
酒井宏樹の飛躍は、2011年の中断期間に始まった。未曽有の危機こそ問われる“転換力”
フランスの名門マルセイユで4シーズン目、現地でも確かな評価を受けている日本代表DF酒井宏樹がJ1デビューを果たしたのは、いまからちょうど9年前、2011年の4月23日だった。開幕戦ではベンチにも入れなかった男は、あの日から瞬く間に飛躍を遂げ、欧州へと羽ばたいていった。
東日本大震災による48日間の中断期間に、いったい何があったのだろうか? その物語は必ずや、コロナ禍で先行きの見えないいまのJリーグで闘う選手たちにも受け継がれるだろう。
(文=藤江直人、写真=Getty Images)
J1デビュー戦で輝きを放った酒井宏樹
48日ぶりに見たJリーグのピッチから、いい意味での違和感を何度も覚えた。NACK5スタジアム大宮のスタンドで、日本サッカー協会(JFA)の強化担当技術委員長を務めていた原博実(現・Jリーグ副理事長)は、隣にいた柏レイソルの関係者に「彼は誰なの?」と興味深そうに尋ねた。
原が視線を向けた先には「4」番を背負った重戦車のような選手が、右サイドバックとしてダイナミックなプレーを何度も披露していた。2011年4月23日。東日本大震災の発生に伴い、3月5日および6日の開幕節後に中断していたJリーグが再開された日のひとコマだった。
日本代表の点取り屋として歴代4位タイの通算37ゴールをあげ、監督として浦和レッズとFC東京を率い、日本代表の監督代行も務めた原を魅了したのは、その後、日本代表で不動の右サイドバックを担い続け、主戦場をヨーロッパへ移して間もなく8シーズン目を終えようとしている酒井宏樹だった。
「センターバックとしての酒井宏樹は知っていたけど、今シーズンから右サイドバックとして起用すると聞いて、これは面白いと思いました。サイズがあるし、何よりも身体の強さがあるので」
レイソル関係者から説明を受けた原は再び驚いた。清水エスパルスを3-0で下した開幕戦で、酒井はピッチに立つどころか、リザーブにも名前を連ねていなかった。レイソルの右サイドバックでプレーしていたのは、センターバックを主戦場とする増嶋竜也(現・ジェフユナイテッド千葉)だった。
当時の酒井は柏レイソルU-18から昇格して3シーズン目。レイソルがJ2を戦った2010シーズンは、主にセンターバックとして9試合に出場しただけだった。つまり、東日本大震災による中断が明けた大宮アルディージャ戦は、21歳になったばかりの酒井にとってのJ1デビュー戦だった。
FWからSBへのコンバート、吉田達磨の英断
ここで素朴な疑問が頭をもたげてくる。身長183cm、体重70kgとサイズにも恵まれた酒井が、センターバックではなく右サイドバックで起用されたのはなぜなのか。Jリーグが再開されるアルディージャ戦で大抜擢されたのはなぜなのか。そもそも、中断されていた期間中に何があったのか。
「昨シーズンの段階から、ネルシーニョ監督は酒井を右サイドバックとして使うタイミングを見計らっていましたし、酒井本人も準備していました。監督が酒井の身体能力の高さとスピード、技術を見て、本人が最も伸びて、かつチームにフィットできると判断したポジションが右サイドバックでした」
2009シーズンの途中から指揮を執っていたブラジル人の名将、ネルシーニョ監督がデビューへ向けて周到に準備を重ねてきた秘密兵器だと明かしてくれたのは2010シーズンから入閣し、リザーブの選手たちを中心に指導してきた布部陽功コーチ(現・柏レイソルゼネラルマネージャー)だった。
「あれぐらいスケールが大きく、計り知れないほどのポテンシャルを秘めているサイドバックは、なかなか日本にはいないと思います。クロスの質もそうですけど、判断の早さや考える賢さはもっと伸びる余地がある。いまもなお成長している段階です。これから先、いろいろな経験を積むことによって試合を読む力、試合中に刻々と変化する流れに対応できる力も備わってくる。期待していてください」
一発回答で右サイドバックのレギュラーの座を射止め、年末のJリーグアウォーズではベストイレブンとベストヤングプレーヤー賞をダブル受賞。ロンドン五輪を目指していたU-22代表でも瞬く間に主力となった酒井へ寄せる期待を、布部コーチはこんな言葉で説明してくれた。
小学生年代からレイソルの下部組織で心技体を磨いてきた酒井は、それまでのフォワードから、中学生年代の柏レイソルU-15になってサイドバックへコンバートされ、U-18でも継続されている。いま現在はシンガポール代表を率いる吉田達磨監督による、将来を見据えた英断だった。
もっとも、いざトップチームに昇格した2009シーズンは試合に絡むことができず、6月からはブラジルのモジミリンECへ短期留学して武者修行を積んだ。前述したように2010シーズンはセンターバックの控えとして、週末のリーグ戦へ向けてコンディションを整えるサイクルを覚えた。
自信を与えてくれた、北嶋秀朗との一幕
迎えた2011シーズン。酒井へ向けられる視線を大きく変えたのは、東日本大震災後に余儀なくされた中断期間だった。4月に入って行われた鹿児島・指宿キャンプ中に組まれた、ロアッソ熊本との練習試合で右サイドバックとしてテストされた酒井は、FW工藤壮人の2ゴールをアシストする。
さらに、中盤の右サイドを主戦場とする大黒柱で、2011シーズンのMVPを獲得するレアンドロ・ドミンゲス(現・横浜FC)との縦のコンビネーションも中断中に習熟。ドミンゲスが中に絞り、相手のマークを引きつける動きで生じる前方のスペースを、酒井が存分に生かすパターンも確立された。
機は熟したと判断したのだろう。ネルシーニョ監督はアルディージャ戦で、酒井の封印を解く決断を下した。ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)時代からネルシーニョ監督を支えてきた、レイソル強化本部の小見幸隆統括ダイレクター(当時)は、指揮官の狙いをこう説明してくれたことがある。
「サイドバックにサイズの大きな選手を置きたい、というのがネルシーニョのたっての考えでした。酒井自身もがむしゃらにプレーしてきたなかで、勢いを大きく自信に変えてきましたよね」
不動のレギュラーとして活躍してきた小林祐三(現・サガン鳥栖)が横浜F・マリノスへ移籍したことで、右サイドバックのポジションがぽっかりと空いた2011シーズン。開幕戦こそ経験豊富な増嶋に先発を譲った酒井に巻き返しのチャンスをもたらしたのは、クロスに対する逆転の発想だった。
「今シーズンから本格的にサイドバックに挑戦するにあたって、何か一つ武器が欲しかった。もともと味方のフォワードを狙ってクロスを放っても、ピタリと合うほど高い精度を持ち合わせていない。ならばゴール前のスペースを狙って、味方のためになるべくボールに不規則な回転をかけずに、なおかつ相手のキーパーとディフェンダーが嫌がるコースに速いクロスを蹴ろうと考えたんです」
味方にピンポイントで合わせられなくても、相手ゴール前に生じるスペースを狙うことはできる。自身の短所を認めた上で、縦へ抜け出すスピードを含めた身体能力の高さに、誰もが日本人離れしていると称賛する体幹の強さを融合させて生まれたのが、酒井の代名詞となった高速クロスだった。
トップスピードに乗ったまま、しかも左足はまだ前方を向いたままの体勢で強引に腰を回転させる。当時から筋骨隆々とした鋼の上半身と、強烈なねじれに耐えられる強靱な下半身によって奏でられる至高のハーモニーは低く、しかも高速のクロスと化してほぼ真横に位置するゴール前へ放たれる。
インパクトの直後には勢い余って、軸足となる左足すらも宙に舞う姿は美しさすら漂わす。インフロントキックでこすり上げるように蹴られ、カーブの回転がかけられたボールは相手キーパーから逃げるような軌道を描きながら、ゴール前で下に向かって伸びるように高度を急降下させていく。
狙うポイントは基本的にニアサイド。競り合いながら飛び込んでくる味方が、頭を含めた体の一部をボールにヒットさせるだけでゴールへの可能性が生まれるからだ。大きな自信を与えてくれたのは、練習相手を務めてくれたFW北嶋秀朗(現・アルディージャコーチ)の一言だった。
「練習でキタジさんが『合わせやすい。すごくいいよ』と言ってくれたんです」
酒井自身が振り返る、飛躍の2011シーズン
ブンデスリーガのハノーファーを経て、リーグ・アンのマルセイユでプレーして4シーズン目。日本人選手でただ一人、5大リーグの強豪クラブでコンスタントにプレーする存在となったいまも、ピッチを離れれば牧歌的な雰囲気を漂わせる酒井は2011シーズンをこう総括していた。
「21歳という若い選手を、J1の舞台で起用し続けるのはなかなかできないことだと思う。監督には本当に感謝していますし、ゴールを決めてくれる人がいてこそアシストの記録がつくと考えれば、いい時期も悪い時期もサポートしてくれた味方の選手たちにも感謝しています」
実は2011シーズンのオフに、酒井のもとへは海外からオファーが届いている。J1を制し、開催国王者として出場したFIFAクラブワールドカップ準決勝で対戦した、王様ペレを輩出したブラジルの名門サントスが酒井のプレーに魅せられたからだ。しかし、熟慮の末に断りが入れられている。
「サントスのレベルはもちろん高いでしょうけど、酒井本人が『いまはブラジルに行く時期ではない』と決めました。何度も去就を相談していたネルシーニョに、酒井が心酔していることも関係していたと思っています」
舞台裏を明かしてくれた小見統括ダイレクターは、2012シーズンが始まった直後には「でも、今年の夏には行っちゃうのかな」とも覚悟も決めていた。予想通りにヨーロッパが放っておかない存在となった酒井は、複数のクラブが争奪戦を繰り広げた末にハノーファーへと移籍している。
アルベルト・ザッケローニに始まり、ハビエル・アギーレ、ヴァヒド・ハリルホジッチ、西野朗、そして森保一と5人の日本代表監督を魅了してきたサイズ、スピード、強さ、そして武器を兼ね備えたサイドバックが産声をあげたアニバーサリーが、9年前の4月23日となる。
未曽有の危機にこそ問われる、ポジティブへの転換力
両親から授かったサイズと身体能力の高さ。日本代表の指揮官候補にもあがったネルシーニョ監督の慧眼と決断力。そこへ自分だけの武器を探し求める過程でひらめいた逆転の発想が触媒となり、東日本大震災による中断期間に、そのままならリザーブだった酒井を昇華させる鮮やかな化学反応が起こった。
日常生活からサッカーが消えた期間を比べれば、今シーズンは9年前をはるかに超えている。新型コロナウイルスが猛威を振るい続ける状況下で、東京や大阪など大都市圏の7都府県で7日に発令された緊急事態宣言は、16日からは日本全国へと拡大。予断を許さない状況がこれからも続く。
例えばJ1の18クラブは、すべてが活動を休止させている。J2で唯一、練習を継続させているジュビロ磐田も、25日から休止させることを決めた。ボールすら蹴ることができない日々が続くなかで、自宅待機中の選手たちは未曾有のピンチに直面している。それでも、明けない夜はない。
家族と過ごす時間を新たなエネルギーへ変えている選手たちもいれば、SNSを通じて自らをも鼓舞するメッセージをファンやサポーターへ発信し続ける選手たちもいる。苦境を陽転させられるポジティブな思考回路をフル回転させられる男たちこそが、愛してやまないサッカーが戻ってくるごく近い未来に9年前の酒井を思い出させる、最高にして痛快なサプライズを届けてくれるはずだ。
<了>
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