「金棒ばかり集めてもW杯優勝はない」内田篤人が語る“日本と世界のサッカーは違う競技”発言の真意 

Opinion
2021.04.21

内田篤人は昨年8月、自身の引退会見の場で「日本と世界のサッカーの差」について発言して現役選手も巻き込み多くの議論に発展した。決してJリーグのレベルを批判しているわけではなくスタイルの差である点を強調しつつ、JFA(日本サッカー協会)の新役職ロールモデルコーチとして若手選手に「今いる環境に満足してない?」と問いかけ続け、「世界との距離をぐっと縮めてあげたい」と語る。日本サッカー、そして日本の選手は日本人としての武器を高めつつ、一方で“世界基準”を改めて強く意識する必要もある。内田篤人が語る理想の強化、理想のキャリアパスとは?

(インタビュー=岩本義弘[REAL SPORTS編集長]、構成=REAL SPORTS編集部、撮影=浦正弘)

海外経験を持つ鹿島の先輩が示し続けた「世界基準」

――昨年8月の引退会見で、「日本と世界のサッカーの差は広がっている」「違う競技だなと思うくらい違いがある」という話をされ、それに酒井高徳選手が「篤人くんの意見に100%賛同です」と続く展開がありました。

内田:(酒井選手が)よく言ったなと思いました。現役なのによく言ったと思ったし、海外に行った人じゃなきゃわからない感覚だろうなと思います。

――突き詰めると経験した人でないとわからない話ですが、多くのサッカーファンも「そうなんじゃないか?」と感じている部分はあったと思います。

内田:さまざまな国のサッカーがいつでも見られる環境で、サッカーファンの目も肥えてきていると思います。パッと同じ画面で並べると例えばスピード感というのはJリーグとUEFAチャンピオンズリーグで全然違うと感じると思いますし、プレッシャーとか、球際の強度なんかも一緒ではないですよね。

――Jリーグだとすごく余裕を持ってプレーできていた選手が、ヨーロッパに行ってから苦労している姿はよく目にします。

内田:Jリーグで活躍したからヨーロッパに行っても活躍できるかはわからないですし、Jリーグで活躍できなかったからといって向こうで活躍できないとも限りません。

――だから「違う競技」という表現になるわけですね。

内田:はい。種類が違うというか……。

――内田さんは鹿島アントラーズで2006年から5シーズンプレーして、日本のサッカーを知った上でドイツへ行かれました。どこでまずその「種類の違い」を感じたのですか?

内田:もちろんシャルケでの練習もそうですし、鹿島にいたころに(小笠原)満男さんを見ていたので、「ああ、海外って満男さん基準なんだな」というのは、向こうに行ってみてわかりました。

――なるほど。2006年にイタリア・セリエAのメッシーナでプレーした小笠原さんが世界基準を鹿島に持ち帰っていたわけですね。

内田:練習の時からゴリゴリ削りまくっていましたから。鹿島にいたころは「満男さんすごいなぁ」という感じでしたけど、ドイツに行ってそれが海外の基準だったんだとわかりました。

――鹿島時代からトレーニング時の小笠原さんとの対峙を通じて海外基準を体感していたわけですね。

内田:そう。で、高徳も言っていましたけど、海外を経験した選手でもJリーグに戻るとどうしてもJリーガーになる。Jリーグのトーンに自分を合わせてしまうんです。でもそこを満男さんは海外基準のテンションを崩していなかった。それを続けるって本当に大変で、すごいなと思います。

上田綺世、三笘薫ら大卒Jリーガーは欧州の潮流と逆行?

――内田さんがドイツに行って、1年目からアジャストできた理由は?

内田:やっぱり最初の監督が(フェリックス・)マガトというのが僕の中ででかかったです。戦術どうこうとか、言葉がどうこうではなく、とにかく「走ってぶつかれ」という感じだったので。もうやるしかないから、そこが逆に良かったのかなと。

――やるべきことがシンプルで限られていたわけですね。

内田:走って、ぶつかる。そこで負けなければ評価してくれたし、練習でも一生懸命真面目にやっていたら、試合に出してくれた。結果から見ても、ヨーロッパ初年度のタイミングとしてはとても良い監督だったと思います。

――“鬼軍曹”というニックネームを持つマガト監督は、ヨーロッパでもトップレベルのハードなトレーニングを課すことで知られています。長谷部誠選手も「マガトとそれ以外」という表現をされていました。

内田:いやもう、あれ以上はないと思います(笑)。

――ただそのハードな日々によってヨーロッパの強度にいち早くアジャストできたわけですね。

内田:そうですね。JリーグにいればJリーガーになるけど、ドイツ行ったら自然とブンデスリーガーになるのかもしれないですね。

――内田さんが海外にすぐにアジャストできた理由として、22歳という若さでチャレンジしたこともあるのでしょうか? 

内田:もちろんそれもあると思います。内田篤人という選手が完成し切る前に行っているというのは大きかったかもしれないです。現地のクラブ、リーグ、国に、対応するというよりは、そのものになっちゃう、染まっちゃうぐらいのほうがいいのかなと思います。それが適応するということだと思います。ドイツ人になるという感覚でした。

――海外へのステップアップのタイミングは早ければ早いほどいいのですか?

内田:タイミングは大事だと思います。けど、早けりゃいいってものでもない。10代で海外に行って、つぶれて戻ってくるなら意味がないと思います。Jリーグを経由せず海外に行っている選手、何人かいますよね。それがいいのか悪いのかは正直わかりません。環境とタイミングと運次第ですし、結局はその選手次第だと思うんです。

ただカシマスタジアムで試合を見ていた時、目の前の席にドイツ人らしい2人組がいたので、「ドイツ語しゃべれるの?」と話しかけたら、シャルケとバイエルンのスカウトで。いろいろ話をしていた中でやっぱり「21歳以下でいい選手いないか?」と聞いてきたので。やっぱり向こうもなるべく若い選手を探しているんだなというイメージはありますね。

――日本では現在も上田綺世選手、三笘薫選手、旗手怜央選手、田中駿汰選手など大学を経由してJリーグでプレーする選手の活躍も目立ちます。これは欧州の潮流と逆行しているようにも感じます。

内田:特殊な環境なのかもしれないですね。ただ、それがいいのか悪いのか、それはもう何年か経ってみないとわからないですから。積み重ねていく中で、それがいい形になって日本のスタイルにできるかもしれないし。そもそもスタイル自体もあまり気にする必要がないとも感じています。ベストな環境は人それぞれだから。

欧州から見た日本は「めちゃくちゃ遠い東の小さな島国」

――JFAの新役職「ロールモデルコーチ」に就任されました。実際にU-19日本代表など若い選手たちを現場で見てみていかがですか? 

内田:やっぱり今19歳で「海外へ行きたい」という選手、すごく多いんです。これは小学生とかに聞いてみてもそうですが、Jリーガーになるというよりは、ヨーロッパのビッグクラブでのプレーに憧れる子はすごく多い。そういう海外に行きたそうな子たちに、レベルをもうちょい上げていかなきゃいけないと気づかせてあげたい。この僕でも行けるんだから、お前らでも行けるだろうという気持ちにもさせてあげたいし、何かこう、世界との距離をぐっと縮めてあげたいなと思っています。

――U-19の選手たちに対して、具体的に世界にチャレンジするために必要なのはどういう部分だと話をするのですか?

内田:Jリーグで、スタメンで出れる出れないをくり返しているようじゃ、海外に行けるわけないよね、とは伝えます。19、20歳でさくっとスタメン取って、当たり前のようにJリーグで活躍できるぐらいじゃないと、年齢的にも間に合わないよね。だからもっと焦ったほうがいいよ、長くないよと。

――「10代は若い」という考えは捨てたほうがいいと。

内田:僕がシャルケにいた時の選手でも、(レロイ・)サネや(ユリアン・)ドラクスラーは当時10代でプレーしていました。彼らは現在それぞれバイエルン・ミュンヘン、パリ・サンジェルマンでプレーしています。そういうレベルと比べると差はあるよ、自分が今いる環境に満足したりしてない?と気づいてもらうしかないですね。

――具体的に19歳前後の日本のトップ選手たちを見て、世界の同じ年代のトップ選手たちと比べて、育成環境も含めてもう少しこうしたらいいんじゃないかと思うことはありますか?

内田:もっと粗削りでも面白いのになとは思います。同じようなタイプの完成された選手が多いなという印象です。

でも、うまいですよ。日本の10代の選手たちは。さらに僕の時代もそうでしたけど、18、19歳の時って同世代の強豪国に対しても意外とやれるんですよ。A代表ほど差がないんです。歳を重ねるにつれて、どんどん差が開いていくイメージ。1999年のワールドユースで準優勝、2012年のロンドン五輪でもベスト4までいきましたもんね。そのあたりの年代で「優勝」という結果を1つ取ると、自信にもつながって面白いんじゃないかなと思うんですけどね。

あとはやっぱり、育成年代の選手にはアウェーでの国際試合をたくさん経験させてあげたいですね。今はコロナ禍でなかなか難しいですけど。本当の意味での強化としては、海外遠征に行って、現地で試合をしないと何も始まらないので。A代表もどんどん国外での強化試合を増やすべきだと思います。欧州の地をたくさん体験することが大事なので。

――やっぱり日本とヨーロッパの距離の遠さは強く感じますか?

内田:僕はJリーグを軽く見ているわけではないですし、その魅力も十分認識しています。その上でヨーロッパからしたら、日本はめちゃくちゃ遠い東の小さな島国でしかないわけです。逆に一度ヨーロッパのマーケットに入ってしまえば、ドイツだろうがスペインだろうがオランダだろうが関係なくオファーがくるし、全部すぐ行けちゃう。立地の面でも、マーケットの面でもまだまだ差はあると思います。

日本代表がワールドカップで優勝するために

――日本代表がワールドカップで優勝するためには、世界との差を縮める必要があります。

内田:そこを目指すためには、日本だけでプレーしていたら、実現は厳しいのかなと。だって外国のトップ選手と勝負するのに、日本人同士で試合をくり返していても勝てないので。今以上に多くの選手がヨーロッパの高いレベルを経験する必要があると思います。

――さらに4年に一度の真剣勝負の場であるワールドカップの試合は、欧州トップリーグともまた全然違うわけですよね?

内田:全然違いますし、チャンピオンズリーグはさらにもう一段階違う、という感じです。

――残念ながらチャンピオンズリーグでコンスタントにプレーする日本人選手は以前よりも減っている印象です。

内田:そうなんですよね。一時期ぐっと増えましたよね。僕とか(香川)真司、(長友)佑都君とか。毎年出場する選手がいた流れが……。今はちょっと静かかなとは思いますけどね。何でなんですかね。

――本当に。何ででしょう?

内田:ちょっとバレた感はあります。

――内田さん、長友選手、香川選手の活躍で一時期日本人の評価は間違いなく上がりました。一方でそれ以上のものを求められているということですか?

内田:期待している以上のものは出せなかったのかもしれません。たぶん向こうからすると、ブラジル人に求めている何か決定的な仕事をする助っ人感と、日本人に求めている助っ人感が一緒にされているんでしょうね。そこのところまではいけていない。だったら言葉が通じるEU圏内の選手のほうがいいと。

――外国人枠の問題もありますよね。その中でなぜ内田さんはチャンピオンズリーグ日本人最長出場(2418分[29試合])を実現できたのでしょう?

内田:サイドバックというポジションもありましたし――自分でいうのも何だけど、頭が良かったんでしょうね(笑)。チームに足りないところだったり、試合中に今やらなきゃいけないことを真面目にやっていたからだと思います。ゲームを決めるシュートは打てないけど、いるとチームが助かるな、という動きを意識していたし、周りの選手が生きるようなプレーを心がけていました。

――ブンデスリーガで14シーズン目を過ごす長谷部選手にも共通する部分だと感じます。

内田:真面目で勤勉で、周りの空気を読めてというか。自分のポジションというのを確立できている選手。だから僕は「鬼に金棒」の金棒。鬼ではなかった。主役ではなかったんです。ネイマールだ(リオネル・)メッシだと一人で試合を決められる選手が世界にはいっぱいいるわけです。日本にはやっぱりまだいないですね。金棒ばかり集めてもワールドカップで優勝はできない。鬼をしっかり育てないと、やっぱり難しい。

――ワールドカップ常連国には、どの国にも必ず何人も「鬼」がいるわけです。

内田:走ってぶつかって勝負する競技なので、まず身体能力で対等にできる選手が出てこないと難しい。今のU-19日本代表にハーフの選手が何人かいるんですが、彼らはやっぱり身体能力が高いなと感じますね。

でもワールドカップは4年に一回の一発勝負なので。試合時間も90分しかないわけで、勝負事は何が起こるかわかりません。その短期決戦で日本が優勝する可能性は全然ゼロではないとも思います。

<了>

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PROFILE
内田篤人(うちだ・あつと)
1988月3月27日生まれ、静岡県出身。清水東高校卒業後、2006年のJリーグ開幕戦で鹿島アントラーズ史上初となる高卒ルーキーでのスタメン出場を果たし、プロデビュー。鹿島アントラーズでは主力選手として活躍し、2007年~2009年のリーグ3連覇に貢献、自身も2年連続でJリーグベストイレブンに選出。代表では、FIFA U-20 ワールドカップカナダ2007、北京オリンピックなどに出場し、キリンチャレンジカップ2008 チリ戦でA代表デビュー。2010年7月、ドイツ1部リーグのシャルケに移籍。2017年8月、出場機会を求めブンデスリーガ2部のウニオン・ベルリンへ移籍後、2018年より鹿島アントラーズへ復帰。2020年8月に引退を発表。現在は日本サッカー協会が新設したロールモデルコーチに就任し、U-19日本代表を担当している。

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