「ドーピング検査で陽性が…」山中亮平を襲った身に覚えのない禁止薬物反応。日本代表離脱、実家で過ごす日々

Career
2025.02.28

何度でもどん底から立ち上がり、決して諦めず、前進し続けるアスリートの姿は胸を打つ。学生日本一、2年間の資格停止処分、日本代表落選、ワールドカップ出場……。ジャパンラグビー リーグワンのコベルコ神戸スティーラーズに所属する山中亮平もまた激動のラグビー人生を強い信念を持って乗り越えてきたアスリートの一人だ。そこで本稿では山中亮平の著書『それでも諦めない』の抜粋を通して、“何度でも立ち上がる男”の紆余曲折の人生を振り返る。今回は、神戸製鋼コベルコスティーラーズへの加入直後に起きた、JADAから受けた突然の電話について。

(文=山中亮平、写真=志賀由佳/アフロ)

卒業、そして神戸製鋼へ

大学卒業後の進路については、中竹竜二さんの前に早稲田を率いていた清宮克幸さんがいるのヤマハ発動機ジュビロ(現・静岡ブルーレヴズ)戦と、神戸製鋼コベルコスティーラーズ(現・コベルコ神戸スティーラーズ)で迷った。ヤマハには五郎丸さんもいたし、チームのカラー的にもやりやすいだろうなとは思っていた。最終的には木津武士、前川鐘平、中川昌彦の仰星メンバー、カンゾー(編注:中濱寛造。中学時代のチームメートで早稲田大学でも共にプレーした)、早稲田の田邊秀樹さんと、仲の良かった人らが行く神戸製鋼に決めた。

現在のコベルコ神戸スティーラーズは、1928年に神戸製鋼ラグビー部として創部。

1980年代から90年代にかけて7連覇を達成した日本ラグビー界の名門だ。俺たちが入部した2011-2012シーズンは、7連覇の立役者、平尾誠二さんがゼネラルマネージャー兼総監督を務めていた。入部前に平尾さんと話をさせてもらって、「この人かっこええな」と思ったことが神戸に入る決心を後押しした。

入部してすぐ、新たに加わった選手が全員の前で自己紹介をすることになった。

「早稲田から来ました山中です。山ちゃんと呼んでください!」

デカい声で元気よくあいさつをしたが、先輩たちの反応は薄かった。

「なんでこんな反応薄いんやろ?」と不思議だったが、後から代表合宿で一緒になった谷口到さんに「あれはヤバかった。みんなすごい顔していた」と言われた。当時の神戸製鋼は、強面の選手も多くて、年代的にもベテランが多かった。体育会系の雰囲気が色濃く残っているところに、「学生ノリで調子に乗ったヤツが入ってきた」とでも思われたのかもしれない。特に誰かに何かを言われたわけではないが、手放しで歓迎されていないことはたしかだった。

生意気で調子に乗ったルーキーが出だしでつまずいて、その後どうなったのか?

実は、この話には続きがない。次に俺が神戸製鋼のグラウンドに戻って来るのに2年の月日を要することになったからだ。

JADAからの突然の電話

2011年のシーズンは、日本代表合宿で幕を開けた。神戸製鋼で入団のあいさつをした直後に宮崎へ。宮崎から香港に移動し、ちょうど1年前、俺自身が代表初キャップを獲得したHSBCアジア五カ国対抗を戦う予定だった。

五カ国対抗の初戦、4月30日の香港戦ではリザーブ入りしていた。試合の2日か3日前、突然ホテルに俺宛ての電話がかかってきた。

「誰やろ?」

聞けばJADA(日本アンチ・ドーピング機構)からだという。

「ドーピング検査で陽性が出ています」

電話の声の主は事務的にそう言った。「んなわけないやろ」とまったく心当たりがなかったので、「何の成分が出ているんですか?」と質問すると、ステロイドだという。

「それはどんな効果があるんですか?」

「筋肉量を増やしたり、体を大きくするために使われます」

「いや、そんなの使った覚えないです。どうやって取り入れるんですか?」

担当者は、注射やサプリメントが主な接種方法だと説明してくれた。まったく覚えがないので「絶対にしていません」を繰り返したが、とにかく一度帰国するようにとのことだった。

たしかに宮崎合宿中の4月9日にドーピング検査を受けていた。このドーピング検査は、アスリートならほぼみんなが経験していると思うが、不定期、ランダムに何人かが検査されるのが当たり前だ。ドーピングや禁止薬物についてはそれほど詳しいわけではなかったが、風邪薬や漢方薬で「うっかりドーピング」に引っかかる事例もあるとか、サプリメントに気をつけたほうがいいとか、アスリートなら知っておくべき情報は知っていたし、普段から余計なものを飲んだり接種しないように気をつけてはいた。

「絶対にしていませんし、第一僕、ガリガリですよ?」

そう言って電話を終えた。

電話を切った後になって、自分基準でガリガリとはいえ、体重92キロのラガーマンがガリガリというのもおかしな話だし、「ガリガリなヤツこそやるんちゃう?」と思い直して余計なこと言ったかもと思った。

電話が来たのは食事の前だったから、とりあえず選手が集まっている食堂に行って「ドーピング、陽性反応って言われたんですけど」とだけ伝えた。

選手たちは「マジ? 何それ?」「そんなんやってないでしょ?」という反応だった。

「とりあえず一回帰って来いって言われてて」

神戸から一緒に来ていた谷口さんが、「じゃあ2週間後にまた合流か」と言ってくれた。

五カ国対抗は5月21日のスリランカ戦まで続く。香港からバンコク、ドバイ、スリランカに遠征予定だったので、この時点では、ちゃんと説明して無実が証明されれば、どこかでまた合流できると思っていた。

「あ、そういえばヒゲを濃くするための…」

選手たちの輪を離れて、今度は日本代表に帯同しているドクターのところに行った。

「ステロイドだって。何もしてないのに出るような成分じゃないんだよな」

ステロイドが何かもよくわかっていなかったから、とにかく何もしていないというのが精いっぱいだったが、ドクターは「何かあるはずだ」と言う。

「ステロイドってなんなんですか?」

そう聞くと、詳しい説明の内容はわからなかったが、途中に出てきた「男性ホルモン」という言葉に引っかかった。

「あ、そういえばヒゲを濃くするためのやつは使っています」

ドクターは「それだ!」と、すぐにそれを持ってくるように言われた。

「ここに書いてあるじゃん」

パッケージの成分表に何やら見慣れない横文字が並んでいた。これを読んでもそれがステロイドなのかどうかはわからなかった。

そもそも「口ヒゲが生えない」と知り合いに相談したときに、薬局で普通に買えるヤツで生えるようになるよと教えてもらって塗っていたもので、薬という認識もなかった。

「これ、いつ頃塗ったの?」

宮崎合宿中の後は寝るだけ、まだ本格的な練習に入る前だった4月の5、6、7日に塗って寝た覚えがあった。8日は塗っていなかったが、ドーピング検査をしたのが9日だった。

やってもいないのに、帰国するのもどうなん? と思っていたが、JADAから正式に連絡があったことはどうやら大ごとらしく、本当に帰国することになった。

ジョン・カーワン監督とも話して「メンバー構想に入っていたのに残念だ。これから日本代表を背負っていく選手だから、帰ってからがんばってくれ」と言われた。この時点でも、カーワン監督の深刻そうな顔に自分の気持ちが追いついていなかった。

帰国すると、伊丹空港に平尾さんとチームマネージャーの藤高之さん、そしておかんが待っていた。平尾さんも藤さんも深刻な顔をしていた。連れて行ってもらった空港の寿司屋さんで、平尾さんから聞いた話は想像より重い話だった。

「お前がやっていないのはわかっているけど、こういう場合でもドーピング検査に引っかかると、2年は出場停止になるかもしれない」

横で聞いていたおかんも「えっ?」と驚いていた。

この期に及んでも、「何も悪いことはしていない」という気持ちは変わらず、「ヒゲを生やすためのクリームを塗っただけで2年間の出場停止ってバカらしすぎるやろ」とまで思っていた。 早い話が、周りの大人たちの深刻度を見てもまだ余裕をぶっこいていた。とにかくおなかが減っていたから、おかんがあきれたように「よう食えんな……」とつぶやいていた横でお寿司をバクバク食ベていた。

裁定を待つ実家での3カ月

結果が出ないと処分も決まらないし、復帰もできない。自分から何もできなくなった5月からは実家で待機することになった。実家にいる間、「さすがに2年はヤバいよな」と不安になってきた。

この間に禁止薬物の使用を認めなかった場合に請求できる、B検体の検査が行われた。

A検体と同じ4月9日に採取したサンプルを使って検査するのだが、ここでもほんのわずかだがA検体と同じ禁止薬物が検出されたという。検出された以上、量は関係ない。理不尽だとは思ったが、2年の出場停止が現実的になってきた。

最終的には、秩父宮クラブハウス内にあったラグビー協会に行って、オンラインでIRB(国際ラグビー機構)の聞き取り調査を受けることになった。

結果が出るのは8月。何もすることなく実家で過ごしていると、不安が押し寄せてきた。このとき助けてくれたのが、中学や高校で部活が終わってから毎日のように公園で集まっていた地元の仲間たちだった。たまたま浪人、就活中などの理由で時間がある連中が三、四人いて、毎日のように外に連れ出してくれた。公園で野球したり、ボウリングに行ったり、とりあえず体は動かしておこうと河川敷を走るのに付き合ってくれた友達もいた。

 

小学生が遊んでいる横で、割と本気でワーワー言いながら野球している3人の

23歳は、我ながらヤバい画だったと思う。公園でバカスカ打って、ボールをかっ飛ばしている大男を見て、となりのグラウンドで草野球をしていた人たちにスカウトされそうになったこともあった。

実家にいる3カ月、もしあの時間がなかったら、気持ちがふさぎ込んでおかしくなっていたかもしれない。持つべきものは友達だとそのとき心から思った。

(本記事は東洋館出版社刊の書籍『それでも諦めない』から一部転載)

【第1回連載】「やるかやらんか」2027年への決意。ラグビー山中亮平が経験した、まさかの落選、まさかの追加招集

【第2回連載】高校ラグビー最強チーム“2006年の仰星”の舞台裏。「有言実行の優勝」を山中亮平が振り返る

【第3回連載】「キサンッ、何しようとや、そん髪!」「これを食え」山中亮平が受けた衝撃。早稲田大学ラグビー部4年生の薫陶

【第5回連載】ラグビー山中亮平を形づくった“空白の2年間”。意図せず禁止薬物を摂取も、遠回りでも必要な経験

<了>

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[PROFILE]
山中亮平(やまなか・りょうへい)
1988年6月22日生まれ、大阪府出身。中学1年の終わりからラグビーをはじめ、東海大学付属仰星高校(現・東海大学付属大阪仰星高校)では攻撃的なSO/スタンドオフで“ファンタジスタ”とも呼ばれ、3年時には全国高校ラグビー大会で優勝した。早稲田大学に進学後はすぐに頭角を現し、1年・2年次に全国制覇を経験。大学4年の春には日本代表初キャップを獲得した。大学卒業後に神戸製鋼コベルコスティーラーズ(現・コベルコ神戸スティーラーズ)に入団。2018-2019シーズンにはトップリーグで15年ぶり、日本選手権で18年ぶりの日本一を果たした。その翌年に開催されたラグビーワールドカップ2019日本大会では全5試合に出場し、日本・アジアラグビー史上初の8強進出に大きく貢献した。2021年以降も継続して日本代表に選出されるが、ラグビーワールドカップ2023フランス大会の直前ではまさかの落選。しかし、大会期間中に追加招集され、2大会連続のワールドカップ出場を果たした。日本代表は30キャップ。

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