なぜDAZNは当時、次なる市場に日本を選んだのか? 当事者が語るJリーグの「DAZN元年」
昨年30周年の節目を迎えたJリーグ。その組織面や経営面でのガバナンスは、村井満チェアマン時代の2014年から2022年までの8年間で劇的に強化された。その結果、切迫した財務面の問題は解消され、コロナ禍のリーグ崩壊の危機を乗り越え、Jリーグのパブリックイメージそのものが大きく変わることとなった。そこで本稿では書籍『異端のチェアマン』の抜粋を通して、リーグ崩壊の危機に立ち向かった第5代Jリーグチェアマン・村井満の組織改革に迫る。今回はDAZNサービス開始に至った経緯と、当時の日本のサッカーファンの反応について。
(文=宇都宮徹壱、写真=つのだよしお/アフロ)
なぜDAZNは当時、次なる市場に日本を選んだのだろうか?
「DAZNの事業がスタートしたのは、2016年の8月でした。最初は、オーストリア、ドイツ、スイス。すぐに日本でもサービスを開始しています。OTT(オーバー・ザ・トップ=インターネット配信)によるビジネスのアイデアは、その年の初めくらいには固まっていたんですが、当初から日本での市場には明確な関心がありました」
東京・港区にあるDAZNジャパン・インベストメント合同会社のオフィス。私たちの取材に応じてくれたのは、ニュージーランド出身の元ラガーマンで、日本語にも堪能なアカウント・ディレクターのディーン・サドラー。そしてDAZNの前CEO、ジェームズ・ラシュトンである。Zoomでの参加となったラシュトンは、DAZNを離れてからオーストラリアのメルボルンに移住。通訳を引き受けてくれたサドラーもまた、2022年12月に退職している。DAZN(当時はパフォーム・グループ)が、Jリーグの放映権入札に参加した2016年当時のことを知る両者に、同時に話を聞けたのは幸運であった。
DAZNの事業そのものがスタートしたのは、入札に参加してから4カ月後の2016年8月。実績どころかサービスすら始まっていない中で、同社のOTTに可能性を感じていたJリーグもさることながら、入札に手を挙げたDAZNの豪胆さにも驚かされる。それにしても、ドイツ語圏でサービスを開始したDAZNは、なぜ次の市場に日本を選んだのだろうか? ラシュトンの答えは明快だった。
「まず、市場そのものの大きさ。それに加えて、多くの日本人がスポーツ好きであること。ITスキルが総じて高く、インフラが整っていること。それでいて、有料放送の視聴環境が昔のままだったこと。これらの理由から、OTTサービスが一気に広まっていくという仮説は、十分に成り立つと考えました」
彼らの仮説が、概ね間違っていなかったことは、その後の歴史が証明している。とはいえ、そのスタートは実に波乱に満ちたものであった。再び、ラシュトン。
「2017年のシーズンが開幕して、土曜日の試合は上手くいったんです。そして日曜日、僕とディーンが視察したのが、ガンバ大阪のホームゲーム。スマートフォンでDAZNの映像をチェックしていたんですが、なかなか試合映像が始まらない。おかしいなと思っていたら、どんどんメッセージが入ってきて……。そこから激動の日々が始まりました」
いきなり試練に立たされることとなったJリーグとDAZN
2017年は、Jリーグの「DAZN元年」である。配信そのものは、宮崎、鹿児島、沖縄の3県で開催されたプレシーズンマッチ「JリーグDAZNニューイヤーカップ」(1月22日〜2月11日)全15試合からライブ中継されている。しかし、日本での実質的なサービス開始は、レギュラーシーズンが開幕する2月25日であった。
J1リーグでは、3年ぶりに「1シーズン制」となり、優勝賞金が3倍の3億円、均等配分金が3億5000万円と増額(前年までは、それぞれ1億円と1億8000万円)。さらに、この年から導入される理念強化配分金により、優勝クラブには2018年からの3年間で合計15億5000万円が入ることも話題になった。
ちなみに2017年のJリーグの経常収益を見ると、273億3100万円。前年の2016年が135億6000万円だから、実に前年比201.6%である。これは言うまでもなく、DAZNマネーがもたらした恩恵。「異端のチェアマン」就任のきっかけとなった、2013年のJリーグの経営危機は、わずか4年で過去のものとなりつつあった。
こうした景気の良い話の一方で、肝心のOTTによる配信については未知数。J1で306試合、J2で462試合、J3で272試合。合計1040試合をすべて無事故で配信することができるのだろうか? 漠然とした危惧は、開幕早々に現実のものとなる。
2月26日に行われた、J1のガンバ大阪対ヴァンフォーレ甲府。そしてJ2の愛媛FC対ツエーゲン金沢。前者は最初から最後まで、後者は試合途中から視聴できない状況となり、JリーグとDAZNはいきなり試練に立たされることとなった。
CS放送からネット配信へ。不安を覚える視聴者層
日本のサッカーファンにとっての2017年は、まさに「黒船来航」の緊張感と共に迎えるシーズンとなった。
スカパー!からDAZNに変わっても、快適な視聴環境は維持されるのだろうか? 実際、OTTによる視聴に不安を覚えるファン・サポーターは少なくなかった。漫画家の大武ユキも、そのひとりだった。2009年より『ビッグコミックスペリオール』にて『フットボールネーション』を連載している彼女は、自他共に認めるサッカーマニア。スタジアムで観戦するだけでなく、国内外の中継映像も時間が許す限り、貪欲に摂取し続けていた。そんな大武は、DAZNをどう見ていたのだろうか。
「とりあえず、ネットだけになるのは困るなと思いましたね。それと録画ができないので、仕事の資料として使えなくなってしまうのも痛いし、大きい画面で視るには面倒な手続きが必要になりますよね」
シーズン開幕前に取材した際、大武はこのようなコメントを残している。一方で彼女は、OTTによる視聴方法が、広く受け入れられるかについても懸念していた。
「中高年のサッカーファンは、DAZNを視聴するまでが大変だと思いますよ。地方のJクラブだと、お年寄りのファンも多いじゃないですか。今までだったら、リモコンのスイッチひとつでスカパー!が見られたのに、これからはそうではなくなりますよね。スマホを持っていないお年寄りもいますから、ITリテラシー以前の問題だと思いますよ」
スカパー!からDAZNへ。CS放送からネット配信へ。そしてTVのみの視聴から、スマートフォンやタブレットでの視聴へ――。
現在ではすっかり定着した感のあるOTT。しかし2017年当時、この急激な変化をすんなり受容していたサッカーファンは、およそ多数派とは言い難い状況だった。かくいう私もそのひとり。自宅のTVで視聴するべく、ファイヤーTVスティックを購入したものの、セッティングが非常に億劫に感じられ、開幕直前まで放置していた。こういう時、つくづく自分が老境に差し掛かったことを実感する。
「Jリーグ スタジアム観戦者調査2017 サマリーレポート」によれば、この年のJ1・J2・J3における入場者の平均年齢は41.7歳であった。1993年の開幕時、爆発的なブームに熱狂した当時の若者たちは、そのまま40代から50代に突入。客層の新陳代謝は順調とは程遠く、多少の新規ファンの流入はあったとしても、平均年齢41.7歳という調査結果は十分に納得できるものであった。
そんな彼らにしてみれば、それまで馴染んでいたスカパー!からDAZNに切り替わることに、何とも言えぬ不安を覚えるのも詮無き話であった。
新たな視聴体験が浸透するまでには一定以上の期間が必要になる
「実は『タブレットやスマートフォンではなく、スカパー!の時のようにTVで視たい』という声が、開幕前には非常に多かったんですね」
そう語るのは、当時のJリーグチェアマン、村井満である。
「ですから、OTTによる視聴体験が浸透するまでには、一定以上の期間が必要になるだろうと考えながら開幕の準備をしていました。その一方で『DAZNが日本のサッカーファンをリードしてくれるのか』、さらには『日本のサッカーファンの共感が得られるのか』――そちらのほうに、むしろ注目していました」
このように、2017年シーズンの開幕を迎えるにあたり、Jリーグ側は「OTTによる新しい視聴体験」の拡大と「DAZNが導くサッカー文化」の浸透を目指していた。だが、一般のファン・サポーターは「スカパー!からDAZNへの移行」を不安視していた。そうした意識の乖離がある中、起こってはいけない事故が起こってしまう。
2017年シーズンは、J1が2月25日、J2が26 日、そしてJ3が3月11日に、それぞれ開幕することになっていた。視聴環境の変化に不安を抱くJリーグファンであったが、J3を含めた全試合がDAZNでライブ中継されることについては、好意的に受け止めていた。なぜならスカパー!時代、J1とJ2は全試合が放送されていたが、J3は重要な試合を年間10試合ほどチョイスして、あとはハイライトで紹介されるのみだったからだ。
DAZNとの交渉にあたり、著作権と同じくらいJリーグが重要視していたのが、全試合のライブ中継を視聴者に届けることであった。2016年にDAZNとの交渉に当たった中心人物のひとりである小西孝生は語る。
「なぜなら、それが普及と視聴習慣につながるからです。J3に降格して試合が視られないとなると、サポーターにとっては死活問題ですし、露出が減ることでクラブもスポンサー営業がやりにくくなります。J3の中継も届けるためには、膨大な制作費がかかるわけで、その意味でもDAZNマネーは必須でした」
迎えた2017シーズン。「DAZN元年」は、スタート早々に配信トラブルが複数発生。スカパー!から仕方なくDAZNに切り替えた層から不満の声が噴出することになる。それでも迅速に行われた謝罪会見を経て、DAZNとJリーグ、ファン・サポーターとの絆は少しずつ深まり、10年スパンで伴走していく関係となってゆく。
【連載第3回・後編はこちら】DAZN元年にサポーターを激怒させたクルクル問題。開幕節の配信事故を乗り越え、JリーグとDAZNが築いた信頼関係
(本記事は集英社インターナショナル刊の書籍『異端のチェアマン』より一部転載)
<了>
【連載第1回・前編】歴代Jチェアマンを振り返ると浮かび上がる村井満の異端。「伏線めいた」川淵三郎との出会い
【連載第1回・後編】Jリーグ開幕から20年を経て泥沼に陥った混迷時代。ビジネスマン村井満が必要とされた理由
【連載第2回・前編】Jリーグ「JAPANESE ONLY」事件の真実。その裏で起きた「八百長疑惑」。立て続けに起きた2つの事件とは
【連載第2回・後編】「Jリーグにとって浦和レッズは貴重な存在」。村井満が浦和への制裁を無観客試合とした本当の理由
Jリーグ前チェアマン・村井満がバドミントン界の組織抜本改革へ。「天日干し」の組織運営で「全員参加型の経営に」
[PROFILE]
村井満(むらい・みつる)
1959年生まれ、埼玉県出身。日本リクルートセンターに入社後、執行役員、リクルートエイブリック(後にリクルートエージェントに名称変更)代表取締役社長、香港法人社長を経て2013年退任。日本プロサッカーリーグ理事を経て2014年より第5代Jリーグチェアマンに就任。4期8年にわたりチェアマンを務め、2022年3月退任。2023年6月より日本バドミントン協会会長。
[PROFILE]
宇都宮徹壱(うつのみや・てついち)
1966年生まれ、東京都出身。写真家・ノンフィクションライター。東京藝術大学大学院美術研究科を修了後、TV制作会社勤務を経て1997年にフリーランスに。国内外で「文化としてのフットボール」を追い続け、各スポーツメディアに寄稿。2010年に著書『フットボールの犬』(東邦出版)で第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞、2017年に『サッカーおくのほそ道』(カンゼン)でサッカー本大賞2017を受賞。個人メディア『宇都宮徹壱ウェブマガジン』、オンラインコミュニティ『ハフコミ』主催。
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