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引退・田中刑事が、苦しみの中で磨き続けた“己の道”。「失敗の美学」の先に輝く真価
オリンピック1度、世界選手権3度の出場は、フィギュアスケーターとして素晴らしい実績だ。だが当の本人は「ほとんどは苦しい時間だった」とその半生を振り返る。競技人生の光と影――その両面と真正面から向き合ってきた田中刑事は、磨き続けた“己だけの道”を今、歩み始めている。
(文=沢田聡子、写真提供=プリンスアイスワールド)
「絶望と向き合う青年の物語」を自分に重ね…“表現者”田中刑事の新たな旅立ち
4月11日に引退を発表した田中刑事がプロスケーターとして初めて滑る演目『ショパンの夜に』は、「失敗の美学」を表現する作品だ。田中は「プロ1作目の作品なので、どんな表現ができるか、自分でもさらなる挑戦だと感じています」と意気込みを語っている。
『プリンスアイスワールド2022-2023 in YOKOHAMA「Brand New Story Ⅲ」~Our Compass~』の初回となる4月29日、田中は白いブラウスと黒いパンツというシックな衣装でリンクに立った。『ショパンの夜に』を振り付けた町田樹さんは、プリンスアイスワールドの公式プログラムに掲載されている田中との対談で、この作品を「絶望と向き合う青年の物語」だと説明している。一方そのテーマを与えられた田中は、絶望に沈んでいるのではなく上っていこうともがく青年を表現していると語る。競技で苦しんだ自分自身に重ねて、作品を解釈したのだという。
この作品は、ショパンの『24の前奏曲(プレリュード)』からNo.4を使う第1部、No.24を使う第2部で構成される。第1部から第2部へと切り替わる部分で叱咤(しった)激励するように自らの頬を平手打ちする田中の姿は、深く印象に残った。ピアノの一つ一つの音に合わせて氷を蹴り、また手を動かす所作も洗練されており、プロスケーターとしての田中のこれからが楽しみになるプログラムだった。
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結果が伴わない時にもらった声援も、全て心に刻んできた
2011年世界ジュニア選手権で銀メダルを獲得し注目を集めた田中だが、シニアに上がったのは2014-2015シーズンで既に大学2年生になっており、遅咲きのスケーターだったといえる。しかし2015-16シーズンに4回転サルコウを手に入れると躍進し、翌季には全日本選手権で2位となり、世界選手権に初めて出場した。
平昌五輪が行われる2017-18シーズン、田中はけがで出遅れたものの、オリンピック出場を諦めなかった。平昌五輪代表最終選考会となる全日本選手権の前には通常の練習に夜のセッションを加え、日付が変わるまでリンクで追い込む。疲れと闘いながらの猛練習が実って全日本で2位となり、夢の舞台である平昌五輪への切符をつかんでいる。
はたからは、平昌五輪は田中の競技人生におけるハイライトに見える。しかし、プリンスアイスワールドの公演後に開かれた引退会見で平昌五輪について問われた田中は「今となっては意外と薄いんですよね、思い出が」と口にしている。
「他の試合で、ちゃんと思い出があって。オリンピックも思い出がないというわけじゃなくて、オリンピックで得たものというのはすごく……リンクに立って日本の旗を見た時の光景は今でも思い出せますし、忘れないです。でもそれだけではないですし、他の試合でも同じぐらい声援を頂いて。いろんな試合で(声援を)頂けたので、やっぱり一番は決められないですし。オリンピックもそれぐらいかすんでしまうほど、他の試合でもたくさん応援されていたことを実感しながら滑ることができました」
引退会見で一番印象に残っている試合を問われ、その質問を予想していたという田中は、しかし「何も思い浮かばなかった」と答えている。
「やっぱりどの試合も何かしらエピソードがあって、つらい思いをしてその場に立って、悪かった試合ですら何か残ってきたものがたくさんあったので、その質問(の答え)だけは思い浮かばないです。どの試合も『思い出を語れ』って言われたら語れるので、また時間がある時に『あの試合どうでしたか』って聞いていただけると、すぐ思い出せます」
田中が、華やかなオリンピックだけではなく、どの試合でも、そして結果が伴わない時にも、もらった声援を含め全てを心に刻んできたことを思わせる言葉だった。
競技人生の光も影も…「失敗の美学」を体現したプロデビュー
「引退をあらためて決断したのは、昨年の全日本選手権のフリーを終えた後です」と田中は会見で語っている。
「全日本選手権は納得のいく演技ができなかったので達成感があったわけではありませんが、ここで区切りをつけようと思いました。シーズンを振り返って思うような競技成績を残すことができず悔しいシーズンでしたが、自分の中で新たな目標を立て、すぐに競技生活に未練はなく次のスタートを切ろうとすることができました」
2022年北京五輪代表最終選考会である今季の全日本選手権を27歳で迎えた田中は11位に終わり、代表入りはかなわなかった。仲間のスケーターたちに「今日で終わり」と話したという田中は「僕自身、次の道というのはしっかりと決めることができたので」と振り返っている。
「全日本選手権、悔しかったんですけど、『次どうしよう』というのが自分の中ではっきりした分、強く一歩を踏めた感じです」
会見で、田中は「いいことばかり続いていたのは、本当に一瞬だけ」とも口にしている。
「一瞬一瞬、本当に1年に1、2回あるかぐらい『楽しいな』と思える瞬間はあったんですけど、ほとんどは苦しい時間だったと思う。でもその中で折れずに最後まで、ここまで続けてきたことは、これからの糧になるなと思っています」
「失敗の美学」を体現する『ショパンの夜に』は、競技人生の光だけでなく影とも真正面から向き合ってきた田中のプロデビュー作としてふさわしいといえるのかもしれない。
町田樹、髙橋大輔と共に過ごした時間が、“表現者”としての道を前進させた
田中にとって表現者としてのターニングポイントになったのは、昨年プリンスアイスワールドで滑った『ジュ・トゥ・ヴ』だろう。 “継承プロジェクト”として企画されたこの作品は、町田さんが2014年にプリンスアイスワールドで滑ったプログラムの再演だった。選手が滑らなくなると失われてしまう運命にあったプログラムを、他のスケーターが再び滑ることで受け継いでいくこのプロジェクトは、フィギュアスケートの作品を著作物として扱いたいという町田さんの信念から生まれたものだ。
田中は、拠点である岡山のリンクに来ていた現役時代の町田さんと一緒に練習しており、大阪に拠点を移した際も同じリンクで練習している。オリンピック出場を決めた町田さんの姿を見て、田中も夢を現実にするための道を歩き始めたという。一方町田さんが“継承プロジェクト”に田中を起用した理由は、ジャンプやスケーティングの技術、踊り手としての容姿、表現者としての潜在能力を兼ね備えていることだった。結果的に、オリジナルとは違う味わいを持つことになった田中の『ジュ・トゥ・ヴ』を、町田さんは理想以上だったと高く評価している。
さらに、田中は昨年出演した『LUXE』で、髙橋大輔と二人きりで滑るナンバー『ナルシスの鏡』を演じている。田中は髙橋とも岡山のリンクで共に練習した経験があり、長光歌子コーチに師事する生徒として同門のスケーターという関係でもあった。圧倒的な存在感を持つ髙橋の“影”という大役を務め、表現者として大きく前進した印象を残している。
田中が現役時代から進んできた表現者としての道筋の続きをはっきりと示したのが、今回の『ショパンの夜に』ということになるだろう。
プロスケーターと指導者の両立…茨の道を進む男の真価はこれから
一方、田中は幼いころからコーチになりたいという夢を抱いていた。既に現在、ひょうご西宮アイスアリーナで長光歌子コーチ・淀粧也香コーチのアシスタントとして指導している。引退会見で田中は「コーチとしての活動と、プロスケーターとしての活動の両立は大変難しいことだと覚悟しております」と述べ、続けて固い決意を見せている。
「しかし、自分の思いを体現できるように努力していきます」
選手としての田中は、ハイレベルな日本男子の中でもまれながら厳しい鍛錬を重ね、世界選手権やオリンピックへの出場を果たしてきた。そして現役時代の終盤、尊敬する先輩たちと共に踏み込んだ表現の世界で「競技人生を終えた後も演じることを続けたい、競技という枠を超えて演じたい」という思いを抱き、歩みを進めている。田中刑事というスケーターが真価を発揮するのは、これからなのかもしれない。
<了>
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