アトレチコ鈴鹿クラブ誕生物語。元Jリーガー社長が主導し「地元に愛される育成型クラブ」へ

Business
2024.01.12

1月10日、JFLに所属する鈴鹿ポイントゲッターズは、チーム名を「アトレチコ鈴鹿クラブ」に変更すると発表。前体制では元執行役員とのトラブルなどガバナンスに問題を抱えていたことが明るみとなり、クラブは昨年11月に「株式会社協同」を新たなオーナー企業として迎えて経営体制を刷新。新オーナーには協同の代表取締役社長を務める斉藤浩史氏が就任。元Jリーガー社長である斉藤氏は過去にどのようなサッカー人生を歩み、これから日本のサッカー界で何を成し遂げようと考えているのか?

(文・撮影=大島和人)

新生「アトレチコ鈴鹿クラブ」を主導する元Jリーガー社長

元Jリーガーの社長が主導し、再出発を果たしたプロサッカークラブがある。1月10日に新たな愛称を発表した「アトレチコ鈴鹿クラブ」だ。2019年のJFL(※J1から数えて4部に当たる全国リーグ)昇格時は鈴鹿アンリミテッドと名乗っていて、2020年からは鈴鹿ポイントゲッターズとして活動していた。今回の改名は新体制発足に伴うものでもある。

鈴鹿は2019年の女性監督起用、2022年の三浦知良選手加入など「JFL離れ」をした話題性を社会に提供していた。ただし良いニュースばかりでなく近年は八百長疑惑、元執行役員によるクラブ恐喝未遂といった事案が起こっていた。2023シーズンも三浦泰年監督がパワーハラスメントにより開幕戦から4試合のベンチ入り停止処分を受けている。三浦監督が代表取締役、GMまで兼務する体制は解消されていたが、オーナーシップも含めたガバナンスの刷新は急務だった。

そんな中で登場した新たなオーナー企業が「株式会社協同」だ。1930年代に起業したメーカーで、アルミやプラスチックを成形して産業機械、農機、船外機などの部品を製造している。自社工場をタイ、アメリカ、台湾に持つ国際的な企業でもある。

協同の代表取締役社長を務める斉藤浩史氏は、1970年生まれの53歳。元Jリーガーで、プロジェクトのキーマンだ。プレーヤーとしては中2から読売サッカークラブ(現東京ヴェルディ)に加わってトップ昇格を果たし、ブラジルのプロクラブを経て1993年と94年には清水エスパルスでプレーしていた。ケガもあり若くして引退を強いられたが「Jリーグ」が10クラブしか無い時代に、タレント軍団の清水でレギュラーだった時期もあるDFだった。

引退後は父が経営していた協同に入社し、ビジネスマンとしてキャリアを積んでいた。ブラインドサッカーの支援などでサッカー界との関わりを持ち、2022年までは東京ヴェルディの社外取締役も務めていた。当面は斉藤氏が鈴鹿のクラブ運営法人社長を務める。

サッカーを「校技」とする暁星サッカー部をやめ、読売クラブへ

斉藤社長はサッカーを「校技」とする暁星小学校に入学したことで、サッカーに出会った。

「初めてサッカーボールに触ったのが、小学1年生のときです。時間割に『サッカー』の授業がある学校です」

暁星中学、暁星高校は学業の水準も高い学校だが、前田遼一を筆頭に多くのJリーガーを輩出したサッカーの名門。斉藤社長の高校時代も1学年上に大倉智(柏レイソルなどでプレー/現いわきFC社長)、同学年には石川健太郎(元柏レイソル)といった後のJリーガーがいた。ただし彼は中2でサッカー部をやめ、読売クラブに移る。

「僕は高3まで暁星にいたので、授業はそのまま受けていました。サッカー部は国見を破って、全国3位になった世代です。でも僕は中2のときに読売クラブに行って、クラブユース連盟の試合しか出ていません。18歳のときに1軍へ上がって、ユース代表にも入っていました」

余談だが斉藤と同じタイミングでトップ昇格を果たしたのが、Jリーグ草創期の人気者だったFW藤吉信次だ。当時は決して「陽のあたる場所」ではなかったクラブユースに移籍した理由を彼はこう振り返る。

「サッカーが好きで好きで、プロ選手になりたかったんですけど、日本にはサッカーのプロが無かった時代です。だからまず『海外に行きたいな』と思ったんです。カズ(三浦知良)さんがブラジルに行く前で、水島武蔵さんとか奥寺(康彦)さん、暁星の先輩・尾崎(加寿夫)さんといった選手がいました」

水島はブラジル、奥寺と尾崎はドイツでプレーしていた海外組の先駆者だ。小6で目にしたFIFAワールドカップ・スペイン大会が、少年の「ブラジル愛」に火をつけた。

「ジーコ、ファルカン、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾの時代です。1982年ワールドカップに衝撃を受けて、『ブラジルしかない』と思ったんです。あと暁星は勉強もしっかりやって、規則正しくサッカーも……という方針でした。『サッカーだけを頑張れる環境はないのかな』という子どもの少し甘い考えで、(ブラジルスタイルの)読売クラブの門を叩いたんです」

カズとの出会い。「しょうがねえ、親父を紹介してやる」

斉藤がトップに昇格して2年目、1990年には4学年上の大スターが読売クラブのチームメイトになった。

「毎日カズさんにくっついて『ブラジルに行かせてくれ、行かせてくれ』とお願いしていました。『しょうがねえ、親父を紹介してやる』と言ってもらいました」

念のため説明すると鈴鹿の三浦泰年監督はカズの兄で、二人の実父でもある故・納谷宣雄氏は日本とブラジルのサッカーをつなぐエージェント的な活動をしていた。当時の読売クラブは実業団中心の日本サッカーリーグ(JSL)でも例外的なプロの集団だった。

斉藤はプロ1年目に、納谷氏が結成した日本人選抜チームに読売クラブから『補強選手』的な位置づけで送り込まれて、ブラジルの大会に出場していた。2年目のオフも自費で渡航し、現地のクラブに練習参加をしていた。そして読売クラブで3シーズンプレーしたのち、プロ選手として1992年から「キンゼ・デ・ジャウー」に加わる。若き日のカズもプレーしていた、サンパウロ州のクラブだ。

「ブラジルでずっと続けようと思っていましたし、サンパウロ州選手権もレギュラーで出られていたんです。そうしたら今度は『エスパルスに行かないか』と言われて……」

清水は母体チームがなく、静岡県出身者を中心に選手を集めて1993年のJリーグ初年度に臨もうとしていた。長谷川健太、大榎克己、堀池巧、そして三浦泰年といった当時の代表級プレイヤーが集まっていた。納谷氏はチーム編成の中心的な存在で、斉藤はその説得に応じて帰国を決意した。

ただし1993年シーズンは椎間板ヘルニアで16試合の出場に留まり、翌94 年は足首の開放性脱臼という重傷でほぼ棒に振ることになった。コンディション的にJリーグでのプレーが難しいと本人も感じていた中で、95年には読売ユース時代の恩師が監督を務めていたブランメル仙台(ベガルタ仙台の前身)へ移籍する。しかし鈴木武一監督は成績不振で退任し、リトバルスキーやオルデネビッツといった「ジェフ組」の大量加入もあった中で、96年に仙台を退団。キンゼ・デ・ジャウーに復帰して短期間プレーした後、スパイクを脱いだ。

プロ選手を経験し、会社経営に携わり、サッカービジネスを見ると…

引退後は協同に入社してすぐ台湾に渡り、サッカーが盛んではない土地で3年間「ボールも見ない」生活を送ったという。今はビジネスマンとしてブラジル生活で身につけたポルトガル語、英語、中国語を駆使する生活を送っている。

サッカーに携わる、サッカーを支えることは彼の念願でもあった。

「事業、マネジメントなどの面でサッカーを将来支えたい――。引退したときにそう決めていました」

今回の経営参入についてはこう説明する。

「ヤス(三浦泰年)さんやカズさんが鈴鹿にいましたし、連絡は受けていました。ただネガティブな要素があった中で、そちら経由の情報だけで決断はできません。M&Aのエキスパートに仲介してもらうことが必要でした」

近年だとBリーグの仙台89ERSのオーナーチェンジにも絡んだストライク社が、M&Aの仲介者として鈴鹿の取引にも関わっている。斉藤社長の「直電」から始まったディールだった。

「僕はたまたま『SMART』というM&Aのサイトを見て、サッカークラブと出ていたので、担当の方に電話したんです」

2023年の6月に連絡を取った直後は、一旦買収を断念していた。

「早く決めなければいけない事情はわかりましたけど、(当時のオーナーと)話したこともないし、現場も見たこともないのでお断りしました。でも8月に『あの話をもう一度どうか』と連絡いただいて、真剣に考え始めました」

そこから現場の視察、交渉が急ピッチで進み、9月末に合意。11月の発表に至った。斉藤社長はクラブ経営の方向性についこう説明する。

「自分がプロ選手を経験して、会社経営に携わって、その上で今のサッカービジネスを見たとき、まず『しっかりとしたビジネスモデルを構築するべき』と思いました。Jリーグは親会社が補填したり、大口スポンサーにお願いしたりして黒字になるケースがほとんどです。そうでなく出す側と受け取る側の双方が、利益を共有できるビジネスを生まない限り、それは本質的なプロクラブと言えないのでは?ということをずっと考えていました」

健全に経営が回るクラブの実現は「10年単位の仕事になる」

Jクラブの売上構成を見ると、どのクラブもスポンサー料収入がかなり多くを占めている。スポンサー料収入に次ぐ収入源がチケット収入だ。他にもリーグの配分金、グッズ販売、スクール事業といった収入源がある。一方で彼らが鈴鹿で開拓しようとしている領域は移籍ビジネスだ。

「海外を見ると、選手の移籍が大きなビジネスです。1000万の選手の価値を1億にするためには相当な運が必要で、ギャンブル性も高いですよね。我々はそういうことをいうのでなく地場の選手を育てて、1軍に上げてそこで鍛えて、ビッグクラブにその選手が移籍する持続的なローテーションを作りたい。スポンサー収入、チケット収入と、選手を移籍料収入で健全に回すクラブを将来的に作りたいと思います。ゼロから始まるので、10年単位の仕事になると思います」

当然ながら育成年代にも目を向ける必要がある。ただ「トップを強化するためにアカデミーがある」という発想を斉藤は持っていない。

「鈴鹿は今ユースチームが無いのですが、アカデミーはマストです。Jリーグへ行くためにユースチームを作るのでなく、逆にユースチームが無いならJリーグに行く必要はないというのが僕の持論です。『地域に普及させる』のがJリーグの理念で、普及にはアカデミー、スクールが必要です。トップを中心に裾野が広がるにしても、一番重要なユースが抜けたら、メソッドを一気通貫でやれません」

育成型クラブをメソッドから構築するとなれば、当然ながら選手や指導者の品定めする目利きが必要だ。ソフト・ハードの両面で投資も必要となる、経営的なチャレンジでもあろう。ただ、斉藤社長や三浦泰年監督の知見が生きる分野だ。

一貫性の大切さについてはこう述べる。

「ビッグクラブになったチームはメソッドがあり、育成機関がしっかりしていているからこそ、ビジネス路線に乗っているのだと思います。そこがブレていたり、フロントと現場が乖離していたり、『今日はブラジル、明日はドイツ、そしてまた日本』みたいなことになったら、チームはいい方向に進まないでしょう」

クラブは不祥事で失った信頼を取り戻す必要がある

斉藤社長がトップチームを軽視しているわけではない。

「ベテランがいて、中堅がいるから、若手も育ちます。Jリーグ昇格、優勝は目的でなく『プロセス』だと思いますけど、上を狙わない限りはチームも成長していきません」

「具体的に何をやるかは、これから考えなければいけない」と前置きしつつ、斉藤社長は今後の展開をこうイメージする。

「大きい話になってしまいますけど、例えばサッカーを軸に合宿所みたいなものを作って、温泉施設を作って人を集めて、スマートシティにしてゼロエミッションも絡めて……。そういう挑戦で、サッカーというコンテンツからしっかりビジネスを生み出せれば、プロチームとしても非常に近代的なビジネスモデルになると思っています」

一方で足元を固めることも必要で、クラブは不祥事で失った信頼を取り戻す必要がある。斉藤社長は自ら地域に足を運び、直接ビジョンを語る「どぶ板」的なプロセスを始めている。

「オーナーをチェンジしたことによって『どのような考え方でやるのか』と皆さんは興味を持ってくださっていると思います。既に30社ほど、ご挨拶に行きました。アカデミーやスクールも、お父さんお母さんたちが『あんなクラブに子どもを預けて良いのか』と不安がられたら、どうしようもないですよね」

三浦泰年監督についてはこう述べる。

「ヤスさんは現場の監督です。パワハラ問題で出場停止処分を受けて、ヤスさん自身も話していてそれを気にされていました。『自分を変えよう』という気持ちが、僕にも伝わっています。一方でプロチームとなると試合中は感情的になるし、許される範囲でエモーショナルなところを見せなきゃいけないときも当然ある。でもそれが限度を超えてしまったとき、誰かが手綱を引いてあげなかったら、同じようなことを繰り返す可能性があります。ヤスさんのみならず従業員、選手については、コンプライアンス委員会ではないですけど、(研修など)何かしらの体制を用意します」

地元の方に愛される育成型クラブというフィロソフィーを

クラブのオーナーシップについては協同が主体となりつつ、地域に開くことを考えている。胸スポンサーも同様だ。

「一時的にウチの会社が100%を引き受けましたけど、地場に普及するクラブ、育成型のクラブを作る以上、株式をできるだけ地場の人に分散したいと思っています。『俺らのチーム』という雰囲気にするのが、一番いいガバナンスだと思っています。胸スポンサーも地場の有力企業に入ってもらいたいですね」

これまでチーム運営法人は「株式会社アンリミテッド」で、サッカー以外の事業も持っていた。そこからサッカークラブを独立会社として切り離した段階で、株主を増やしていくのが斉藤社長の構想だ。地域を盛り上げたい、鈴鹿のサッカーを支えたいという思いを持つ個人・企業を巻き込み、当事者意識を持つステイクホルダーが増えれば、最終的にはスポンサー料収入も増えるはずだ。

プロスポーツにはオーナー企業がスポンサー料収入の大半を負担する、経営者が「個」で意思決定を思い切りよく進める手法もあるが、それは彼のポリシーと違う。斉藤社長は仲立ちする立場として、クラブを地域に広げていくリーダーシップを志向している。

「オーナーがチームを支えるのは最後の選択肢です。理念をスポンサーの人に説明して、サポートを広げていくことを僕はやるべきだと思っています」

斉藤社長は現在、月に2、3回の頻度で鈴鹿に通っていて、ホーム最終節ではサポーターに話をする機会も持った。協同の社長という「本業」もある中でのかなりタフなスケジュールだが、今は経営者としてスタートアップに注力している。

サポーター、地元の人に向けたメッセージを求めると彼はこう答えた。

「地元の方に愛されるクラブ、そして育成型クラブというフィロソフィーをもって、しっかり経営を進めようと考えています。僕は1日1日、1枚1枚の紙を積み上げることしかできません。ジャンプアップなんてことを考えていません。ゆっくりでも構わないので、地元に愛されるクラブをどう作るか皆さんと考えて、一歩ずつ歩んでいきたいと思っています。過去のことは何としても絶ち切らなければいけないし、僕ができることなら説明をします。皆さんとともに、新しい一歩を踏んでいきましょう」

<了>

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