
宇野昌磨、人生のどん底から這い上がった3年の軌跡。遂に辿り着いた世界王者の、その先へ…
自らの演技に納得したのだろう。満足した表情を浮かべ、うなずくしぐさを見せた。会場に集まった観客たちは一様に立ち上がって勝者を祝福し、拍手はいつまでも鳴りやまなかった。2022年、世界選手権。表彰台の一番高い場所へ、男はついにたどり着いた。競技人生のどん底にいたあのころから――変わり続けた3年間の軌跡には、宇野昌磨の“今”の全てが詰まっている。
(文=沢田聡子、写真=Getty Images)
「優勝を目指すのはあまり得意ではない」。宇野昌磨が世界王者にたどり着けた理由
2019年11月、グルノーブルで開催されたグランプリシリーズ・フランス国際。トリプルアクセルで2度転倒するなど本来の実力には程遠い内容のフリーを滑り終えた宇野昌磨は、キスアンドクライに1人で座り、目に涙をためていた。メインコーチを置かずに臨んだ2019-20シーズン、8位に終わったこのフランス国際の宇野は、競技人生のどん底にいたのかもしれない。
そして2022年3月、フランス・モンペリエで開催された世界選手権でついに頂点に立った宇野は、優勝者インタビューで当時を振り返っている。
「2019年グランプリシリーズ・フランス、そこが自分の分岐点だったのですが、再びこの舞台で素晴らしい成績を取れたことに感謝しかないです」
2019年フランス国際で苦しいフリーを滑る宇野を拍手で後押ししてくれたフランスの観客は、紆余(うよ)曲折を経てついに世界王者となった宇野に、再び惜しみない喝采を送ってくれた。
競技人生のどん底にいた2019年、フランスの地で気付いたこと
2022世界選手権・ショートプログラムで宇野が滑った『オーボエ協奏曲』は完璧だった。4回転フリップを決め、セカンドジャンプが2回転になることが多い4回転トウループ+3回転トウループもきっちりと成功させる。後半に跳んだトリプルアクセルも含め3つのジャンプには全て3点台の加点がつき、スピン・ステップも全てレベル4だった。演技後、飛び跳ねてガッツポーズを繰り出した宇野は、自己ベストを更新する109.63という高得点をマーク、ショートで首位に立った。
ショート後のミックスゾーンで、2019年以来のフランスでの演技が前回とまったく違うものになったことについて問われると、宇野は「本当にこの3年で、いろいろ考えが変わりました」と答えている。
「3年前は『自分が終わりに向かってスケートをしている』という印象が自分でも強かったのですが、今の自分としては『これから先、自分がどんなことをなすことができるのか』という期待を込めてスケートをしています。もちろん、この大会でいい成績を残したいという気持ちはあるんですけれども、成長の過程の一つとして『今の僕はこれだけできるんだよ』ということ、3年間で変われた自分をお見せできたらなと思います」
ここで語った未来へのマインドの切り替えについて直後の記者会見で問われた宇野は、2019年フランス国際で気付いたことについて説明している。
「初めてのオリンピック(2018年平昌五輪)に出て銀メダルを取ることができ、その後は『結果を出し続けなければいけない』と。『結果にとらわれたくない』と自分で言ったのに、一番とらわれていた時期があったと思います。その日々は、とてもつらかったです。練習が、やりたい、やりがいではなく、責任感や『やらなければいけない』という使命感になっていたので。それが(今大会と)同じフランスでの2019年グランプリシリーズで、とてつもなく悪い演技をした時に『失敗しても成績は落ちるけれど、何か本当に終わってしまうというものではないんだな』ということに気付かされた」
そして、その直後に宇野はスイスに赴き、ステファン・ランビエール コーチの指導を受けている。結果を出すことへの呪縛から解放された宇野は、もう一度スケートを楽しむ道程を共に歩いてくれる大きな存在と出会い、調子を上げていく。
“世界一”になれると信じてくれたランビエールにささげる『ボレロ』
北京五輪シーズンである今季、世界一を目指すとしてスケートに取り組んできた宇野だが、そのきっかけは4位に終わった昨季の世界選手権でランビエールコーチから掛けられた言葉にある。優勝したネイサン・チェンの演技後、ランビエールコーチは「君が彼のように世界一になるには、何が必要だと思う?」と宇野に問い掛けた。自分の可能性を信じてくれているランビエールコーチの存在が、宇野が上を目指す原動力になったのだ。
そして2022年世界選手権、ショート1位でフリーを迎える宇野は、ランビエールコーチが振り付けた『ボレロ』を滑る。『ボレロ』では4種類5本の4回転を跳ぶため消耗が激しく、北京五輪ではランビエールコーチの納得する出来栄えにはならなかった。宇野自身、「表現力の面で、今回も『見直したくない』と思えるぐらい、よくない表現ばかりでした」と辛口で、世界選手権でランビエールコーチが喜ぶような『ボレロ』を滑ることを誓っている。
フリー『ボレロ』の冒頭、宇野は4回転ループに挑み、4.05の加点がつく出来栄えで成功させる。続けて跳んだ4回転サルコウも成功したが、3本目に予定していた4回転トウループ―3回転トウループはセカンドジャンプが2回転になってしまう。しかし、続くトリプルアクセルは危なげのない美しいジャンプだった。
北京五輪では前半に跳んでいた4回転フリップを今大会では後半に組み込んでおり、3.93という高いGOEがつく出来栄えで成功させる。続いて予定していたジャンプは4回転トウループ―2回転トウループだったが、4回転トウループの着氷が乱れて単独のジャンプになった。このミスのためコンビネーションジャンプを3つ入れることができず、最後のジャンプとして予定していたトリプルアクセル―オイラー―3回転フリップでもフリップが1回転になってしまった。しかし、間違いなく今季一番完成形に近づいた『ボレロ』だったといえるだろう。
そして、『ボレロ』はジャンプの後も体を目いっぱい動かす激しい動きが続くプログラムでもある。シーズン前半は明らかに体力が続かない様子を見せていた宇野は、この世界選手権では最後まで力強さを失わなかった。気迫のこもったステップシークエンスを、観客の声援が後押しする。高揚感あふれる『ボレロ』を滑り終え、宇野は何度かうなずくようなしぐさを見せた。そしてリンクサイドでは、ランビエールコーチも両腕を突き上げている。宇野はショートに続き、このフリー(202.85)・合計点(312.48)でも自己ベストを更新。優勝を知った宇野とランビエールコーチは、キスアンドクライで喜びを分かち合った。
「この優勝がゴールではなく…」。宇野とランビエールが共に目指す未来
フリー後、宇野は「僕は、順位や優勝を目指してスケートをするというのがあまり得意ではない」と語っている。
「試合の時、『自分のために演技する』『自分のためにいい成績を残す』、そう考える人もたくさんいると思うのですが、僕はそういうプレッシャーにあまり強くないというか……『1位を取る』『自分のために演技する』、そう考えてしまうと、やはりいろいろな複雑な気持ちが芽生えてしまうと思うので。そういった時に、コーチのために、そして支えてくださった人たちのために演技すると、自分にとってはリラックスしやすいなと。『自分の一番近しい人のために』と考えていれば、そこは出来が良い悪いは関係なく、どういう演技をしたら満足してくれるかというのが分かっているので、そういった意味でリラックスしてできるのかなとは思います」
「一番自分が何もできていない時にお世話になったステファンコーチ。そんなコーチの下で素晴らしい成績を残したい、そういった気持ちがありました」
世界一になれるスケーターだと信じてくれたランビエールコーチに宇野がささげる、世界選手権の金メダルだった。
「優勝した瞬間に、感極まって涙を流すということはありませんでした」と宇野は言う。
「それは、この優勝がゴールではなく……僕のゴールというのは、自分でもどこにあるか分からない、ただ、まだまだ先にある、もっと成長した先にあるものだと思っているので、涙が出なかったんじゃないかなとは思います」
グルノーブルから始まった物語は、モンペリエでは終わらない。宇野がランビエールコーチと共に目指すゴールは、まだずっと先にある。
<了>
宇野昌磨とランビエールの“絆”に見る、フィギュア選手とコーチの特別で濃密な関係
宇野昌磨が悔やむ、北京で唯一の心残り。恩師ランビエールに捧げる、更なる成長の渇望
宇野昌磨がどん底で喘ぎ、もがき続け、手に入れた逞しさ。カメラマン高須力が見た笑顔
坂本花織の勝負強さ、ただ一つの理由。「急に金メダル候補と言われて…」重圧を乗り越えた新世界女王
三浦璃来&木原龍一、世界選手権・銀メダルの快挙の理由。結果よりも順位よりも大切にしてきたもの
この記事をシェア
RANKING
ランキング
LATEST
最新の記事
-
史上稀に見るJリーグの大混戦――勝ち点2差に6チーム。台頭する町田と京都の“共通点”
2025.08.29Opinion -
「カズシは鳥じゃ」木村和司が振り返る、1983年の革新と歓喜。日産自動車初タイトルの舞台裏
2025.08.29Career -
Wリーグ連覇達成した“勝ち癖”の正体とは? 富士通支える主将・宮澤夕貴のリーダー像
2025.08.29Opinion -
若手に涙で伝えた「日本代表のプライド」。中国撃破の立役者・宮澤夕貴が語るアジアカップ準優勝と新体制の手応え
2025.08.22Career -
読売・ラモス瑠偉のラブコールを断った意外な理由。木村和司が“プロの夢”を捨て“王道”選んだ決意
2025.08.22Career -
堂安律、フランクフルトでCL初挑戦へ。欧州9年目「急がば回れ」を貫いたキャリア哲学
2025.08.22Career -
若手台頭著しい埼玉西武ライオンズ。“考える選手”が飛躍する「獅考トレ×三軍実戦」の環境づくり
2025.08.22Training -
吉田麻也も菅原由勢も厚い信頼。欧州で唯一の“足技”トレーナー木谷将志の挑戦
2025.08.18Career -
「ずば抜けてベストな主将」不在の夏、誰が船頭役に? ラグビー日本代表が求める“次の主将像”
2025.08.18Opinion -
張本智和、「心技体」充実の時。圧巻の優勝劇で見せた精神的余裕、サプライズ戦法…日本卓球の新境地
2025.08.15Career -
「我がままに生きろ」恩師の言葉が築いた、“永遠のサッカー小僧”木村和司のサッカー哲学
2025.08.15Career -
全国大会経験ゼロ、代理人なしで世界6大陸へ。“非サッカーエリート”の越境キャリアを支えた交渉術
2025.08.08Business
RECOMMENDED
おすすめの記事
-
「カズシは鳥じゃ」木村和司が振り返る、1983年の革新と歓喜。日産自動車初タイトルの舞台裏
2025.08.29Career -
若手に涙で伝えた「日本代表のプライド」。中国撃破の立役者・宮澤夕貴が語るアジアカップ準優勝と新体制の手応え
2025.08.22Career -
読売・ラモス瑠偉のラブコールを断った意外な理由。木村和司が“プロの夢”を捨て“王道”選んだ決意
2025.08.22Career -
堂安律、フランクフルトでCL初挑戦へ。欧州9年目「急がば回れ」を貫いたキャリア哲学
2025.08.22Career -
吉田麻也も菅原由勢も厚い信頼。欧州で唯一の“足技”トレーナー木谷将志の挑戦
2025.08.18Career -
張本智和、「心技体」充実の時。圧巻の優勝劇で見せた精神的余裕、サプライズ戦法…日本卓球の新境地
2025.08.15Career -
「我がままに生きろ」恩師の言葉が築いた、“永遠のサッカー小僧”木村和司のサッカー哲学
2025.08.15Career -
日本人初サッカー6大陸制覇へ。なぜ田島翔は“最後の大陸”にマダガスカルを選んだのか?
2025.08.06Career -
なぜSVリーグ新人王・水町泰杜は「ビーチ」を選択したのか? “二刀流”で切り拓くバレーボールの新標準
2025.08.04Career -
スポーツ通訳・佐々木真理絵はなぜ競技の垣根を越えたのか? 多様な現場で育んだ“信頼の築き方”
2025.08.04Career -
「深夜2時でも駆けつける」菅原由勢とトレーナー木谷将志、“二人三脚”で歩んだプレミア挑戦1年目の舞台裏
2025.08.01Career -
「語学だけに頼らない」スキルで切り拓いた、スポーツ通訳。留学1年で築いた異色のキャリアの裏側
2025.08.01Career