
ラグビー田中史朗、キヤノン改革に懸ける決意。強豪から中堅へ、ベテランの生き様
昨秋、日本列島を沸かせたラグビーワールドカップ2019で一際存在感を放った小さな巨人、田中史朗。日本代表キャップ数は歴代5位の75を数え、ワールドカップに3大会連続で出場した35歳のベテランはいま、新たな挑戦に身を投じている。国内屈指の強豪パナソニックから、中堅チームのキヤノンへ。改革に懸ける決意と生き様は、きっと新たな歴史を紡いでいくはずだ――。
(文=藤江直人)
涙もろいベテランが持つ、もう一つの顔
日本中を熱狂させた昨秋のラグビーワールドカップ日本大会を境に、日本代表で歴代5位、スクラムハーフでは最多となる75キャップを獲得してきた田中史朗は、ちょっとした変化を感じている。周囲から掛けられる言葉のなかに、大会前とは明らかに違う問い掛けが含まれるようになったと苦笑する。
「今日は泣かないの、みたいなことはよく言われますね」
史上初のベスト8進出を果たした日本代表に、そしてラグビーというスポーツの面白さに魅せられたファンの記憶に、強烈な残像を刻み込んだ一人が田中といっていい。メディアに引っ張りだこになった大会後の日々で、ありとあらゆる機会で涙する姿を見せてきたからだ。
南アフリカ代表に敗れて、快進撃が終焉を迎えた準々決勝から一夜明けた昨年10月21日。東京都内で行われた記者会見の冒頭で、ジェイミー・ジョセフ ヘッドコーチが挨拶をしている段階ですでに涙腺が決壊。登壇した31人の代表選手のなかでただ一人、目頭を押さえ続けた。
約5万人ものファンが昼時の東京都千代田区の丸の内仲通りに駆けつけた、同12月11日のラグビー日本代表ONE TEAMパレードでも、スタート前から頬に感激の涙を伝わせていた。民放のテレビ番組に出演した際には、自らが涙する映像を見てもらい泣きした場面もあった。
日本代表がゲスト審査員を務めた、大晦日のNHK紅白歌合戦でも印象的な姿をお茶の間へ届けた。松任谷由実が歌った、ラグビーをテーマとした名曲『ノーサイド』を背後で聴きながら感激の表情を浮かべていた田中は、感想を求められたときには声を震わせていたからだ。
「でも、別にわざと泣いているわけではないんですよ」
とにかく涙もろくて、と今度は照れくさそうに笑う田中は、2020年が訪れてまもない1月3日に35回目の誕生日を迎えた。ベテランと呼ばれる域に達して久しい、百戦錬磨の経験を持つ身長166cm体重75kgの小さな巨人は、ひとたびジャージーを脱いだときに漂わせる、周囲を和やかにさせるオーラとは対極に位置するもう一つの顔を持っている。
必要あれば心を鬼にして声をあげる
それは「一言居士」――となる。何かにつけて一言多い人物を、どちらかといえば親しみを込めて指す際に用いられる四字熟語が、田中ほど当てはまる選手もいない。理不尽に思えること、あるいは納得できないことに対して黙って見逃せない性格だと、自他ともに認めている。
例えば2015-16シーズンのトップリーグ開幕戦。直前にイングランドで開催されたワールドカップで優勝候補の南アフリカ代表から逆転勝利をもぎ取る、世紀の大金星をあげた主役の一人である田中を待っていたのは、両サイドのゴール裏とバックスタンドの両端がガラガラの秩父宮ラグビー場だった。
高まっているラグビー人気とは対照的に、日本ラグビーフットボール協会は慣例通りに一般向けのチケットを全体の35%に抑えていた。企業サイドに配布された40%、招待券となった25%の大半が秩父宮ラグビー場へ足を運ばなかったことで、観客数は収容人員の半分以下となる1万792人だった。
トップリーグ3連覇を目指していた、パナソニック ワイルドナイツのスクラムハーフとして先発。サントリーサンゴリアスを38-5で撃破した試合後に、田中は「ラグビーが負けた日です」と明言。前売り完売をうたいながら、旧態依然とした運営方法で大失態を演じた協会を厳しく批判した。
「選手たちが本当に死に物狂いで戦って、日本代表がワールドカップで勝った。これでやっとラグビー界が変わることができる、トップリーグも盛り上がっていく、という思いで今日を迎えたのに。日本ラグビー協会はまだわからないのか」
チームを、取り巻く状況を良くするために、必要ならば心を鬼にして忌憚なき言葉を発する。イングランドへ渡る直前に、夫人の智美さんに「もしオレが死んだら、ええ人を見つけてな」と屈強な大男たちに挑む悲壮な覚悟を固めていた田中にとって、帰国後の状況はどうしても許せなかった。そして、優しさと厳しさを同居させる田中の視線はいま、新天地キヤノン イーグルスへと向けられている。
名門・伏見工業高から京都産業大を経て、2007年に三洋電機ワイルドナイツ(現・パナソニック)へ加入した田中は、12年間で4度のトップリーグ優勝と5度の日本選手権制覇に貢献。勝者のメンタリティーを脈打たせながら、2018-19シーズン終了後の昨年4月にキヤノンへ移籍した。
完敗を喫した古巣パナソニックに見た小さくも大きな差
ワールドカップ日本大会を戦い抜いた日本代表戦士に十分な休息時間を与えるために、今年1月に開幕を迎えた今シーズンのトップリーグ。2月2日にホームの町田GIONスタジアムで行われた第4節で、田中はキヤノンのスクラムハーフとして、古巣パナソニックと初めて対峙した。
「高ぶるもの? それはないです。不思議な感覚もやりにくさもなかったですね。個人的な感情が入ると自分のプレーに集中できないので、キヤノンに100%コミットすることを意識していました」
試合は予期せぬ形で動いた。開始わずか3分。パナソニックのキャプテンで、日本代表にも名前を連ねたフッカー坂手淳史がタックルをハンドオフでかわそうとした際に、左肘が相手の顎付近に入ってしまう。TMO(テレビジョン・マッチ・オフィシャル)を介して、坂手に一発退場が命じられた。
図らずも数的優位に立ったキヤノンは、直後にフルバックのエスピー・マレーが先制トライをゲット。開幕3連勝で乗り込んできた首位のパナソニックを倒せるのでは、と一気に沸き上がったスタンドの期待はしかし、時間の経過とともに萎んでいってしまった。
「完敗ですね。本当に強かった。チームとしても個人としても、パナソニックさんの方が上でした。キヤノンはミスもペナルティーもすごく多かった。その点でパナソニックは一人ひとりがゲームの流れを理解して、小さなことをひたむきに遂行していた。そのあたりの差が、本当に大きかった」
前半28分までは10-10と接戦を演じるも、その後はじわじわと点差を広げられ、最終的には17-51のトリプルスコアでキヤノンは大敗を喫している。後半13分まではコートの上で、荒井康植と入れ替わった後はベンチで、田中は厳しい言葉を味方へ投げ掛け続けた。
「ペナルティーをせずにいこう、と。ペナルティーさえしなければ、相手は14人だから疲れてくる。そうなればこっちにチャンスが生まれる、という話をずっとしていたんですけど、どうしても我慢できずにペナルティーを犯してしまう。その結果として自分たちのエリアに入られて失点していくうちに、みんなの気持ちが切れてしまった。いいときはペナルティーが少ないのに、パナソニックのプレッシャーが強かった、というのもありましたけど、それでも今日は何回言っても変わらなかった。もっと、もっと自分たちにフォーカスを当てていかないといけない」
パナソニックでは伏見工業高の後輩、27歳の内田啓介が台頭してきたこともあって、先発する機会が減ってきていた。日本大会と同じく流れを変えるために途中から投入される、インパクトプレーヤーとしての存在感は放っていたものの、現役である以上は「9番」を背負って先発したい、という思いが最終的には上回った。
一人ひとりの意識を高く持てるチームに
トップリーグにおけるキヤノンの歴史はまだ浅い。初めて昇格したのは2012-13シーズンで、最高位は2015-16シーズンの6位。昨シーズンは12位に甘んじていたチームが、田中の目には「成長途上にある」と映り、日本代表を含めたキャリアで培ってきた濃密な経験を還元したいと決意した。
「少しずつ伝えてきていますし、少しずつみんなも意識してくれている。ただ、1カ月や2カ月ですぐに変われるようなスポーツではないので、しっかり時間をかけていきたい。ただ、僕自身もずっとやれるわけではないので、チームの意識が変わるように、口を酸っぱくしてやっていきたい」
日本大会後に田中が本格的に合流したキヤノンには、ワールドカップで全5試合に先発したスタンドオフ、田村優とのトップリーグ屈指のハーフ団が生まれた。しかし、開幕戦では昨シーズンの覇者、神戸製鋼コベルコスティーラーズの前に、後半に大量失点する悪癖が出て16-50で屈した。
「ここまでいい部分も出ているけど、強いチームに対しては最後に切れてしまい、大量失点を取られるところがあるので。しっかりと粘れるチームに、一人ひとりの意識を高く持てるチームに、最終的には勝てるチームにしたい」
第2節で三菱重工相模原ダイナボア-ズ、第3節ではNECグリーンロケッツに連勝。勢いに乗って対峙したパナソニックの前に一敗地にまみれた。どちらが退場者を出したのかわからない試合内容と再び喫した大敗を介して、目標を成就させるための道を古巣から示されたと田中は感謝している。
「サポートなどの部分で個々の選手がもっと、もっとハードワークしなければいけないし、チーム全体に対しても規律の部分を、口を酸っぱくして言っていかなければいけない。自分から厳しく言うときもあるし、キャプテンや副キャプテンから選手たちに言ってもらえるように、アドバイスじゃないですけど、こういうことを言ってほしい、と伝えることもあります」
言葉に説得力を伴わせるためにも、自らのプレーのレベルも上げていく。そして、常日頃から目線を高く掲げなければ、ハイパフォーマンスは維持できない。続投が決まったジョセフHCの下で、6月下旬から活動を再開させる日本代表入りも「もちろん意識している」と田中はこう続ける。
「でも、代表の前にキヤノンへしっかりとコミットして、キヤノンで勝つことを意識していかないと。小さなスキルの積み重ねを含めて、自分のプレーをしっかりとやり切っていきたい」
勝利を重ねてこそ歴史が紡がれ、チームのなかで文化が育まれていく。キヤノンの土台を築く壮大な役割をも担う田中は、決して遠くはない未来にキヤノンのジャージーを着て歓喜の涙を流す光景を思い描きながら、たとえ嫌われてでも周囲に、自分自身に熱く、厳しい視線を向ける生き様を貫いていく。
<了>
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