野口啓代、東京五輪代表への「10日間のドラマ」 金メダルの夢を感じさせた“あと1手
スポーツクライミングの東京五輪女子代表の第一号が野口啓代に決まった。
IFSCクライミング・ワールドカップ ボルダリング優勝通算21回、年間王者には4度輝いた。プロキャリア12年に渡って日本クライミング界のトップランナーとしてひた走ってきた野口。日本が世界に誇る絶対女王の代表決定に誰しもが納得し、感動した。
その選考大会となったIFSCクライミング・世界選手権2019。野口は「ここで五輪代表を取れなかったら引退しようと思っていた」と、並々ならぬ覚悟を内に秘めて臨んでいた。
そんな絶対女王がキャリアのすべてを賭けて挑んだ“最後の世界選手権”。激闘の10日間、五輪代表が決まるその瞬間を追った。
(文=篠幸彦、写真=Getty Images)
銀メダル獲得も超えられないヤンヤの壁 女子ボルダリング
野口啓代のIFSCクライミング・世界選手権2019のプロローグは、京王プラザホテル八王子で行われた前日記者会見でのこの言葉から始まった。
「今回のこの八王子の世界選手権というのは、私にとって最後の世界選手権にしようと思っている。思えば16歳のとき、初めて世界選手権に出場したが、そのときはこんなに取材の方もいなくて、もちろん記者会見もなく。それから14年経って、まさかこんなに世界選手権が大きくて、そして日本で開催されるなんて思っていなかった。本当にこの世界選手権は私にとっての集大成にしたいと思っている。来年のオリンピックの出場枠を獲得して、あと1年、競技したいという気持ちでいっぱい」
野口が初めて出場したシニアの国際大会は、2005年7月にドイツで開催された「UIAA 世界選手権ミュンヘン2005」だった。日本代表という重圧に押し潰されそうになりながらリードで3位、ボルダリングで21位と、いずれも日本女子選手の中で最高の成績を収めた。この世界選手権は、野口をクライマーとして本格的に目覚めさせるきっかけとなった大会でもあった。あれから14年、少女は先駆者となり、ここまで日本を牽引してきた。
16歳の初めての夏から、30歳で迎える最後の夏へ。野口啓代、9回目の世界選手権が開幕した。
大会初日のオープニングを飾るのは女子ボルダリング予選だ。前日会見で「最初のボルダリングで良い波に乗りたい」と語った野口。このボルダリングから始まるリード、スピードの3つの単種目は、種目ごとでメダルを争いながら大会最後に行われるコンバインド種目の予選も兼ねている。コンバインドは東京五輪の代表枠が懸かる種目である。
各単種目の順位を掛け算して、ポイントの少ない順から20人がコンバインド予選に進出し、その20人の予選で上位8人が決勝進出。そして決勝の上位7人に東京五輪の代表枠が与えられ、さらにその7人の中に日本人が2人以上入った場合、日本人選手は最上位1人のみに代表枠が与えられる。この代表枠を誰が獲得するのかが、メダルと並んで最大の焦点となる。
とにかくコンバインド予選に進むことが最初の関門だ。野口の言う“良い波”とは、この得意種目で上位を狙い、掛け算の上で優位を取ることでもあった。
前日会見ではボルダリング単種目へこんな思いも語っている。「今シーズン、ボルダリングW杯に4戦出場してすべて2位だった。世界選手権こそはW杯よりも良い順位、優勝したい」。今季のボルダリングW杯は特別なシーズンとなった。それは全6戦をスロベニアのヤンヤ・ガンブレットが優勝し、グランドスラムを達成したからである。これは男女通じて初の歴史的快挙だった。
つまり野口は一度もヤンヤに勝てなかったのだ。そんなヤンヤについて野口は「長く競技を続けてきた中で歴代これほど強い選手はいなかった」と賛辞を惜しまない。クライミング史上最強の女王を野口はどうしても超えたかった。それがボルダラーとして数々のタイトルを獲得し、歩んできたプロクライマー野口のプライドだ。
ボルダリングでの上位獲得でスタートダッシュを狙う野口は、予選グループ2の先頭で登場した。「一番難しかった」という第1課題でやや苦戦したものの「うまく立て直してそのあと全部登れたのでメンタル的に安定していた」と、つまずきそうな序盤もベテランらしく立ち回り、予選5課題すべてを完登。「ヤンヤが絶好調で、絶対に決勝で争うことになる」と隣で登るライバルの動向も捉えながら、予選グループ2を1位通過した。
翌々日、大会3日目。女子ボルダリング準決勝で異常事態とも言える展開を迎える。準決勝4課題を20人中16人が0完登で終えたのだ。その中には野中生萌やショウナ・コクシー(イギリス)など、W杯年間優勝経験者も含まれていた。
19番目に登る野口は、待機する壁の裏でその異常を感じ取っていた。「会場の歓声や雰囲気からすごく難しい準決勝だと感じた。たくさんトライするのではなく、登れる課題を見極めて、その課題に集中したほうがいい」。やみくもなトライは体力を奪うだけだ。野口はそう判断していた。
後半になるほど傾斜が強くなる壁全体の形状を把握した野口は、どれだけ体力を後半に温存できるか、そう考えていた。第1、第2課題は無理に完登を狙いにいかず、ゾーン獲得で確実にポイントを稼いでタイムアップより早めに切り上げた。
そして第3課題を2トライ、第4課題を一撃でクリア。冷静な判断で2完登4ゾーン、2位で決勝進出を決めた。予選に次いで野口の経験は傑出していた。1位通過は3完登4ゾーンのヤンヤだ。難しいラウンドだからこそ、ヤンヤの強さは際立っていた。
5時間半後に決勝は行われた。決勝4課題を事前のオブザベーション(下見)で見たとき、第4課題は野口が得意とする課題だった。ただ、それ以外の3つはやってみなければわからなかった。
第1課題は登りながら修正し、3トライで完登。しかし、第2、第3課題は最後まで対応できず、ゾーンすら獲得できなかった。ヤンヤは最初の2つを完登。この差はあまりに重かった。
第4課題、野口は順番が回ってくる段階で4位まで順位を落としていた。「これを登れないと表彰台にも乗れない位置。気合いを入れて登った」と、得意な課題をイメージ通りの一撃。逆転で2位に浮上し、銀メダルを獲得した。金メダルは、唯一3完登したヤンヤの首にかけられた。
試合後は「セカンドコレクターを更新してしまった」と、またもボルダリングでヤンヤに敗れたことへの悔しさを吐露した。それでも「コンバインドへ良いスタートが切れたと思う」と、大会全体で見れば文句のないスタートだった。大事なのはとにかくコンバインドである。
底力を見せてコンバインド進出をほぼ決めた 女子リード
大会4日目、午前10時から男女リード予選が開始。単種目一つを終えただけでも疲労が見える選手がいた。そんな中で「朝起きて意外と疲れていなかった。もっと筋肉痛や疲労があると思っていた」と、野口の疲労は想定よりも軽かった。ボルダリングでの体力温存がここでも効いていた。
もちろん、疲労がないわけではない。予選の2ルートを「出し切らずに余力を残して終えた」と予選通過ラインを冷静に見極め、体力的に余裕を持って6位で通過。ベテランらしい盤石な展開を見せた。
大会5日目、男女リードの準決勝、決勝。野口は準決勝を6位で突破した。その約6時間後に決勝はスタート。野口の前を登るのは昨年の世界選手権でリードチャンピオンとなったジェシカ・ピルツ(オーストリア)。その昨年女王が35+とふるわなかった。
次の野口がその高度まで達すると「すごく歓声が聞こえて、その時点で前の選手よりも上部にいるんだと感じられた」と、歓声の後押しを受けながら38+まで高度を伸ばした。暫定首位に立つも後続に抜かれて最終順位は5位。ボルダリング2位と合わせて得意な2種目で好成績を収め、コンバインド進出20人に入ることはほぼ確実となった。
「最後にスピードの練習をしてからもう1週間以上が経っている。次のスピード予選で良い感覚を取り戻したい」と、スピード予選をコンバインドへの調整に当てられる状況となった。ここまで予定通りに試合を運べていた。悔しさを語る野口だが、安堵している様子でもあった。東京五輪に向けた本当の勝負が迫っていた。
文句のつけようがない3種目の結果 女子スピード
丸一日競技のないレスト日を挟んで大会7日目。男女スピード予選と決勝が行われた。スピード予選は2本登って良いほうのタイムを予選タイムとする。その1本目の試技では足を滑らせて9.953秒と失敗。2本目は9.478秒を出し、自己ベストの9.452秒に迫るタイムを記録した。
予選順位は34位で敗退となったが、スピード専門の選手が多くいる中での敗退は想定内だった。コンバインドにエントリーする選手内では26位となり、3種目の掛け算で260ポイント。全体2位でコンバインド予選への進出を決めた。
「思ったよりも順調で怖い」と文句のつけようがなかった。ただ、当然浮かれるわけにもいかない。順調な順位もコンバインド予選が始まればリセットされる。「明日これで予選落ちしたら意味がないので、まずは絶対に決勝に残りたい」と、予選に向けて気持ちも一旦リセットして新たに集中することが求められていた。
予選への心境を聞かれると「結構、緊張しています」と野口は笑顔でそう返した。冗談のようで、野口はこういうことを本音で答える。経験豊富な野口であっても、五輪出場を懸けた戦いは初めての経験なのだ。それでも何が必要なのかは熟知している。
「あまり周りを気にし過ぎず、全種目で自分の良いパフォーマンスが出せればいい。他の選手のことを考えて良い登りができるとは思えないので、本当に自分の登りに集中したい」
自分と壁に集中するクライミングの真髄である。
また、記者からスピードでは何が自信になっているかを問われ、野口はこう答えた。
「スピードはずっと苦手意識があった。その中でちゃんと練習を積んできて、最後の練習で自己ベストに近いタイムを出せたことも自信になっているし、今日自己ベストに近いタイムを出せたことも明日に向けて自信になっている。なにより日々のトレーニングによる自信の積み重ねが一番大切だと思う」
それはスピードだけではなく、ボルダリングやリードでも同じだ。野口は東京五輪開催が決まって日々の研鑽で自信を積み上げきた。そのすべてがこのコンバインドで日本人最上位となり、五輪代表枠を得るためである。前日会見で語った“集大成”を発揮するときが来たのだ。
ついに始まった真のサバイバル 女子コンバインド予選
大会8日目、女子コンバインド予選。スピード、ボルダリング、リードの順で競技を行い、上位8人が決勝に進出する。第1種目のスピード、野口は2本目で自己ベストを更新する9.391秒を出した。タイム順で10位につけたが「思ったよりも順位がよくなかった」と、自己新の手応えのわりに順位は伸びなかった。ただ、あとの2種目で巻き返しを狙う野口にとって10位は悪くないポジションである。
スピードが終わってわずか40分後にボルダリングが始まった。単種目のときとは打って変わり、コンバインドの課題は難しくなかった。それゆえ、上位陣は4つの課題をすべて完登していった。完登数で差がつかない展開ではトライの数が勝敗のカギを握る。1位のショウナは全課題一撃のパーフェクト。2位のヤンヤも最後の課題だけ2トライで、あとは一撃していた。
野口も4完登したものの、すべての課題で複数トライを要した。「すごく疲労を感じていて、集中力が切れてしまっていた。全然いつも通りの登りができなかった」。気づけば体も頭も疲弊していた。そんな状態でも4完登で4位にまとめた。野口だからできる芸当だった。2種目終わって総合順位で8位。決勝進出ラインのギリギリにいた。
残るは最後のリード。この大きな山場に、野口は酷く緊張していた。「ミスをすることがすごく怖かった」。野口の実力をもってすれば決勝に進出できる順位獲得は難しくない。しかし、リードは一発勝負だ。落ちた地点で競技は終了。ミスは許されない。加えてボルダリングでのパフォーマンスの悪さも気持ちをネガティブにさせた。
それでも集中を高めながら、野口は自分に言い聞かせた。「普段のリードの決勝前とやることは変わらない。自分のベストパフォーマンスを出すだけ」。野口の登場は19番目だ。出番が回ってくる前の段階で、完登したのは暫定1位の森秋彩のみ。2位から5位までは同高度の36+で団子状態となっていた。
野口はいつも通り、テンポよく無駄のない美しい登りで高度を上げた。野口が団子ポイントに到達する。会場の声援は自然と大きくなった。左にじわりとスライドする。左手をホールドに手を伸ばしたが掴み切れずにフォール。すぐに速報のリザルト画面を見る。高度は36+。同高度内のタイム順で野口は2位となった。3種目の掛け算で80ポイント。総合2位で野口は決勝進出を決めた。
「すごくびっくりした。ボルダーで全然良い登りができなくて、最後のリードでまさか巻き返せるとは思っていなかった」。不調だったボルダリングをリードが助ける形となった。「本当に自分の一番良い登りをすることしか考えてなかった。順位とか、決勝のことは頭になかった」と、野口は無我夢中でリードを登っていた。
そして驚きはもう一つある。「予選の結果を見て、多くて3人だと思っていた」。決勝8人に日本人が4人も残ったのだ。
野口の予想を超えてきたのは森だった。最後のリードで森は唯一の完登で1位を獲得した。誰しもがリードでも最強を誇るヤンヤの1位を疑わなかった。それがまさかの高度35+と低調に終わった。森はこの1位獲得でギリギリ決勝に滑り込んだ。
「今は争うというより、日本人4人で決勝に残れたことがすごく嬉しくて、あんまりライバルだって思えていない」。予選直後はすぐに決勝へは切り替えられなかった。それだけプレッシャーも大きく、死力を尽くしていたのだ。
「最後の1日なので、全部出し切りたい」。いよいよ、大会はフィナーレを迎える。
五輪代表枠を懸けたラストステージ 女子コンバインド決勝
大会10目、女子コンバインド決勝。前日に男子予選があり、1日レストを挟んで体はフレッシュだった。日本人が4人残ったことで、それ以外の4選手は繰り上げで五輪代表枠が内定。プレッシャーから解放された。この決勝は、日本人のみが一つの五輪代表枠を争う舞台となった。
「コンバインドはメンタルの勝負。気持ちを切らさない人が勝つ」と、勝負カラーの赤いリボンで髪をまとめた野口。持てる力のすべてを懸けた大一番が始まった。
第1種目のスピード。決勝は8人でのトーナメントによるノックダウン方式となる。野口の初戦の相手は野中だ。野中は今大会、両肩の故障を抱えながらここまでたどり着いた。どのラウンドも本来のパフォーマンスとは程遠かった。それでもスピードでは野口が分が悪い。壁の前に2人が並び、選手名のコールを受ける。野中はリラックスしたように歓声に応え、野口は何度も深く息を吐いた。
スタート位置につくとシグナルが鳴り、ほぼ同時にスタートを切った。飛び出した直後に野中がスリップすると、野口ももたついた。明らかに両者の緊張が伝わってくる。野口がわずかにリードして上部に到達した。しかし、ゴール手前で野口が左足をスリップ。一瞬遅れた隙に野中がゴールパネルを叩いた。番狂わせのチャンスを目前で逃し、野口は悔しさに頭を抱えた。
野口は5位決定戦でも敗れ、7位となった。日本勢は緊張から軒並みミスを連発し、スピードを得意とする野中が4位、伊藤が5位と上位を逃した。この結果は2人にとってかなりの痛手となった。
一方、野口に2人ほどのダメージはない。「みんな結構落ち込んでいたが、私はスピードで勝負というわけではない。それほどダメージは受けなかった」。野口は本当の勝負の場となるボルダリングへすぐに切り替えられた。それは自分でも驚くほど、すんなりとスイッチが入ったという。
「昨日もそうだし、今朝も不安しかなかった。集中したり、良い登りができるような精神状態ではなかった。でもスピードが終わってボルダリングになった瞬間、すごく集中できた。急に良い状態になれた。それは意識してというより、もう勝手に良い状態になっていた」
野口はこの土壇場でゾーンに入っていた。
コンバインド決勝のボルダリングは3課題。単種目の決勝より1課題少なくなる。課題数が減ることで、より課題との相性が重要となる。1つでも完登数に差が生まれると逆転は難しくなるからだ。競技順はスピードの下位からのスタートで、7位の野口は2番手で登場した。
第1課題、野口はその極限の集中力を発揮した。1番手の森が3トライで完登すると、野口は一撃した。トライ数の勝負になる。そんな展開だった。次はヤンヤの出番だ。1トライでゴール手前まで到達した。
ヤンヤも一撃してくると思った。そのときだった。ヤンヤが足の順番をミスした。たまらずフォールすると、ヤンヤはその後も攻略できずに終わった。前の2人が登れてヤンヤが登れない。こんな展開はシーズンに一度あるかないか。めったにないことだった。完登できたのはショウナを含めて3人のみ。一撃した野口に流れが来ていた。
第2課題、森は完登を逃した。そして傾斜の強い課題を得意とする野口は2トライで完登。ゴールを両手で掴んだ瞬間、野口はホールドを叩いて喜びを爆発させた。この完登はそれほど決定的だった。次のヤンヤは一撃したが、ショウナは完登できず。2完登は野口のみとなった。
第3課題はまた傾向の違うバランシーな課題。しかし、この難課題を誰も攻略できず、勝負は2課題目までのスコアで決した。野口が今シーズン初めてヤンヤに勝った瞬間だった。
「コンバインドでの1位だけど、私の中では本当に大きかった。最後の最後で、ボルダーで1位が取れて本当に嬉しい。今シーズンの中でも一番良い登りができた」。ここまでのキャリアが凝縮された、野口渾身の登りだった。
そして、このボルダリング1位は五輪代表枠を大きく引き寄せた。
2種目が終わって日本人トップは7ポイントで2位の野口。次が16ポイントで5位の野中、30ポイントで7位の伊藤、40ポイントで8位の森となった。野中と伊藤はリードの実力的に野口に及ばず、森だけが野口を凌ぐ可能性があった。森がリードで1位を取った場合、野口は5位以上が必要。森が2位ならば野口の五輪代表枠が確定する。
野口の夢はもう手の届くところまで来ていた。
最後のリード、1番手は総合8位の森だ。初出場の15歳に会場から大きな声援が届く。154cmの小さな体を目一杯広げ、力強く登っていく。最後、苦手だったランジでゴールを掴み、森は残り39秒で完登した。
5番手はヤンヤだ。ヤンヤは軽やかに登り、瞬く間に他の選手たちの高度を越えていった。女王の圧巻の登りに会場は魅了された。制限時間1分を残して完登した。テクニック、フィジカル、持久力、すべてが別次元だった。
この瞬間、野口が3年間、思い焦がれた五輪代表枠の獲得が決まった。
7番手で登場した野口を見て、何を思って登るかを想像した。そのとき、会場のビジョンには直筆メッセージの“集大成”の3文字が表示された。やることは変わらない。ここまでそうしてきたように、自分のベストを出すだけなのだ。そしてまだ、金メダルの可能性が残されていた。そんな野口を会場は万感の思いを乗せた拍手と声援で迎えた。
野口もヤンヤのようにハイペースで高度を伸ばしていった。しかし、テンポの良い登りも最後の傾斜の緩い局面に入ると徐々に鈍っていく。「登っている途中、最終面にいけるかわからないくらい疲れていた」。ゴールから7手前辺りからは明らかに苦しそうにヨレてきていた。観客の握りしめた手に力が入る。いつ落ちてもおかしくなかった。
それでも、野口は止まらなかった。
そしてついにゴール手前の高度40まで到達。まだ制限時間は2分以上あった。会場は割れんばかりの声援で野口の背中を押し上げる。とっくに限界に達している力を振り絞り、野口はゴールへ飛びついた。伸ばしたその両手はかすかにホールドをかすめ、届かなかった。
「最後のリードであんなに振り絞れるとは思っていなかった。ゴール取りの時点で疲れていて、完登する余力はなかった。終了点の1手前までいけただけでも奇跡的だった」
ヤンヤ、森に次ぐ3位。すべてを出し切った、まさに集大成の登りだった。直後の野口の目には涙が浮かんでいた。
最終的に総合2位。銀メダルを獲得し、現役最後の舞台に東京五輪を選ぶ権利を得た。「本当に夢みたいでまだ信じられない」。激闘を終えた野口の第一声だ。これは30歳で叶えた夢なのだ。「あと1年間、クライミングができることが嬉しい」。あと1年という思いの裏にはこんな決意もあった。
「ここで五輪を決められなかったら引退しようと思っていた」
野口はずっと自分にプレッシャーをかけ続けてきた。東京五輪を終着点に見据え、これが最後の戦いなんだと。メンタルコーチを務める東篤志コーチは野口の大会に向けた準備の仕方をこう話す。
「彼女は自分自身であえてすごくプレッシャーをかけることで大会の価値を高めていく。そうすることで日々の生活やトレーニングの質を大事にし、準備をしている。この準備の質でメンタルの状態も決まってくる」
野口はこれでダメなら引退という覚悟を持ち、極限まで世界選手権の価値を高めて日々を過ごしてきた。同時に「ここまで周りに応援してもらって結果が出せなかったらどうしようという不安はあった」と、強烈に襲ってくる不安に苦しんでもいた。だからこそ、野口はさらに自分を追い込み、最高の準備の質にこだわってきた。
不安やプレッシャーを乗り越えられた理由を聞かれ、野口はこう答える。
「今日何かがあったわけではない。本当にここまでボルダリング、リード、スピード、全ての競技をちゃんと積み上げてきた自信があった。スピードで失敗してもリードやボルダーもしっかりとトレーニングしてきた。ボルダーで失敗してもスピードやリードもしっかりトレーニングしてきた。その努力してきたという自信が、私の支えとなってくれた」
その重厚な積み重ねこそが野口の真の強さであり、苦しいときの一手を支えていたのだ。
東京五輪までの1年、野口はじっくりと準備ができる。あと一つ上にいくためには何が必要なのだろうか。「もちろん、全種目上げなければいけない。コンバインドのリードの課題は、W杯ほど難しくない。完登すればタイムで勝てる可能性だってある」。
あの最後に伸ばした手が届いていれば、ヤンヤに勝てていたのに――。
終わった直後、そんなことを考えるのは野暮だと思っていた。しかし、野口はあそこに可能性を感じていたのだ。
あの瞬間に見た夢は、1年後、きっと叶えてくれるはずである。やはり野口啓代というクライマーは、観る者にそうした希望や夢、想いを抱かせてくれる。そんな最後の世界選手権だった。
野口の夢は、あと1年続く。
<了>
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