日本人だけが足を滑らせたアーセナルの練習。中西哲生がベンゲルとの邂逅で辿り着いた、世界との差の本質

Opinion
2026.06.09

世界との差は、技術や戦術の前に「立ち方」にあった。現役引退後、かつての恩師アーセン・ベンゲルを訪ねてアーセナルの練習に参加した中西哲生氏。ティエリ・アンリやパトリック・ヴィエラら世界最高峰の選手たちと同じピッチに立つなかで目の当たりにしたのは、日本人選手だけが足を滑らせるという不思議な光景だった。なぜ同じ芝の上で、日本人だけが滑るのか。本稿では中西哲生氏の著書『日本サッカーはどこまで強くなるか 日本人の体格を武器に変える身体操作』の抜粋を通して、その背景にある日本人特有の身体の使い方と、世界との差の本質に迫る。

(文=中西哲生、写真=アフロ)

ベンゲルという「知の巨人」との邂逅

名古屋グランパス時代の僕に決定的な影響を与えてくれたのが、アーセン・ベンゲル監督です。

ベンゲルが名古屋に来たこと自体、今思えば奇跡のような偶然でした。ベンゲルの経歴を見てみると、1994年にフランスの名門、ASモナコの監督を退任した翌年、1995年に名古屋グランパスへ、そして名古屋で1年9カ月を過ごした後に、アーセナルの監督に就任しているのです。

一線級の監督が、なぜ開幕から3年目のアジアの国のリーグに来たのかは当時から不思議でしたが、アーセナルで就任2年目にプレミアリーグとFAカップの二冠を達成。2003-04シーズンにはリーグ無敗優勝という史上初の偉業を成し遂げたことで、ベンゲルがJリーグで指揮を執っていたことはますます奇跡的なことになりました。

ちなみに、日本のクラブを経由して世界最高峰のリーグで頂点に立った監督は、歴史上まだベンゲルしかいません。そんな人物が、たまたま僕のいたクラブに来たのです。

ベンゲルが他の監督とはまったく違うことは、接してすぐにわかりました。「なぜこの練習をするのか」と選手が聞いたとき、答えられないことが一つもない。ウォーミングアップ一つとっても、すべてに論理があり、意味がある。トレーニングメニューすべてに「今やるべき理由」があるのです。僕が「極めて論理的に物事を考え、論理的に伝えなければならない」と思うようになった原点は、間違いなくベンゲルとの出会いにあります。

幸運だったのが、幼少期を父の仕事の都合でアメリカで過ごした僕が、たまたま英語を少し話せたことです。チームは攻撃と守備の二つのグループに分かれて練習することが多く、当然どちらかのグループにはベンゲルがつけません。ベンゲルがいないグループでは、必然的に僕が通訳のような役割をすることがよくありました。

ある遠征試合のときには、前日に通訳さんが風邪をひいてダウンしてしまったことがありました。ベンゲルは僕を見るなり、「お前が通訳をやってくれ」と急に言うのです。現役の選手としては「どうなんだ?」と思わなくもありませんが、ベンゲルの論理を日本語に翻訳して、選手やスタッフに伝える役割ができたことは、ベンゲルが「なぜそうするのか」を理解する手助けにもなりましたし、「伝わる言葉」を探すようになったという意味でも大きな経験でした。

「言語化」を意識するようになったのは、ベンゲルの練習を通訳していたあの時間が出発点だったように思います。たまたまそこにいて、たまたま世界的にも結果を出すことになる極めて論理的な監督がやって来て、たまたま少し英語が話せた。その偶然がなければ、今の僕はいなかったでしょう。

アンリ、ヴィエラ……「世界の基準」を肌で知った日

引退後の2001年、ベンゲルを頼ってアーセナルを訪れたことがありました。イングランド・プレミアリーグの名門を率いていたベンゲルは、かつての教え子である僕を快く迎えてくれ、練習にも参加させてくれました。

現役引退からほとんど間を置かずに行ったとは言え、当時のアーセナルにはティエリ・アンリ、ロベール・ピレス、パトリック・ヴィエラ、シルヴァン・ヴィルトールのフランス代表選手をはじめ、オランダ代表のデニス・ベルカンプ、スウェーデン代表のフレドリック・ユングベリ、ナイジェリア代表のヌワンコ・カヌら、歴史に名を残すスター選手がそろっていました。そんな選手たちと一緒に練習すること自体がまるで夢のようでした。

ゲーム形式のトレーニングに一緒に入ったとき、何より驚いたのは、間合いの遠さです。

こちらの想定より、はるかに遠い位置から仕掛けてくる。「こっから仕掛けるの?」という距離から一瞬で抜かれ、身体に触れることすらできない。ボールを自分の支配下に置いている時間と空間が桁違いに長くて広いのです。

日本人だけが滑る理由

もう一つ、一緒にプレーして彼らとの違いで思い知らされたことがあります。当時もヨーロッパの芝は日本に比べて滑りやすいと言われていました。僕はそれに備えて、日本では雨の日に使う取り換え式のスパイクを用意して行きました。ところが練習が始まると、固定式のスパイクを履いているアーセナルの選手たちはなんの問題もなくプレーしているのに、僕だけがツルツルと滑ってしまうのです。グランパスでチームメイトだった平野孝さんも練習に参加していたのですが、やはり同じように足を滑らせていました。

「なぜ僕たちだけ滑るんだろう?」

スパイクの問題ではないことは明らかで、彼らのプレーをよく観察していると、立ち方、走り方、蹴り方が根本的に違うことに気づきました。

イングランド、フランス、ブラジル、スウェーデン……、出身や国籍はさまざまですが、僕たちと比べると、明らかに重心の位置が高いことがわかりました。骨盤の違いから、日本人は重心が下がりやすい傾向にあり、どうしても重心が低くなってしまいます。この重心の位置が、芝の上では滑りやすくなるのです。

同じ2001年の3月、日本代表がパリ郊外のサンドニでフランス代表と対戦した試合(0-5で敗戦)を覚えている方もいるでしょう。いわゆる「サンドニの悲劇」です。大雨でぬかるんだピッチの上で、日本の選手たちはなんでもないところで足を滑らせ、止まろうとしてもツルツルと滑ってしまっていました。一方、ジネディーヌ・ジダンやティエリ・アンリ、ロベール・ピレスといったフランスの選手たちは、同じピッチの上で姿勢を崩すことなく、パスを自在に回していました。

しかし、この試合で唯一まともに戦えていた選手がいました。当時セリエAのASローマでプレーしていた中田英寿さんです。ヨーロッパの土壌で日常的にプレーしていた中田さんだけが、あのピッチの上でも滑らずに動けていた事実から当時、ヨーロッパの芝の下にある粘土質の土壌と、そこでプレーすることへの対応力、つまりは「慣れ」の問題と言われました。もちろん慣れもあるでしょう。しかし、フランスの選手に比べて日本の選手は明らかに重心の位置が低く、踏ん張ろうとすればするほど重心を低く下げようとし、それが原因でなおさら滑ってしまうという悪循環に陥っていたのです。

競馬とテニスでも見られる土壌の違い

このような「足場の違いが競技の結果を左右する」という現象はサッカーに限った話ではありません。

足場が影響を与える競技で思い浮かぶのが、競馬です。僕の専門外ではありますが、日本の競馬場の芝はグリップが利いてスピードが出る一方、ヨーロッパの競馬場は芝が深く足にまとわりつくような馬場だという話は、武豊さんをはじめ海外競馬に挑戦したジョッキーたちが証言しているところです。

特に凱旋門賞が行われるフランスのロンシャン競馬場は、雨が降ると地盤がさらに緩くなることで知られます。1969年のスピードシンボリ以来50年以上にわたって凱旋門賞に挑戦してきた日本馬が優勝に届かないのは、能力の問題ではなく馬場への適応の問題が大きいという意見もあるほどです。

馬の場合は「慣れ」や「適応」の問題ですが、骨格の違いによる身体の使い方が影響を与えているのではと感じるスポーツがあります。近年日本人選手も本戦に出場することが珍しくなくなったテニスの4大大会では、全仏オープンだけが赤土のクレーコートで行われます。

特に会場となっているローラン・ギャロスはレンガを細かく砕いた材料を使う特殊な土が用いられていて、ボールの弾み方に違いがあります。この全仏オープンで驚異的な強さを誇ったのが、スペイン人のラファエル・ナダルです。ローラン・ギャロスでのナダルの戦績は、通算112勝4敗、勝率はなんと97パーセント。14回も優勝しているナダルは、クレーコート上での試合で81連勝という記録も持っています。

実は、ナダルが育ったスペインでは、赤土のクレーコートが多く、幼少期からこのコートで技術を磨いてきたのです。これは単に慣れの問題ではなく、足場に合わせて、身体の使い方を変え、そのことが効率的なプレーを生んだということが言えるのかもしれません。

身体の使い方が変われば、競技の結果が変わる。それはサッカーも同じなのです。

追いつくのではなく追い越すために

アーセナルで驚いたのは、ベンゲルのやっている練習が、名古屋グランパスでやっていた練習とほとんど同じだったことです。

世界最高峰のリーグで優勝を目指すアーセナルでも、Jリーグの名古屋グランパスでも「やるべきことは変わらない」というベンゲルの一貫性に驚いたのです。

自分が時には通訳をしながらやってきた練習ですから、意図はすべてわかりました。サッカーの原理においては、ヨーロッパも南米も、日本もないんだ。同じ練習で世界一を目指せるのなら、日本の選手も同じ原理で到達できるはずだとそのとき思ったのをよく覚えています。

「たしかにとんでもないけど、彼らも同じ人間だ。やるのは同じサッカーだ」と思えるようになったことはその後の大きなモチベーションになりました。僕が『ベンゲルノート』を書こうと思い立った理由も、名古屋で体験したベンゲルの方法論が、そのまま世界に通用するものだったからです。

しかし同時に、体格や骨格、重心の位置、そもそもの身体の使い方の違いがある以上、彼らの“正解”をそのまま真似して差を埋めたところで、追いついたことにはなっても追い越すことはできないということにも気づきました。

追い越すためにはどうしたらいいか? 彼らと同じになろうとするのではなく、日本人の身体だからこそできる動き方を探すべきではないか。日本人の骨格の特性を弱点と捉えるのではなく、その特性を活かした身体操作を設計すれば、彼らが到達できない場所に日本人が先に行ける可能性があるのではないか。

映像を見る目と、言葉にする力と、世界のトップに直接触れた経験。この三つがそろったことで、僕はパーソナルコーチという前例のない仕事に踏み出すことができました。日本人の内側にすでにあるものを掘り起こす。答えは外ではなく、自分たちの中にある。その確信の芽が、ロンドンの練習場で足を滑らせたあの日にすでに生まれていたのです。

(本記事は青春出版社刊の書籍『日本サッカーはどこまで強くなるか 日本人の体格を武器に変える身体操作』から一部転載)

※次回連載は6月10日(水)に公開予定

【第1回連載】なぜ久保建英は吹き飛ばされないのか。中西哲生が語る「フィジカルが弱い日本人」という誤解

<了>

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[PROFILE]
中西哲生(なかにし・てつお)
1969年生まれ、愛知県出身。同志社大学経済学部卒業。現役時代は名古屋グランパス、川崎フロンターレでプレー。2000年に引退。著書には『サッカー世界標準のキックスキル』(マイナビ出版)ほか、多数。TBS「サンデーモーニング」、テレビ朝日「GET SPORTS」でコメンテーターを務める。パーソナルコーチとして多くの現役プロサッカー選手を指導。2023年4月から筑波大学蹴球部テクニカルアドバイザーも務め、大学生の指導にもあたっている。

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