「バスケはヤワだから嫌いだった」NBAレジェンド、アイバーソン少年の意外すぎる原点

Career
2026.07.31

NBA史上屈指のカリスマとして知られるアレン・アイバーソン。しかし、幼い頃の彼は「バスケットボールなんて絶対やらない」と言い張る少年だった。そんな彼の人生を変えたのは、無理やり体育館へ連れていった母、そして貧しい地域で可能性を信じ続けてくれた二人のコーチだった――。本稿では書籍『アレン・アイバーソン自伝 THE ANSWER』の抜粋を通して、アイバーソンが自身の原点を振り返る。

(文=アレン・アイバーソン、訳=岩崎晋也、写真=AP/アフロ)

8歳で年上カテゴリーへ。「準備はできていた」

モーはあの日スチュアート・ガーデンズでオレを見て、即決した。

ハンプトンのアバディーン地区にある自分のチームにオレを入れることを。ニューポートニューズの家からは少し遠かった。それでも、アバディーン・スポーツ協会はきちんとした取り組みをしていることで知られていた。ブッチ・ハーパーという人物が再興させ、仲間内にモーと呼ばれるゲイリー・ムーアをコーチとして呼び寄せていた。あのころ、モーはインターミーディエイト(l0歳から12歳)・チームのフットボールチーム担当だった。オレのことでは、いくつか調整が必要だった。

第一に、オレはハンプトンに住んでいなかった。だがモーはどうにかしてそれを切り抜けた。ばあちゃんの住所を使ったのかもしれないが、わからない。第二に、オレの年齢だ。まだ8歳だったうえに、大柄な8歳でもなかった。NBAでMVPを獲った年、オレは“ずぶ濡れ”のユニフォーム込みで体重75キロと言われてた。8歳のときは、ずぶ濡れのユニフォームと2ポンド(およそ900グラム)のダンベル込みでも30キロあったかどうか。実際のところは、あと2年くらいは小さい子向けのピーウィー・フットボールをやるべきだった。ところがモーはオレをインターミーディエイトでプレーさせると言い張った。そしてついには、ちびっ子のオレが例外扱いに値すると全員を納得させちまった。

そしてオレはといえば、いつだって高いレベルでプレーしたかった。どのスポーツでもそうだし、ベセル高校の二軍チームでプレーしたときや、ジョージタウン大学からはじめてアーリーエントリーでNBA入りしたときまで、それは変わらない。それに、つるむ仲間たちについてもそうだった。同い年の子どもが自分と釣り合うと思ったことはなかった。

オレは8歳だった。インターミーディエイトのフットボールをやる準備はできていた。

人生を変えた考え“オレだっていいはずだろ?”

言ったように、アバディーンはスチュアート・ガーデンズからは少し遠かった。歩ける距離じゃない。

ママがある日モーを連れてきて、オレがアバディーンでプレーできるかどうか見てもらったものの、オレが練習や試合に行けるかどうかまでは考えてなかった。そこはオレがいつもなんとかしなきゃならなかった。そしてだいたいは、モーが迎えに来てくれた。オレたちは惹かれあっていた。モーには息子がいなかった。妻と娘がいるだけだった。そして自分もかつてアスリートだった。いちばん得意なのは野球だったが、子どものころにはフットボールもやっていた。それにどんな子どもでもそうだが、とくにオレに力を貸そうとしてくれた。

会ったばかりのころは、ただ尊敬してた。もちろん父も尊敬していたが、そのうちストリートをぶらつくようになってしまった。長いあいだ造船所で9時から5時まで働いていたが、結局はストリートに吸い寄せられてしまった。モーはちがってた。ちゃんと働いてたし、家族を大事にしてた。そういうところがすごいと思っていた。実際のところ、オレは完璧な人間じゃないが、いつも何より求めていたのは、強い絆で結ばれた家族だった。そしてオレはいま、それをちゃんと手にしてる。モーがはじめから、手本を見せてくれてたんだ。

最初に教えてくれたことで重要だったことのひとつが、「あいつか自分かの状況では、つねに自分が行け」だ。あいつと自分がいて、エンドゾーン間近なら、タックルに行くのは自分だ。自分がボールを持ってたら、自分でタッチダウンしろ。世界じゅうの才能ある人々、天から力を授けられた人々は、ひとり残らず同じものを求めて争ってる。だったら、オレだっていいはずだろ? スポーツのときは自分を第一にしろということだが、もちろん人生にも当てはまる。自信を持つこと。貧しい地域には恐れがある。ためらいがある。自尊心の低い子どもたちがいっぱいいる。結局大事なのは、オレだっていいはずだろ?と自分に問いかけることだ。タッチダウンするのは、タックルするのは、オレだっていい。なんなら、大統領になるのだって。

ましな将来というのは、オレたちには自然なものじゃなかった。だからあのときに、もっといいものを自分の目で見たこと、それがオレを変えたんだ。オレにとってそれは、アバディーン・レイダースでフットボールをしたことだった。

「やだ、バスケはやらない」オレは大泣きした

オレの初恋はフットボールだった。最初、バスケはいっさいしてなかった。ヤワすぎるとずっと思ってた。オレのタフさを見せるにはフットボールがいちばんだと思ってたんだろう。近所の奴らも、フットボールをする理由はやっぱりそれだった。

で、ある日、たぶん9歳か10歳のころだ。ママが近づいてきて、バスケのトライアウトを受けてみたら、と言った。

「絶対やだ」

オレはいったんこうと思ったら、なかなか気が変わらない。フットボールに集中してたし、野球もちょっとやってたけれど、バスケには手を出したくなかった。フットボールが終わったあとはゆったりと過ごしたい、って気持ちもあった。何もない時間が好きだった。

ところが、ママはイヤだという答えを許さなかった。オレを車に乗せ、体育館に連れてった。そのときに行った場所は、いまでもよく覚えてる。アマチュアリーグのトライアウトか何かだった。ママはオレをそこまで文字どおり引っ張っていった。オレは大泣きした。

コートに入った。近所の奴ら、フットボールをしてる奴らがみんなその体育館に来てた。オレは心のなかで思った。だったら、オレもいいかな。それで、すわって観察してた。たぶん10分か15分くらい。みんなの動きかた、シュートのしかたを見てた。準備完了だ。

それがオレの学びかたなんだ。視覚による学習。いまでもそうやって考え、学んでる。それはたぶん、こんな仕組みなんだと思う――ちっちゃいころから、オレはアーティストだった。何かを見ると、それを描いて、紙の上に再現する。スポーツも同じことだった。観察し、自分がそれをやるところを思い描く。それから、いよいよやってみる。

オレはコートに立った。いま見たものを、再現してみた。普通にできる。

もう十分だった。バスケはオレのスポーツだ。ほんの1週間くらいだった。オレは観察することから練習を始めた。これがレイアップ。これがジャンプショット。ディフェンスでの立ちかた。わかった、できるよ。最初、ディフェンスのことはあまり気にしなかった。

「ありがとう、ママ」嫌々始めたバスケが運命に

ママに言うべきことといえば、「ありがとう、ママ。ありがとう、ママ。感謝してる」ってことだけ。本人以上にオレのことがわかってた。母親に何か言われて、ほんとにそのとおりだったって経験があるだろ? 「これ食べてみて、おいしいから!」。それで食べてみたら、すげえ、最高じゃん、てなるやつ。オレにとってはバスケがそれだった。

1、2週間で基本をマスターした。ひと月もしないうちに、チーム一の選手になってた。

でも最初のころは、バスケはフットボールみたいにはならなかった。子どものころは何かで優勝するみたいな成功はしていなかった。

高校に入るまでのコーチはボブ・ベアフィールドだ。フットボールコーチのモーと同じく、ハンプトンのアバディーンにいた。モーより年配で、バスケと、ニューポートニューズやハンプトンの子どもたちについて知り尽くしてた。いつも近くまで迎えに来てくれた。乗ってたのは小型のバンだった。スチュアート・ガーデンズに来ると、オレがどこにいるか人に尋ねながら車でうろうろした。そのうちに、コーチの車が見えると誰かが呼びに来るようになった。

最初のころ、コーチはオレとスナッパーを一緒に送迎していた。でもベアフィールド・コーチはオレたちがよその子とちがうことを知っていた。オレたちは公営住宅の子どもだ。バンに乗りこむ前に、髪をちゃんと櫛でとかすようにと言った。チームのほかの子どもたちはハンプトンから来ていた。両親がちゃんと送り迎えもするし、髪もきちんとしてた。ベアフィールド・コーチから最初に学んだことはこれだ――きちんと髪をなでつけること。

バスケのプレーは、モーのもとでフットボールをやるのとはちがってた。たぶん規律が欠けていた。オレは自分がマイケル・ジョーダンだと思ってた。だから、たとえばスティールをしてフリーになると、派手なことがしたくなった。マイク(ジョーダン)みたいに。でもそこでレイアップをミスるんだ。マイクがダンクするときみたいな体勢でシュートに行くけれど、もちろんまだダンクはできない。それでもできるみたいなつもりでダンクの体勢になって、結局はバックボードに当てた球がはずれてしまう。普通のことができなかった。コーチはみんなこう言ってた。「普通のレイアップができるようになったら、ゲーム特典のパックを買ってやるよ。派手なことはやるな」。それでもオレはやめられなかった。コーチたちはイライラしただろうな。

勝つことより大切だった、もう一人の恩師が教えてくれたこと

ベアフィールド・コーチはオレに、試合に勝つ以上のことを求めてた。それでも、1回も優勝はできなかったけれど。バンに乗っているあいだに、よくこれからの予定を話してもらった。甲高いしゃがれ声で南部訛りをしゃべっていたから、田舎の人って印象だった。そんな調子で、トラブルを避けて、死んだり刑務所に行ったりしないようにと言い聞かせてた。髪をなでつけさせながら、そんなことを思っていたんだな。

ここにもやっぱり、オレを信じてくれる人がいた。自分の人生をしっかりと計画して、よいことを行い、同じことができるとオレにも思わせてくれたんだ。

そしてオレには愛のムチを注いでくれた。でもそれは、学校でのやらかしじゃなくて、コート上でのやらかしについてだった。ママはコーチに、オレが落第しそうだとか学校へ行かないことを伝えていた。そんなとき、コーチはもうプレーさせないぞと脅した。でもオレが悪さをしても、その脅しを実行することはなかった。優しい人だった。オレが困ってるのを見たくなかったんだろう。

最初から、オレにとってはコートでの見た目が重要だった。ママはオレにそう教えた。だから最初からエアジョーダンを履いてた。そしてハイソックスをはき、ニーパッドをつけてた。いまあのころの写真を見返すと、ニーパッドはなんでつけてたのか意味がわからない。でもオレはそのパッドをつけ、ソックスもパッドの近くまで引き上げてた。まるでユニフォームの一部みたいに。脚にスリーブをつけてるみたいだった。

骨折してもコートへ。アバディーンの公園で育った少年

上達するにつれて、遠征チームに入るかどうかという問題が起こった。ついに、カンザスでのトーナメントに出場するために遠征してほしいと言われた。そのトーナメントがどうだったのか、勝ったのか負けたかは覚えていない。覚えてるのは、ナイキのエアフォースワンをやたらに欲しがったことだけだ。金もないのに、オレはママをせっついた。ナイキが手に入らないならトーナメントなんて行けない。だからその月、わが家は電気もつかず、お湯も出なかった。そうしてまでママは望みのものを買ってくれた。

だけど、最初のころバスケをどこで教わったかというと、実際にはアバディーンの公園だった。基本的に、小さい子は昼間にプレーしていた。夏にはクソみたいな暑さになる。それから、太陽が沈みかけたころに本物のゲームが始まる。覚えてるが、そのナイトゲームに参加することはオレの望みのすべてだった。それだけの力を示さないと、そのコートに立つことはできないんだ。

そこでオレは子どもなりに、夏のあいだ、なんとかしようと取り組んだ。バスケのきちんとしたプレーや、リングに入れてフィニッシュする方法。大事なのは安直なファウルじゃない。ジャンプショットでもない。入れなきゃいけないんだ。もちろん、勝つことでコートに残りたかった。

13歳か14歳くらいのときに、ナイトゲームでプレーするようになった。そのころに、入れてももらえない状況から、ほぼ一瞬でベストプレーヤーになってしまった。最初にメンバーに選ばれるようになった。あのときは最高に嬉しかった。叔父さんのスティービーとグレッグもそこでプレーしてた。でもオレのほうが上を行ってた。それこそオレの望みだった。

どれだけ大事なゲームだったかをわかってもらうために、ある夏のはじめの週末の出来事を話そう。その何日か前に、オレは親指を骨折してしまった。父に病院に連れていってもらって、ギプスで固定された。時間を先送りすると、その日は完璧な一日だった。夜が来ると涼しくなった。みんな集まってた。試合をしてる奴らばかりじゃない。女の子たちもみんないて、まったりと夜更かしと涼しい空気を楽しんでた。ベンチにみんなですわったり、フェンスによりかかったりして。みんなで観てたんだ。オレがNBA時代、ロサンゼルスとかアトランタでいいプレーができたのには、間違いのない理由がある。大観衆にいい印象を与えなきゃならないからだ。

そのときオレは、どうしてもプレーしたくなった。それでどうしたかというと、家に帰って、石膏(せっこう)を水に浸けて流してしまった。伸縮性の包帯を巻いて、またプレーしに行った。痛みはとんでもなかった。でもオレのチームは勝ちつづけた。その晩はコートから外れないで何ゲームもプレーしつづけた。家に帰るときは涙が出てた。父はこう言った。「それはもう、自然に治るのを待つしかねえな」。新しいギプスをつけに病院に連れていってくれなかった。あのときのせいで、いまでもときどき親指が痛む。

これは高校に入学する直前の夏休みのことだった。すごい夏だった。いいバスケ選手にはなっていたけれど、公園のレジェンドと呼ばれるほどじゃなかった。フットボールはそれとはちがってた。みんながオレを知っていたし、たぶんそのときは、ノートルダム大学に行くのを目標にしてた。だがオレは、バスケを愛してた。NBAでプレーするのが夢だったが、その望みは遠く感じられていた。

【連載第1回】「練習、練習って…」は誤解だ。NBA伝説アレン・アイバーソンが初めて明かす“あの会見”の真実

(本記事は東洋館出版社刊の書籍『アレン・アイバーソン自伝 THE ANSWER』から一部転載)

※次回連載は8月7日(金)に連載予定

<了>

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[PROFILE]
アレン・アイバーソン
1975年生まれ、アメリカ・バージニア州ハンプトン出身。ジョージタウン大学を経て1996年NBAドラフト1位でフィラデルフィア・セブンティシクサーズに入団。新人王を皮切りに、2001年のシーズンMVP、得点王4回、オールスター選出11回など数々の金字塔を打ち立て、2013年に正式に引退。2016年には殿堂入りを果たす。2021年にはNBA75周年記念チームに選ばれたバスケットボール界最高の選手のひとり。攻撃的で速いプレースタイルに、ファッションと自己表現を統合した画期的な存在。アスリートが個性を打ち出す時代を先取りし、1990年代後半から2000年代はじめのアメリカ文化を牽引した。またリーボックと全キャリアにおよぶパートナーシップを結び、現在は同社のバスケットボール部門副社長を務めている。

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