球の現場に行かせてもらえるようになりましたね。
写真部に配属されてまだ間もないのに、突然、巨人担当になりました。ベテランカメラマンの先輩が2、3人いるところに交ざって、見よう見まねで必死に撮影をしました。まだ新人で試合はうまく撮影できないので、当時監督だった長嶋茂雄さんが散歩をしている姿とかを撮影していました。計8年くらい巨人の担当をさせていただきました。
ホテルを抜け出して…「満面の笑み」の清原和博を撮れたワケ
──突然カメラの仕事を始めたわけですが、苦労したことはありますか?
栗山:カメラマンの仕事は、機材など約20kgくらいの荷物を担いで雨だろうが嵐だろうが、試合があれば撮影に行きます。体力のある若い時より、年を重ねるごとに体力的にキツくはなってきていますね。
昔はフィルムのカメラで撮影していたので、その後ホテルで現像までしていたんです。24枚くらいしか撮影できないので、終わったら新しいフィルムに替えての繰り返し。撮影が終わったらすぐにホテルに戻り、窓に全部目張りをして真っ暗にしたら、浴室に現像液を入れて写真の現像作業をしていました。現像液がめちゃくちゃ臭いので、ホテルの人に怒られないように全部きれいに掃除をして帰っていました(苦笑)。
昔はそこまで全部自分でやっていたので、とても大変でした。デジタルデータに変わってからは荷物も格段に減って、撮影データの管理なども格段に楽になりましたね。
──カメラマンの仕事をしていて心に残っているエピソードはありますか?
栗山:清原和博さんとの出来事ですね。まだ巨人に在籍していた頃の話ですが、当時の清原さんは少し近寄りがたい雰囲気がありました。でも僕は、彼にすごく興味があって、積極的に話しかけたり撮影した写真を渡したりしました。そうするうちに、清原さんから話しかけてもらえるようになったんです。
ある年の宮崎キャンプで、清原さんが早々にケガをしてしまって。ホテルの前はマスコミが固めていて、みんな清原さんの姿を撮影しようと必死でした。
そんな時、僕の携帯電話に清原さんから「ご飯を食べに行きたいから迎えにきてくれ」と連絡が入ったんです。裏口からこそっと清原さんを車に乗せて、宮崎市内でご飯を食べていると、ホテルにいないことが知られてしまって。「清原、帰京か!?」という記事が出始めて、日本中のマスコミが清原さんの姿を探していました。
そこで、僕は思い切って隣に座っている清原さんに「1枚撮らせていただいてもいいですか?」とお願いしました。すると清原さんは「面白いね」と言って、満面の笑みでピースをしてくれました。次の日のスポーツ新聞には清原さんのケガについて、ネガティブな記事が並んでいましたが、うちの新聞だけは満面の笑みで、元気な姿の清原さんの姿をお届けすることができたんです。
「サッカーは動きの予測ができない」野球からの転向で感じたギャップ
──野球からサッカー担当に変わったのはいつですか?
栗山:巨人の担当が一区切りついた時、アテネオリンピックの翌年からサッカー日本代表の担当になりました。そこから退社するまでは、サッカーを担当しました。Jリーグの撮影だけではなくて、日本代表の国際大会などで世界各国へ行きましたね。
──野球からサッカー担当に変わった時に、ギャップは感じましたか?
栗山:例えば野球の場合、カメラ席から守備のファインプレーを撮影するのはとても難しいですが、バッターボックスに立っているバッター、登板しているピッチャーを撮影するのは、選手のポジションが決まっているのでさほど難しくはありません。
一方でサッカーは動きの予測ができないので、そういった意味では野球に比べて難易度が高いです。僕はいまだに、3列目あたりの選手が決めたスーパーゴールを撮影するのは苦手ですね。サッカーの撮影は、経験と勘がものすごく大切になります。
──それから退社するまでは、ずっとカメラマンとして働いていたんでしょうか?
栗山:(FIFA)ワールドカップ ドイツ大会前に開催されたコンフェデレーションズカップには自分が撮影に行っていました。そのこともあって、ドイツ大会は当たり前に自分が行くと思っていました。ところが、東北支社への転勤が言い渡されました。サッカー担当であることは変わりませんが、ベガルタ仙台担当の記者として働くことになったんです。ところが、記者は向いてなかったんでしょうね。おそらく最短記録だと思いますが、2年で写真部に戻ってきました。
ドイツワールドカップは行けませんでしたが、2010年に南アフリカで行われたワールドカップには自分が行きましたね。2012年10月12日に行われた、香川真司選手が決勝ゴールを決めた国際親善試合のフランス戦を最後に退社しました。
「いわゆるパパラッチ的なことがすごく嫌だった」
──退社後から現在の株式会社Studio Backdropを設立するまでの経緯を教えてください。
栗山:スポーツ紙には芸能コーナーがあって、芸能人の熱愛が発覚した時に空港に向かったりするのは「放っておいてあげればいいのに」という気持ちでいっぱいでした。それよりもキツかったのは訃報ですね。人が亡くなっているにもかかわらず、すぐにその人の家に駆けつけて、悲しみにくれている姿を撮影しなくてはいけないのは、思うところがありましたね。新聞社を辞めたのは、いわゆるパパラッチ的なことがすごく嫌だったというのがありました。スポーツだけを撮影したいという気持ちが強くあったので。
現在、弊社で浦和レッズのオフィシャルカメラマンを担当している神山陽平は、当時はJリーグフォトに在籍していました。会社は違いますが、サッカー日本代表の試合で何度も顔を合わせるうちに意気投合したんです。そのうちに「2人で会社を立ち上げよう」という話の流れから、現在の株式会社Studio Backdropを立ち上げることになりました。
──現在の会社では、主に何の撮影をされていますか?
栗山:現在は、日本サッカー協会、浦和レッズ、栃木SCのオフィシャルカメラマンをしています。
新聞社時代にサッカー日本代表の担当をしていたので、日本代表の仕事をしたいという気持ちがあって。前職のつながりで日本サッカー協会オフィシャルカメラマンの年間契約のプレゼンに入ることができて、そこで契約を勝ち取りました。試合中の写真だけではなくて、プロフィールの撮影などもします。
サッカー以外だと、富士通のスポーツ選手を撮影しています。長い間、野球の撮影をしていたので野球も撮りたいなと思っていましたが、野球は、新聞社とベースボール・マガジン社しかカメラマン席に入れません。フリーの人は一切入ることができない決まりになっています。なので、ベースボール・マガジン社と業務提携までこぎ着け、現在弊社のスタッフは全員NPBの取材パスを持っています。
──スタッフは全部で何人くらいいるんですか?
栗山:東京を拠点に、全国的にカメラマンを点在させていますが、全部で20人くらいのカメラマンが在籍しています。うちに在籍するカメラマンの条件として、国際大会の取材経験があるというのが必須です。なので、野球に関しても、メジャーリーグの経験者しかいないので、経験を積んだスタッフしか在籍していません。
「人とは違う写真を撮りたい」カメラマンとしてのこだわりとやりがい
──栗山さん自身の、カメラマンとしてのこだわりはありますか?
栗山:僕は「人とは違う写真を撮りたい」という気持ちが人一倍強いです。特に、新聞社時代は競合媒体と同じ写真を撮っても意味がないのでこの部分はすごく意識をしていました。
松井秀喜さんが2003年にニューヨーク・ヤンキースに移籍をして、メジャー1号ホームランを打った時の写真を撮影した時のことです。この写真は絶対に新聞の一面を飾るだろうと思っていたので「どうやって撮影するか」ということをずっと考えていました。カメラマン席から撮影しても、みんなと一緒の写真になってしまうなと思っていたので「絶対に違うところで撮ってやる」と考えていたんです。
僕はそっとカメラマン席を抜け出して、ライトスタンドへ向かいました。ヤンキースのライトスタンドは、熱いファンが集まることで有名です。そこにカメラを持っていて、ずっと隠れていました。松井選手の打席だけは、カメラを取り出して撮影していたんですが、そこにたまたまいた時に1号ホームランが飛び出したんです。
目の前のファンが立ち上がって喜ぶ姿越しに、小さく松井選手が写っている球場全体の写真を撮影することができました。すごくいい写真が撮れて、次の日の一面を飾りました。
僕は「やったぜ」と大喜びをしていましたが、ヤンキースの関係者の目に留まってしまい「栗山くん、これはどこから撮ったの?」と聞かれて、正直に「どうしても1号ホームランは、人と違う場所から撮りたかったんです」と伝えました。他社から「みんな場所を守っているのに何で?」というクレームが入ってしまい、示しがつかないので1週間の出入り禁止を命じられてしまいました。
昔は人と違う写真を撮りたいという気持ちが空回りしてしまい、ルールを破ってしまったことがありましたね……。
──カメラマンの人たちは場所が決められているので、決まった場所から最大限の工夫を凝らして自分だけの写真を撮るというのは、なかなか大変そうですね。
栗山:そうですね。だけどその中でバチっとはまって、自分が撮影した写真へ大きな反響がいただけると、うれしさややりがいを感じます。
今はスマートフォンのカメラの性能も上がってきていて、カメラや写真がとても身近になっています。ですが、スポーツカメラマンを目指している若い子というのはすごく少数です。スポーツの魅力を、写真で伝える人が増えれば増えるほど、みなさんがスポーツを目にする機会が増えると思います。カメラが好き、スポーツが好きな人はぜひこの世界を目指してほしいですね。
<了>
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PROFILE
栗山尚久(くりやま・なおひさ)
1971年3月17日生まれ、東京都出身。明治大学を卒業後、日刊スポーツ新聞社へ入社。入社4年目に営業から写真部へ配属され、巨人を担当。その後サッカー担当として、Jリーグだけではなくサッカー日本代表も担当する。2016年に株式会社Studio Buck dropを立ち上げ独立後、日本サッカー協会、浦和レッズ、栃木SCなどを中心に、カメラマンとしてさまざまなスポーツ現場に携わる。
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