「あのベンツは返してこい、クソガキが」恩師トンプソンがアイバーソンをNBAへ送り出した日

Career
2026.08.21

1996年春。ジョージタウン大学で全米屈指のスターとなったアレン・アイバーソンは、NBA入りか、大学残留かという人生最大の決断を迫られていた。恩師ジョン・トンプソンとの対話、家族を支えなければならない現実、そして周囲から向けられた「まだ早い」という声――。本稿では書籍『アレン・アイバーソン自伝 THE ANSWER』の抜粋を通して、NBAドラフト前年、ひとりの青年が「大学を去る」決断に至るまでの背景をアイバーソン本人が赤裸々に語る。

(文=アレン・アイバーソン、訳=岩崎晋也、写真=UPI/アフロ)

恩師ジョン・トンプソンが見抜いていた「NBA入り」の覚悟

大学2年のシーズンが終わったあとのある朝、ジョン・トンプソン・コーチからオフィスに呼ばれた。話さなければならないことがある、と。

深刻な話であることはわかってた。オフィスに入ると、コーチはデスクの後ろにすわってた。いつもの厳格な父の顔だ。厳格な人は好きじゃないんだが、トンプソン・コーチは信頼してた。

その信頼は、自動的に生まれたものじゃなかった。そのころには、面と向かって言われた言葉だけで信頼しちゃいけないことは学んでた。いつだって、相手が本当に考えてることを知らなきゃならない。だがオレはコーチの考えはわかってた。少し前に、ちょっとしたことがあったからだ。

試合後には、トンプソン・コーチはアシスタントたちとバスルームに行って、その試合について話し合う。ところがある日、チームメイトのジェリー・ニコルズがバスルームに入ってたことがあった。コーチ陣はあいつがいることに気づかない。シートン・ホール大に勝ったあとだ。オレは40点取って最高のプレーができた試合のひとつだった。ジェリーはみんなのところに帰ってきて、こう言った。

「トンプソン・コーチがおまえのこと話してたぞ。ほかのコーチに向かって、こう言ってたんだ。『あのチビはとんでもない化け物だ』って」

オレは平静を装った。でもこの話を聞いたことは忘れられない。オフィスに入ると、コーチはすぐ本題に入った。

「プロに行くのか?」

まず頭に入れとかなきゃならないのは、トンプソン・コーチのジョージタウン大ホヤーズから、アーリーエントリーでNBAのドラフト指名を受けた選手はいなかったということだ。ディケンベ・ムトンボも、アロンゾ・モーニングも、パトリック・ユーイングも。

「なぜそう思うんですか?」

「このへんで起こってることは全部把握してるんだよ。おまえが最近乗ってる車のこととかな」

そのころ、ベンツのSクラスに乗りはじめたばかりだった。ディーラーから借りた車だ。でも、なんでオレの車のこと知ってんだよ? まあ、オレみたいな貧しい地域の出身者がベンツSクラスに乗ってて、コーチにばれないはずがなかった。

怒られると思った。もっとイヤなのは、あの失望した顔で見られることだ。コーチはオレを見た。「やらなきゃならないことをやれ」。オレはまだ決心してなかった。それから、コーチはこう言った。

「けどな、あの車は返しとけ、クソガキが」

言われたとおりにした。

夢だったベンツ、それでも決めきれなかった「NBAか大学か」

アーリントンにあるベンツのディーラーに行った。フロアに展示されてる車に目をやると、黒いメルセデスS600クーペがあった。中古だけど、まだ数千マイルしか走行してない。セールスマンが近寄ってきて、運転席にすわってみてください、と話しかけてきた。「レザーの柔らかさをご確認ください。カスタムですよ。それから、試乗をどうぞ」。

オレたちは道路に出て、V12エンジンを味わった。値段を尋ねると、10万ドルを少し超えるくらいだった。オレは頭を振った。そんな金はない――オレにはまだ、選手としての評判と寮の部屋、1日3食の大学での食事しかなかった。

セールスマンはオレのことを知ってた。「少しのあいだ、乗ってみてください。お客様の将来が決まったら、話をまとめましょう」。書類も契約書も、支払いもなし。高級レザーのハンドルを両手でつかんで、オレはそこを出た。ディーラーショップが後ろへ遠ざかっていくにつれて、過去の記憶が蘇ってきた。なんて遠くまで来たことか。髪を櫛でとかせと言われて、ベアフィールド・コーチのバンに乗ったこと。モーの車で、ストリートから連れ出されたこと。

いまここにあるこれ――この車、この成功、この自由――こそ、オレたちが夢見てたものだった。あそこから車で出発するのは、犯罪でもなんでもなかった。最高の出来事だ。人生は完璧だ――ただ、ふたつのすばらしい選択肢からひとつを選ぶというむずかしい問題があった。NBAか、ジョージタウン大学でのもう1年か。

ラジオをつけて、ボリュームを上げた。たしかトゥパックが『オール・アイズ・オン・ミー』をリリースしたばかりの時期だった。「カリフォルニア・ラブ」がスピーカーから流れた。そして物思いにふける脇で、いつもオレの心に語りかける曲、「ディア・ママ」がかかった。オレはひたすら運転した。

地元のバージニア半島まで行き、友達や家族と会った。復活祭の週末だった。その車で、ママと父、妹たち、娘、友人たちに会った。みんなオレの車に度肝を抜かれてた。将来どうするかについて話をした。でもみんなはあの車を見て、もうオレが心を決めたと思ってた。

で、その週末の最後に、地元のデイリープレス紙が、地元の匿名の情報源の言葉として、オレのNBAドラフト入りを報じた。まもなくそれが全世界に伝わった。心のなかでは自分がどうするかわかっていたかもしれないが、まだトンプソン・コーチにも話してなかった。

「家族を養わなければならない」決断を後押しした現実

オレは、少なくともきちんと意識して、心を決めたわけじゃなかった。家の問題も片づいてなかった。同じ週末に、父がまた問題に巻きこまれた。父が兄弟たちと住んでる家に家宅捜索が入って、あれこれ押収していった。当局は父(と、そこにいた全員)を逮捕し、また薬物関係で告訴された。1年後には裁判が待ってる。弁護士費用の支払いが必要になる。前科があり、刑務所へ出たり入ったりしていて、まだ仮釈放中だった。父が家族を支えていくことは無理なのは間違いなかった。

そして、信じられないことに、生物学的父親のほうもその4月に逮捕された。結局、何年も刑務所に入ることになる。だから大学の試合にも、NBAの試合にも、一度も観に来ることはなかった。プロ入りするかどうかに、それが影響を与えたかどうかはわからない。でもそのひと月だけでも、これだけめちゃくちゃな状況だったんだ。

家族はオレをいままで以上に必要としていた。とはいえ、トンプソン・コーチに守られた環境で、もう1年大学でやるのも悪くなかった。ベンツでまたジョージタウンまで戻るとき、ボーズ製の特注のサウンドシステムからはストリート・ミュージックが流れてたが、聴いたことがないほどの大音量で、高音質だった。こんな最高の贅沢を、オレは諦められるのか?

キャンパスに戻ると、オレはまだ寮に暮らす、ただの大学生だった。地元に帰った1週間くらいあとのある日、DCのべつのところに住んでる友人の家にベンツで行った。するとテレビ局のバンがあとをついてきて、それをテレビで流した。

そしてバージニアのときと同じように、DCでもみんなが車のことを根拠に、オレはもう心を決めたんだと思うようになった。でもオレはその代金を払ってないし、そんなことはできなかった。ただ乗ってただけだ。

たしかに決断はしなきゃならなかった。質問は年じゅうされてた。アレンはトンプソン・コーチのプログラムから途中で去っていく最初の選手になるのか?    マイケル・ウィルボンは、当時はまだ無名の記者だったが、こう書いている。

「彼はNBAへの準備ができているか? 誰もがアイバーソンの名前を口にしている。美容室でも、銀行でも、タクシーの車内でも、食堂でも」

そうした会話すべてがコーチには気に入らなかった。それで、彼は言った。「アレンは、わたしが許可しないかぎりどこへも行かない」と。べつのときには、こうも言った。「アレンは、準備ができているとわたしが認めたときには、NBAへの準備ができている」。

なかには、コーチが状況をコントロールしようとしていると怒り出す奴もいた。だけど、コーチの意図は、オレの重圧を軽くすることだったんだ。コーチはこうも言ってた。「わたしはこれまで誰にも、4年間ここにいなければならないという規則を課したことはない」。

ひとつたしかなのは、決定権はオレに与えられてたってことだ。でももちろん、オレは誰よりもコーチのアドバイスを大事にしてた。

「準備」ということのふたつの側面

オレのNBA入りに関して話が上がってたのは、「準備」ということのふたつの側面についてだった。バスケの面と、コート外の面だ。

バスケに関しては、誰もがオレの運動能力と才能を認めてた。それでもオレは小さかったから、みんなオレの「ポイントガード」としての能力のことばかり言ってた。ミルウォーキー・バックスのGM、マイク・ダンリービー・シニアは「わたしはアレンのプレーが好きだ。だがポイントガードとしてはまだ完成されていない」と語った。ウィルボンは、オレに改善すべき問題があるとすれば、「それはパスだろう。183センチ、75キロのサイズでは、与えられるポジションはひとつ、ポイントガードしかない」と述べた。トンプソン・コーチもこう言ってる。「試合のテンポをコントロールすることを学び、そのほか学ぶべきすべてのことを知ること、それが彼の将来を決めるでしょう」。

それにオレについて、過去のことについてもみんなが話してた。ブー・ウィリアムズの言葉を彼らは繰りかえした。「バスケットの面で、彼はNBAへの準備ができている。それ以上に大切なのは社会的なスキルだ。もう少し成熟する必要がある」。トンプソン・コーチは、コートにいる2時間については心配していない、と言った。「わたしが恐れているのは、残りの22時間のことだよ」。

こうした言葉が、何かにつれて耳に入ってきた。キャンパスでも、家族や友達との電話でも聞かされた。それは腹が立つことだった。コート上ではどうにかなることは自分でもわかってた。プレーの準備はできてる。それには確信があった。だけどもうひとつのほうは、オレはその6月に、21歳になるところだった。個人的なことはほっといてくれ。みんなは、人生を楽しむなと言ってるんだな、とオレは考えた。

こんな状況で、話があるから来い、というコーチからの電話がかかってきた。コーチはオレに車のことを問いただした。コーチがあの言葉を言ったときのことは決して忘れない。「自分がやらなきゃならないことをやれ」。そして、あのベンツは返しておけ、と言った。オレは言われたとおりにした。

コーチはまた、デューデリジェンスもこなす必要がある、と言って、自分の代理人であるデイビッド・フォークと同席させた。フォークは誰もが知ってるようにジョーダンの代理人だが、トンプソン・コーチや、ジョージタウン大学からプロ入りしたほとんどの選手の代理人でもあった。フォークは単刀直入だった。「大学に残ったほうがいい。プレーを磨いて、ドラフトでのステータスを高めよう。いまのままじゃ、ドラフトロッタリーの対象になる全体13位までにも入らないだろう」。

おかしな話だってことはわかってた。たぶん本当の狙いは、オレが大学に戻り、トンプソン・コーチのためにチャンピオンシップを獲ることだったんだと思う。オレだってそうしたかったよ! それがオレにとっていちばんつらいところだった。ジョージタウンでやり残したことがあると感じることが。

でもそのとき、オレはフォークやエージェンシーの人々に向かって、地元で起こってることを洗いざらい話した。それは世間であまり話題になってないことだった。話題になるのはバスケットボールと、コート外のことばかりで、いちばん重要なことは置き去りにされてた。

オレは自分の家族を養わなきゃならない。ウィルボンはワシントンポスト紙で、オレがそれを気にすべきではないと書いていた。「家族や親しい友人たちについては、これまでレクサスの新車を運転し、数百平方メートルの家に住んできたというのでないなら、360日くらいどうということはない。あと数か月、いまの車に乗って、いままでの家に住んでいてくれと伝えよう」。

人の意見を尊重しないわけじゃないが、ばあちゃんを亡くして、人の人生には限りがあるってことをオレは学んだんだ。待つばかりが選択肢じゃないってことも。

「おいおい、あのチビが全体1位か?」

彼らは口を閉ざした。トンプソン・コーチはのちに、当時トロント・ラプターズで要職についてたアイザイア・トーマスに相談して、オレのプロ入りを認めたと言っていた。コーチはアイザイアに、オレが何位で指名されるだろうかと尋ねた。アイザイアは無言で、ただ、指を1本上げた。トンプソン・コーチは驚いた。

「おいおい、あのチビが全体1位か?」

デイビッド・フォークのチームも、リーグで編成担当者たちに問いあわせて、同じことを知っていった。かなり高い評価だ、全体1位もありうる、と。

父はまた麻薬関連の犯罪で告発されてた。ママと妹たちはひどい家に住み、請求書の支払いにも困ってた。妹のひとりは医学的な問題を抱えていて、その治療費を払えずにいた。タワナは実家で暮らし、オレ抜きで子どもを育ててた。全然金はなかった。そこから解放されたかった。1位で指名されれば、数百万ドルが約束される。

選ぶ余地なんかなかった。「NBAのドラフトに参加することに決めました」。この言葉で記者会見を始めた。

左にはママがいる。右はトンプソン・コーチ。その右がデイビット・フォークだ。目の前には大勢の新聞記者がいる。オレはスーツを着用してた。ジョージタウンでの2年間、そうしてきたように。これがオレの人生最大の記者会見になった。

自分の決断を発表してから、およそ1か月後だった。そうなることはたぶん自分でもわかっていたが、話し合い、デューデリジェンスを済ませ、代理人としてフォークと契約し、発表する準備が整った。この記者会見では、練習については誰も質問しなかった。

正直なところ、会見では悲しい気持ちになった。オレはなぜ大学を去るのかを説明する声明を準備していた。要点はこういうことだ。

「もちろん自分の教育をさらに進めるつもりではいるが、家族が必要としているものに、いますぐ取り組む必要がある」。オレはママの肩に手を乗せ、ママはオレに寄りかかってキスした。「母はぼくを20年間育て、最善を尽くしてくれた。いまは母や小さい妹たち、娘に何かをしてあげたいと思っている」。

ベンツのことを質問されたのは覚えている。妹に会いに行くのに必要だったと答えた。もちろんオレは、贅沢がしたかったんだ! それはオレの決断の大きな部分を占めてた。何もない生活をしてきた奴は、貧困から抜け出すってことしか見えてないものなんだ。オレはその筋書きに従っただけだった。

トンプソン・コーチは機会を捉えてシステムについて話した。そして、ジョージタウン大学病院がオレの妹に手を差し伸べられないのは間違っていると主張した。そうすると、オレは不適切な利益を得たことになり、学生としての資格を失ってしまう。「人生に必要なものを手にする唯一の方法がNBAに行くことだとしたら、若者が学校に残ることなど期待できない」と、コーチはいつもの保守的な口調で言った。

最後は、感傷的ではなくなってジョークも飛び出していた。トンプソン・コーチは、「皮肉なことに、勧誘(リクルート)という観点からすると、これはわれわれに利益をもたらすことになった。まったく、イヤな世界だよ。これまで高校生の自宅に行っては『コーチは選手を4年間縛りつけるから、そこには行きたくない』と断ってきた子がどれほどいたことか。でもこれで、『ひとり出ていくのを許しましたよ』と言えるようになったわけだ」

コーチの腕のなかからは出た。それでも、縁が切れたわけじゃなかった。それっきり、バスケットボールの話はしたことがない。でも、いつだって話してた。人生について。正しい選択について。コーチはいつもそばにいてくれた。オレが出ていくことを選んだあとでも。

(本記事は東洋館出版社刊の書籍『アレン・アイバーソン自伝 THE ANSWER』から一部転載)

※次回連載は8月28日(金)に公開予定

<了>

[PROFILE]
アレン・アイバーソン
1975年生まれ、アメリカ・バージニア州ハンプトン出身。ジョージタウン大学を経て1996年NBAドラフト1位でフィラデルフィア・セブンティシクサーズに入団。新人王を皮切りに、2001年のシーズンMVP、得点王4回、オールスター選出11回など数々の金字塔を打ち立て、2013年に正式に引退。2016年には殿堂入りを果たす。2021年にはNBA75周年記念チームに選ばれたバスケットボール界最高の選手のひとり。攻撃的で速いプレースタイルに、ファッションと自己表現を統合した画期的な存在。アスリートが個性を打ち出す時代を先取りし、1990年代後半から2000年代はじめのアメリカ文化を牽引した。またリーボックと全キャリアにおよぶパートナーシップを結び、現在は同社のバスケットボール部門副社長を務めている。

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