
井上尚弥、264秒圧巻KO劇もまだ“正体の全貌”を見せていない。識者が占う未来予測は…
6月7日、さいたまスーパーアリーナで行われたバンタム級の3団体王座統一戦でノニト・ドネア(フィリピン/アメリカ)に衝撃の2回TKO勝ちを収め、これまでのWBAスーパー王座、IBF王座に加えWBCのベルトも手に入れた井上尚弥。264秒の強烈なインパクトを残し、さらに評価を上げた井上は、この先の目標として「バンタム級の4団体王座統一」と「スーパーバンタム級制覇」を挙げる。ボクシングマガジン元編集長で、ボクシングライターの原功氏にドネア戦の分析を依頼、“モンスター”の近未来を占ってもらった。
(文=原功)
感覚の違いが両者にあったものの勝敗を分けた1ラウンドのダウン
ドネアとの再戦に関して、「今度は井上が圧勝」とみる識者が多くいた半面、「井上危うし」と予想する関係者やファンも少なからずいた。2年7カ月前の初戦で井上はダウンを奪って12回判定勝ちを収めたが、2回に右目上を切り裂かれたうえ眼窩底(がんかてい)骨折というアクシデントのため視界がぼやけ、さらに9回には右ストレートを浴びてダウン寸前の窮地に追い込まれるなど苦戦した。その後、3連続KO防衛を果たした井上に対し、ドネアは全勝の相手をいずれも痛烈な4回KOで屠(ほふ)っていた。39歳になった「戦うレジェンド」が勢いを取り戻していたことは間違いない。それがオッズにも反映され、英大手ブックメーカーの試合当日のオッズは井上有利は変わらないものの初戦が9対1と大差だったのに対し今回は9対2と接近していた。
しかし、ふたを開けてみれば試合は井上の圧勝に終わった。勝負を決めたのは初回終了間際に奪ったダウンである。ドネアが右を打つ動作をした瞬間に繰り出した井上の右がカウンターとなってWBC王者のテンプル(こめかみ)を直撃。体をねじるようにして倒れたドネアは立ち上がってラウンド終了のゴングに救われたが、はた目で見る以上にダメージは深かった。
「自分が倒れたことに気づいていなかったんだ。カウンターを打とうとしたところに彼が打ち込んできたのでパンチが見えていなかった」と敗者は自己分析している。
そして、被弾した井上の右について、アマチュアで86戦(78勝8KO8敗)、今回の試合がプロ49戦目(42勝28KO7敗)となるドネアは「これまでのキャリアのなかで最も強烈なパンチだった」と明かしている。これに対し意外なことに井上は「どれだけのダメージがあるか分からなかった」と振り返っている。
一発のパンチに関する当事者の感覚の違いは興味深いところでもあるが、それはともかく2回が始まると2団体王者は相手のダメージが大きいことを察知して詰めにかかった。井上が繰り出す左右のパンチが、まるで磁石のS極がN極に引き込まれるような正確さで相手の顔面、ボディを襲った。最後は右ストレートから左フックをフォローしてドネアをあおむけにキャンバスに転がし、試合は終わった。
井上は試合前から「今度はドラマ(激闘)にするつもりはない」と一方的な内容の勝利を予告していたが、それを有言実行しただけでなく予想や期待を上回るほどのインパクトを残したといえる。だから井上は日本の枠を超えたスター選手に成りえたのである。
WBO王者バトラーとの4団体統一戦は10月以降に実現か
18度の世界戦を含む戦績を23戦全勝(20KO)に伸ばし、さらに井上の輝きは増した。こうなると気になるのは今後である。試合後、井上は「いまはバンタム級が適正階級だが、ひとつ上のクラスに挑戦したい気持ちもある。年内にバトラーとやれないのならばスーパーバンタム級に上げて新たなステージに挑戦していきたい」とコメントした。具体名が出てきたバトラーとはWBO世界バンタム級王者のポール・バトラー(英国)のことだ。バンタム級で主要4団体の王座統一を目指している井上にとって、この階級では最後の標的といえる。
バトラーは4月に暫定王座を獲得し、直後にジョンリエル・カシメロ(フィリピン)が王座を剝奪されたため正王者に昇格した技巧派で、8年前にはIBF王座を獲得した実績も持っている。ドネアと同じプロモーター(プロベラム社)傘下にあるため井上戦に向けたビジネス面の摩擦は少ないと考えられる。
すでにバトラーは「私の地元(英国)でもいいし、条件が合えば私が日本に行って試合をしてもいい。準備のために12週は必要なので10月上旬なら試合が可能」とプロベラム社を通じて4団体王座統一戦に前向きなコメントを発している。さらに「彼(井上)は私をKOしようとするだろうが、そうはさせない。私は勝てる」と自信をみせている。
気になるのはWBOが新王者のバトラーにカシメロとの防衛戦を課している点だ。しかし、本来ならば4月に行われる予定だったカシメロ対バトラー戦で、興行権入札によりカシメロの報酬が約900万円、バトラーが約300万円だったことを考えると、その数倍の報酬が見込める井上戦を優先する可能性は大きい。バトラーがいう「条件が合えば」とは、まさにそこを指しているわけだ。井上陣営も「年内の日本開催」が理想としながらも「統一戦が実現するなら英国に行ってもいい」と話しており、駆け引きしながらも交渉はスムーズに進みそうな気配だ。
井上対バトラーの4団体王座統一戦は、極めて高い確率で井上のKO勝ちが予想される。バトラーは足をつかいながら距離を保って戦うことが多い右のボクサー型で、12年のプロ生活で36戦34勝(15KO)2敗の戦績を残している。ただ、パワー、スピード、スキル、耐久力、経験値、戦術など多くの面で井上に対抗できるものは見当たらず、同じ世界王者とはいうものの格違いの印象は否めない。かみ合わせの甘い試合になる可能性はあるものの井上がKO勝ちで4団体の王座統一を果たしそうだ。
スーパーバンタム級で井上を待つフルトンとアフマダリエフ
バトラー戦の後のスーパーバンタム級転向は既定路線といっていいだろう。バンタム級とスーパーバンタム級の体重リミット差は約1.8kgだが、これが井上にとって単なる数字の違いで終わるのか、それとも壁となるのか――。
ここで井上を待ち受けるのはWBC、WBO王者のスティーブン・フルトン(アメリカ)と、WBAスーパー王座とIBF王座を持つムロジョン・アフマダリエフ(ウズベキスタン)だ。
フルトンは21戦全勝(8KO)の右ボクサー型で、8年前のプロデビュー時からスーパーバンタム級で戦ってきた。身長169cm/リーチ179cmで、165cm/171cmの井上を体格で上回る。戦績が物語るように派手さはないが、出てくる相手を巧みに迎え撃つスキルに長(た)けており、今月4日には来日経験もある元王者のダニエル・ローマン(アメリカ)を大差の12回判定で退けてV2を果たしている。フルトン自身も井上の存在を強く意識しているようで、「井上がスーパーバンタム級に上がってくるのなら、ぜひ戦いたい。彼が優秀であることは認めるが、この階級で最強は私だ」と自信をみせている。
井上対フルトンは技術戦になりそうだ。井上が積極的に攻め、フルトンが迎え撃つパターンが考えられる。序盤は拮抗(きっこう)した展開になるかもしれないが、徐々に井上がパワーでフルトンを抑え込み、中盤から終盤にかけてヤマをつくるのではないか。
アフマダリエフは2016年リオデジャネイロ五輪バンタム級銅メダリストで、2018年3月にプロデビュー。フルトンとは対照的なサウスポーのパワーヒッターで、昨年4月には岩佐亮佑に5回TKO勝ちを収めるなど10戦全勝(7KO)をマークしている。岩佐戦以外はアメリカでの試合だが、まだ知名度、認知度では井上やフルトンに及ばない。身長166cm/リーチ173cmと体格では井上と同等だ。今月25日にWBA1位のロニー・リオス(アメリカ)との防衛戦を控えており、先の話をするのはこのV3戦後ということになりそうだ。井上戦の前にフルトンとの4団体統一戦に向けた動きも出ているようなので、リング外の動きにも注目したい。
「たら」と「れば」をつなぎ合わせた先に井上対アフマダリエフがあるとしたら、こちらはパワー勝負になりそうだ。それでもスピード、経験、戦術などで勝る井上が有利であることは間違いない。
30歳を迎える井上が“モンスターの真価“を見せる?
トップランク社と提携する井上の試合がアメリカではESPNで放送されるのに対し、フルトンはショータイム、アフマダリエフはDAZNと契約しているという点は気になるが、強豪同士の対戦を歓迎するアメリカではそれは小さな問題にすぎないかもしれない。
井上が年内のバトラー戦でバンタム級を卒業した場合、スーパーバンタム級での初戦は来春が有力だ。そのころ井上は30歳になる(4月10日が誕生日)。これまで18度の世界戦はすべて自分よりも年長者と戦ってきた井上だが、対戦が有力視されるフルトンやアフマダリエフがそうであるように、今後は自分よりもキャリアの浅い年下の選手との対戦が増えていくものと思われる。ボクサーの30歳とはそういう年齢なのだ。
同時に、潜在能力と経験がほどよく融合して最も力を発揮できるころでもある。幸いにも井上は10年のプロ生活でドネアとの初戦以外に試合中に大きなダメージを受けたことは皆無で、致命的な故障や負傷もなくここまで来た。“モンスター”はまだ正体の全貌を見せていないといえる。
先のドネア戦がそうだったように、これからも観戦者を興奮させ、対戦相手を恐怖に陥れることだろう。
<了>
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