「我がままに生きろ」恩師の言葉が築いた、“永遠のサッカー小僧”木村和司のサッカー哲学
伝説の背番号10が綴る“永遠のサッカー小僧”の肖像――。本稿では木村和司氏の初自叙伝『木村和司自伝 永遠のサッカー小僧』の抜粋を通して、時代の寵児として日本サッカー史を大きく変えたレジェンドの栄光と苦悩の人生を振り返る。今回は“恩師との出会い”を描いた初期エピソード。サッカー少年が本格的にボールを追い始めた原点について。
(文=木村和司、写真=山田真市/アフロ)
生涯の恩師に導かれたサッカーとの出会い
平日は三角ベース、週末にはソフトボールに明け暮れた日々が大きく変わったのは、わしが小学校4年生のときだった。
山口大学を卒業して大河小学校に赴任してきた浜本敏勝先生が、大学時代にサッカー部でプレーした経験を生かして、興味のある児童たちを集めて放課後にサッカー教室を開催。やがてはサッカー部を創設して顧問になり、本格的な指導をスタートさせた。
足でボールを蹴るスポーツがあるのは、もちろん知っていた。ただ、それがサッカーという名前だとはまったく知らなかったわしの目には、みんなが笑みを浮かべて、歓声をあげながらボールを追っている光景がとにかく楽しそうに映った。
「わしもサッカーをやってみたい」
サッカーに対して憧憬の思いを抱くようになっても、浜本先生に向かって「入部させてください」となかなか言い出せなかった。
負けず嫌いであるとともに、わしは生粋の恥ずかしがり屋でもあった。大人になってからもそうだが、人前で話すのがとにかく苦手。横浜F・マリノスで監督を務めたときも、試合後に設けられた公式会見に臨むのがいつもひと苦労だった。
シャイな性格も手伝って、サッカーをしているみんなをグラウンドの片隅で見つめる日々が続いた。滑り台などの物陰に隠れたときもあったが、いま振り返ってみれば、浜本先生に気づいてほしいと、心のなかで念じていたのもしれない。
そして、実は浜本先生も、運動会の短距離競走などでわしが常に目立つ存在だったと、他の先生たちから聞いていた。
1週間ほどして、待ち焦がれてきた瞬間が訪れた。
「そんなところにいないで、一緒にボールを蹴ってみないか」
浜本先生の誘いに、わしは胸をときめかせた。
「やらせてください」
即答したわしに、浜本先生はさらにこう語ってくれた。
「よし、明日からこい」
サッカーができる喜びに加えて、みんなと一緒に楽しくボールを追える状況がとにかくうれしかった。ルールも何も知らなかったが、足が速いという理由で、ポジションに関しては浜本先生から「前のほうにいろ」と言われた。
サッカーで目立つのは、不思議にも苦にならなかった。わしがゴールを決めてみんなが喜んでくれる姿が、みんなと喜びを分かち合える瞬間がとにかくうれしかった。
ひるがえって、いまはゴールを決めた子どもに対して、指導者が「あまり喜ぶな」と指示する光景が珍しくない。そして、それを見聞きするたびにわしは首をかしげている。
相手を馬鹿にするような喜び方は言語道断だが、うれしいときには心の底から喜んでかまわない。感情を解き放つ行為を咎めてしまえば、へたをすればゴールを奪うプレーそのものを自重しかねない。本末転倒の指導だと言わざるをえないといつも思っている。
一度だけ「もう家へ帰れ」と怒鳴られた理由
あらためて振り返ってみれば、浜本先生の指導は独特だった。時代を先取りしていた、と表現すればいいのかもしれない。
浜本先生は口癖のようにこう語っていた。
「一生は長過ぎるから一所懸命。わがままではなく我がままに」
指導者がああしろ、こうしろとすべてを教え込むのではない。サッカーは自由なスポーツという前提に立ったうえで、子どもたちの自主性やそれぞれの個性を何よりも大切にしながら、自分であれこれと考え、何をすべきかを自分で最終的に決定できるマインドを育む先に、まさに十人十色のプレーがピッチ上で表現される。
たとえるならば非常に大きな枠組みのなかで、サッカーというスポーツがもつ楽しさを教えてくれた浜本先生から一度だけ、こっぴどく叱られた。サッカーをはじめたばかりの、小学校4年生のころだったと記憶している。
「お前はもう家へ帰れ」
練習中に浜本先生からカミナリを落とされたわしは、本当に練習を途中でやめて自宅へ帰ってしまった。浜本先生に褒められたい、という思いが強すぎたあまりに、周囲の味方に文句ばかりを言っていたからだろう。味方にパスを出そうとしなかったプレーを含めて、わしの姿は浜本先生が忌み嫌う「わがまま」そのものだった。
ただ、わしも負けず嫌いで意地っ張りだったから、本来ならば練習をしている時間に家へ帰ってお母ちゃんを驚かせた。理由を話すと、お母ちゃんからも「先生に謝まりんさい」と怒られた。こうなると、性格的にますます謝れなくなる。
一夜明けても「謝りたくない」と、駄々をこねていたわしを見かねたのか。お母ちゃんはわしの手を引っ張って大河小学校へ連れていき、浜本先生へ「謝りんさい」とわしに言った。周囲から奇異な視線を向けられる光景を、どれだけ恥ずかしく感じたか。
観念したわしのなかで、意地を含めたすべてが消え去った。頭を下げたわしは、浜本先生へ謝罪したうえで本心を伝えた。
「明日からまたサッカーをやらせてください」
浜本先生によれば、帰れと言われて本当に帰ってしまったのは、わしくらいだったという。
お母ちゃんまでも巻き込んだ一件は、わしのなかで「わがまま」と「我がまま」が明確に区別された出来事として、その後も心に刻まれていったのは言うまでもない。
進学した中学校にサッカー部がなかった
大河小学校サッカー部時代の最高の成績は、わしがチームの副キャプテンを務めた6年生のときの広島市大会の準優勝だった。
決勝で広島大学附属小学校に負けた直後に、わしは人目もはばからずに号泣した。従兄弟の誠からはいまも「本当によく泣いていたね」と言われるし、試合後に撮った集合写真を見るときには「はぶてているね」とからかわれる。
「はぶてる」とは広島県の方言で、不満をたれるや嫌な顔をする、を意味する。
大河小学校での最後の試合で負けた悔しさもあったが、それ以上に通学区域の関係で進学が決まっていた広島市立翠町中学校にサッカー部がなく、もしかすると人生で最後のサッカーの試合なるかもしれないという不安が、わしを悲しくさせていた。
1971年の春に、わしは予定通り翠町中学校へ進学した。
ここでは何かしらの部活動をしなければいけない決まりがあった。小学校時代はソフトボールに加えて、地元の草野球チームの試合にもよく駆り出されていた関係で、サッカーと並んで好きだった野球部へ入ろうかと考えた時期もあった。しかし、とにかく練習が厳しいと聞いた瞬間に、わしの選択肢から野球部は除外された。
最終的には軟式テニス部に入ったが、練習に参加したのは入部した初日の一度だけ。ラケットなどの道具も、もちろん買わなかった。いわゆる幽霊部員であり、顧問の先生から「練習に出てこい」と連絡を受けた記憶もない。
代わりに学校が終わると自転車を急いでこいで、1キロほど離れた大河小学校に向かった。後輩たちにまじって、浜本先生のもとでサッカーをするためだ。
サッカーがやりたい。サッカーが大好きだ。日常生活のなかで切っても切り離せなくなっていたサッカーの存在が、わしを毎日のように母校へ向かわせていた。
幻のサッカー少年団と「はぶてのカズシ」
浜本先生の指導もあって、わしらが卒業した後の大河小学校は広島県内でも有数の強豪チームに成長していた。
6年生になった従兄弟の木村啓一がゴールキーパーで、5年生になった誠が中盤でそれぞれレギュラーとして活躍していた。ともに4年生でサッカー部に入部したわしの背中を追うように、サッカーを本格的にはじめていた。
そして、広島県大会で優勝した大河小学校は、夏休みに東京都稲城市のよみうりランド内で開催される、全国少年サッカー・スポーツ少年団大会の出場権を獲得した。
現在はJFA 全日本U−12サッカー選手権大会の名称で、熱中症対策として冬休みに、場所も温暖な鹿児島県内で開催されている小学生年代の全国大会の前身となる大舞台で、大河小学校は堂々の3位入賞を果たしている。
練習試合を含めて1年間で負けた試合は、最終的に優勝した静岡県代表のオール清水に僅差で苦杯をなめた準決勝だけ。圧倒的な強さを誇り、地域の選抜チームではなく小学校単位だった影響で、新聞などで「幻の少年団」と命名されたチームに、中学1年生だったわしもジュニアリーダーの肩書きで同行した。
新大阪から東京まで、生まれて初めて乗車する新幹線に胸を躍らせた。試合に出られるかもしれない、という期待もわしをワクワクさせていた。しかし、冷静に考えてみれば、小学生の大会に中学生が出場できるわけがない。
浜本先生に何度お願いしても、ダメなものはダメと却下されたわしは、このときも不平不満を態度に出している。啓一や誠らの後輩たちは、わしをこう呼んで笑っていた。
「はぶてのカズシや」
ただ、ジュニアリーダーだけで練習する機会も設けられていた。清水サッカーの生みの親と言われた、堀田哲爾さんの指導は確かに面白かったが、中学生になり、試合に出たいという思いを募らせていたわしを満足させるものではなかった。
余談になるが、この全国少年サッカー・スポーツ少年団大会では暁星小学校の代表チーム、東京都代表の暁星アストラのジュニアリーダーとして、ひとつ年上の松木安太郎さんも参加していた。後に日本代表へともに招集されていたときに、わしのほうから「もしかすると、あのときに……」と聞いて初めて判明した。
中学1年生と同2年生だった夏休みに、よみうりランドで同じ時間を共有していた2人が、1993 年5月15日に国立競技場で行われた記念すべきJ リーグの開幕戦で、横浜マリノスの「10番」とヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)の監督とで相対する。
あらためて振り返ってみると、本当に面白い人生を歩めていると思う。サッカーに、何よりも偶然の出会いからサッカーに導いてくれた浜本先生にいまでも感謝している。
(本記事は東洋館出版社刊の書籍『木村和司自伝 永遠のサッカー小僧』から一部転載)
【連載第2回】読売・ラモス瑠偉のラブコールを断った意外な理由。木村和司が“プロの夢”を捨て“王道”選んだ決意
【連載第3回】「カズシは鳥じゃ」木村和司が振り返る、1983年の革新と歓喜。日産自動車初タイトルの舞台裏
【連載第4回】“永遠のサッカー小僧”が見た1993年5月15日――木村和司が明かす「J開幕戦」熱狂の記憶
<了>
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[PROFILE]
木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ、広島県出身。地元・大河小学校で小学4年生のときにサッカーと出会う。広島県立広島工業高等学校から明治大学を経て、1981年に日産自動車サッカー部(現・横浜F・マリノス)に加入。1986年には日本人初のプロサッカー選手(スペシャル・ライセンス・プレーヤー)として契約を結 ぶ。クラブでは日本サッカーリーグ優勝2回、天皇杯優勝6回など、黄金期を支える中心選手として活躍した。日本代表としては、大学時代から選出され、特に1985年のワールドカップ・メキシコ大会最終予選・韓国戦でのフリーキックによるゴールは、今なお語り継がれている。また、国際Aマッチ6試合連続得点という日本代表記録も保持する。日本初のプロサッカーリーグが1993 年に開幕するが、翌1994 年シーズンをもって現役を引退。プロサッカー黎明期を支えた象徴的存在だった。引退後は指導者としても活躍し、2001 年にフットサル日本代表の監督を務め、2010 年から2011 年には横浜F・マリノスの監督に就任。そのほかにも、サッカー解説者やサッカースクールの運営など、多方面で活動を続けた。2020 年には日本サッカー殿堂入りを果たし、その功績が称えられている。
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