「国をも動かす」ラッシュフォードだけではない 社会問題と向き合うフットボーラー以上の存在
イギリスにおいて「フットボール」は特別な存在だ。平時は、スタジアムで熱い戦いを繰り広げることで、日常に熱狂をもたらし、人々に生きがいを与えている。そして今回の新型コロナウイルス禍のような社会的危機下では、クラブや選手はさまざまな援助を無償で行い、実質的にも社会に大きく貢献している。もちろん彼らの社会貢献は金銭面の援助だけではない。その影響力を活用して人種差別撲滅などのさまざまなメッセージをも発信している。そこで今回は、非常時だからこそ際立つイングランドフットボールの、ポジティブな社会的影響に関する実例を取り上げていきたい。
(文=内藤秀明(編集協力=小津那)、写真=Getty Images)
一人のサッカー選手が国を動かす
今回の新型コロナウイルス禍で、イギリスはさまざまな社会的課題を露呈した。真っ先に思い浮かぶのはロックダウンによる収入減だろうか。多くのイギリスの企業が、倒産を防ぐために、従業員たちを一時解雇したのだ。ただ、イギリスには一時解雇された従業員たちが平時の給料の80%を政府から受け取ることができる一時帰休の制度はある。とはいえ、平時から生活困難である層は、この社会的危機でさらなる困難に直面していることも事実だ。低所得者向け給付金の申請数も急増。4月だけでも85万人が給付を申請し、1996年以降初めて受給者が200万人を超えるという深刻な事態になっている。これまでも多かった貧困家庭は、さらに急増していることが予測される。
そんな低所得者層にとって苦しい状況にもかかわらず、政府は貧困家庭救済のために学校給食を無料にする制度を学年の終わる7月で終了させる予定としていた。
そもそもイギリスでは、全児童の30%にあたる420万人が貧困の状況にある。2000年以降、子どもの貧困率はおおむね30%の横ばいで改善は見られない。
そんな背景もあり、今回のパンデミックで、社会的支援を必要としている家庭の児童に対しては、自宅にいながら給食を受け取ることができる制度を設けていた。
数多くの学校が休校または通学する学生を大幅に減らす措置をとっており、通常では、欠席の学生や休校中には衛生面での懸念があり給食を自宅に届けることはしていない。とはいえ貧困家庭にとって、給食支給による食費削減は非常に重要な存在だ。だからこそ政府は今回を緊急事態と判断したのだ。
この流れで、多くの市民は、夏休みなどの長期休みでも給食を支援してもらえることを期待していたのだが、政府は予算の兼ね合いもあり、夏休みの期間中を支給対象外とする判断を下した。
これに対して立ち上がったのは、マンチェスター・ユナイテッドに所属するマーカス・ラッシュフォードだ。
ユナイテッドのゴールスコアラーは、リーグ再開後に向けてロックダウン中も粛々と自身のトレーニングに励むだけでなく、慈善団体「FareShare」と協力し、貧困家庭などに対して300万食分の食事を確保するため、2000万ポンド(約26億8000万円)の寄付を集めていた。
さらにラッシュフォードは、6月15日に下院議員宛の公開書簡を発表し、夏休み中も脆弱な子どもたちが引き続きこの支援を受けられるよう、政府に方針の変更を訴えた。
公開書簡の中で、子どもの頃に学校の無料給食やフードバンクを利用していた自身の経験を語り、「イングランドの家庭では身近なことだ」と述べていた。そう、ラッシュフォード自身も裕福とはいえない幼少期を過ごしていたのだ。
今やイングランド代表にまで上り詰めた22歳は、母子家庭で育っており、出生証明書に父親の名前はないほどの複雑な家庭環境だった。母親はレジ係で稼いだ生活費で5人の子どもを養う必要のある苦しい家計状況でもあったという。
ラッシュフォードの行動の結果
この公開書簡は無駄にはならなかった。その2日後の6月17日にボリス・ジョンソン首相と電話で直接会談することにもなる。
その後、政府が動いた。
6月17日の会談後、政府は「夏休みは対象外」の発表を取り消すことを決めた。いちフットボーラーの訴えが認められたのだ。
当然の結果、イングランドサッカー界では、敵味方関係なく彼の行動を賞賛する声が上がった。マンチェスター・ユナイテッドとは、長年のライバル関係にあるリバプールの監督を務めるユルゲン・クロップも「ラッシュフォードの行動に対してこれ以上にないほどにリスペクトしている。アンビリーバブルだね。誰かが動かなければ変わらないという状況に陥った中、彼はそれを素晴らしいやり方でやり遂げた。ロックダウン中に彼がしたことは問答無用で素晴らしい」と絶賛。
ジョンソン首相も、定例記者会見で、「ラッシュフォード選手と話し合い、その取り組みの成果について感謝を伝えた。われわれは今現在、家庭が長期休み期間中も支援を必要としているという状況を理解しなくてはならない」と賞賛している。
一人のフットボーラーの行動が、国の首脳を動かした、歴史的な日となったのだ。
プレミアリーガーの社会問題との向き合い方
今回、ラッシュフォードの行動が大きく取り上げられることになったが、もちろんアクションを起こしたのは彼だけではない。
他にも、新型コロナウイルス対応に苦しむ医療機関への支援を目的に、プレミアリーグの選手たちが、クラブやリーグとは独立した選手主導の取り組みとして、対策支援への寄付金を適切に分配するための基金『#PlayersTogether』を設立した。
きっかけは、4月2日のイギリスのマット・ハンコック保健相の一言からだった。「プレミアリーグの選手がまずできるのは給与カットを受け入れ、自分たちの役割を果たすことだ」と述べ、医療機関やさまざまな方面への支援のために、選手たちに減給を受け入れるよう要求したのだ。
この流れを受けてか、プレミアリーグも翌4月3日、新型コロナウイルスによる経済的影響を考慮し、全クラブが選手たちと年俸30パーセントに相当する給与減俸について協議すると発表していた。
しかし、これらに対してイングランドサッカー選手協会(PFA)は翌4日に反論する。以前から選手たちの間で経済的支援の議論は行われていたことを強調しつつ、給与の減俸については政府の税収減につながり、それが新型コロナウイルスと戦う国民保険サービスや公共サービスに悪影響を及ぼすという内容だ。
他にも、元マンチェスター・ユナイテッドの10番であり、現在はイングランド2部ダービー・カウンティに所属するウェイン・ルーニーも「ターゲットを絞った寄付の方が効果的だ」と語っている。国、リーグ、選手の間で、考えの隔たりがあることが明らかになった。
その後リバプールのキャプテンを務める、ジョーダン・ヘンダーソンを筆頭にそれぞれのクラブとキャプテン間の話し合いを長い間行い、「選手たち独自で募った基金を設立し、支援をしていきたい」といった内容をリーグに直接提案。これが受け入れられる運びとなり、『#PlayersTogether』が設立された。
以下は、基金が設立するにあたり、選手たちが発表した声明文である。
「私たちはプレミアリーグの選手グループとして、この新型コロナウイルスの危機の中で『最も必要なところにお金を分配するために使用できる寄付基金を創設する』というビジョンと共に、数多くの話し合いを行ってきた。 国民保険サービス(以下NHS)の最前線や重要な領域で私たちのために戦っている人々を支援する。私たちの国にとってもNHSにとっても重要な時期であり、できる限りの支援をする決意だ」
この基金の設立にあたり、今回の『#PlayersTogether』活動を主導しているヘンダーソンは、この活動についての想い、今後への期待についてこのように語った。
「少し時間はかかったが、われわれは皆で協力して素晴らしいことを成し遂げた。われわれは、支援を必要としている慈善団体と、人々のために多くのお金を集めた。われわれはこのロックダウンの中で一丸となって、このひどい時期にできる限りの支援をしようとしてきた。われわれ選手一同は、選手全員で何かをしたいと思っていたからね。全ては支援を最も必要としている人々、NHS、主要な労働者のためのものであり、資金が適切な場所に行くことをきちんと確認していく」
NHSへの寄付を取りまとめている『NHSチャリティートゥギャザー』の最高経営責任者 エリー・オートン氏は、「選手らによるNHSのスタッフ、ボランティア、患者への支援は、考えられないような規模だった」と振り返っている。
プレミアリーグの今の奮闘
今回は、選手の取り組みを中心に、コロナ禍における支援を紹介したが、クラブやリーグも、さまざまな支援策を実施している。また誤解してほしくないのは、選手、クラブ、リーグは、今回のような未曽有の事態だから支援をしたというわけでも、潤沢な資金を活用した金銭支援のみというわけではないということだ。
その一例が「Black Lives Matter」に対する取り組みだろうか。
今年の5月25日、アフリカ系アメリカ人の黒人男性がアメリカのミネアポリス近郊で、警察官の不適切な拘束方法によって死亡。この事件がきっかけで、2013年頃から使われていた黒人差別の撲滅を訴える「Black Lives Matter」という黒人の命の重要性を説く言葉と、その運動が世界中に広まった。そしてこの抗議活動をプレミアリーグが公式に支持をする声明を公表したのだ。
主な内容は、選手名の代わりに「Black Lives Matter」とプリントされたユニフォームを、リーグ再開後の12試合で着用することが決まった。なおその後の試合でも、この標語が印刷されたワッペン付きのユニフォームを着用している。
プレミアリーグが、この運動を支持するようになった理由はさまざまだろうが、イングランドサッカー界でも多くの人種差別問題が起きていたこともその一因だろう。例えば2019年10月に行われたイングランド代表の試合中には、対戦相手のブルガリア代表サポーターからDFタイロン・ミングスに向けて『モンキーチャント』とされるチャントを受ける人種差別行為があり、前半のうちに試合は2度中断した。
モンキーチャントとは、主にアフリカ系スポーツ選手に対して行われる人種差別的掛け声だ。客席から、名前の通りサルの鳴き声を模したような掛け声を浴びせるもので、同時にサルの仕草を真似たジェスチャーを伴う場合もある。さらに、サルが好むとされる食べ物(ピーナッツ、バナナなど)が投げ込まれる場合もある。
当事者となったイングランド代表DFは「協議が続いていることは重要だが、同じことがまた起きれば、もうピッチを去るかもしれない」と述べている。
プレミアリーグでも、マンチェスター・ユナイテッドに所属するポール・ポグバが、2019年に行われたプレミアリーグ第2節のウルヴァーハンプトン・ワンダラーズ戦で、自ら得たPKのキッカーを務めたが、相手GKセーブされて失敗。チームは1-1の引き分けに終わり、連勝を逃したことで、戦犯扱いされたポグバはSNS上で一部のサポーターからのSNSによる人種差別的な侮辱が起こった。
後日、差別的侮辱に反応する形でフランス代表MFは自身のツイッターを更新し、「僕の先祖や両親は僕の世代の今日の自由のため、働くため、バスに乗るため、そしてフットボールをするために苦しんだ。人種差別的な侮辱をするのは無知である。僕をより強くし、次の世代のために戦うモチベーションを与えるだけだ」というコメントを添え、人種差別的な行為に対して反論する声を上げていた。
このような背景もありプレミアリーグが「Black Lives Matter」に関する声明を出すにあたり、リーグでプレーする多くの選手たちは「私たち選手一同は、起きている場所にかかわらず、人種的な偏見を根絶するという目的のために団結して、肌の色や信条に関係なく、受容し、尊敬しあい、全ての人々に平等の機会がもたらされるようなグローバルな社会を実現させる。このシンボルは、全ての選手やスタッフ、クラブ、審判団、そしてプレミアリーグの団結を示している」という文面をSNSにてそろって発表している。
そして、リーグ戦再開後の2試合では、試合開始前に、”Take a knee” と呼ばれるポーズをとることとなった。これは2016年NFL(米フットボールリーグ)のサンフランシスコ・フォーティナイナーズに所属していたコリン・キャパニックが、人種差別に抗議するために、試合前の国歌斉唱中に起立せず、ひざまずいたことで広まったものである。
バーンリーで起こった事件
しかしながらこの問題は根深い。リーグや選手がこのような活動をしているにもかかわらず、リーグ再開後のマンチェスター・シティ対バーンリー戦では、裏切られるような事件が起きた。
試合のテレビ中継中に、突如シティのホーム・エティハドスタジアム上空に小型の飛行機が現われ「White Lives Matter Burnley」という文字を喧伝しながら旋回を続けたのだ。
「White Lives Matter」とは、「Black Lives Matter」運動への人種差別的なリアクションとして2015年初頭に誕生した白人至上主義者のフレーズなのである。
これを受けてバーンリーは「これは私たちのクラブの主張では決してない。当局と協力して責任者を特定し、該当者をスタジアム生涯出入り禁止にする。プレミアリーグ、マンチェスター・シティ、『Black Lives Matter』を広めることを手助けしている全ての人々に深く謝罪する」とクラブとして行為を強く批判する声明を発表することとなった。
試合後にはバーンリーのキャプテンであるDFベン・ミーもインタビューで「あの飛行機のバナーを、バーンリーの一部のファンがやったのであれは恥ずかしくて仕方ない。彼らは完全にピントがずれている。あれは自分たちの意見ではない。再教育が必要だ。二度と起きないことを願う。自分のクラブと関連づけられることが腹立たしい」と、かなり強い口調で非難した。
英国人ジャーナリストのコリン・ジョイス氏は『ニューズウィーク』にて、「社会の新常識はまずロンドンで生まれ、その後イギリス中に広まることが多い」と指摘する。「ロンドンが人種的配慮の問題では常に『一歩先を行っている』ということだ。ロンドンの外から来た人間は、ロンドンでもはやNGとなった言い方や用語を未だに使ったりする」と続けた。今回事件の当事者とバーンリーは、ロンドンからは遠く離れたイギリス北西部に本拠地を置くクラブであり、イギリスの地理的格差は未だに根深いことを証明してしまった。
なお、英メディア『スカイスポーツ』によると、このバナーの掲示をしたバーンリーファンは、後に特定された結果、勤務先からも解雇された。また当事者のガールフレンドも、人種差別的なツイートが今回の件をきっかけで明るみになり、同様に勤務先をクビになったそうだ。
いずれにしても啓蒙活動がきっかけでこのような事件が起こったのは悔しいところだが、イギリス全土で放映されるフットボールを通じて、人種差別に関する啓蒙運動を続ける価値があることは間違いないはずなのだ。
社会問題とフットボーラー
まだまだ根深い問題をさまざまに抱えるイギリスだが、フットボーラーたちは本当に高い意識を持って、多くの社会問題に向き合っている。
これまで紹介した取り組み以外にも、トッテナムに所属するイングランド代表FWハリー・ケインは、自身がプロデビューを飾った4部リーグのレイトン・オリエントの来季の胸スポンサー代を全額負担し、ユニフォームの胸スポンサー枠に「THANK YOU Frontline Heroes(ありがとう、最前線で戦うヒーローたち)」という感謝のメッセージをプリントすると発表。これがメディアに多く取り上げられ、古巣を財政的に救うだけでなく、市民を勇気づけるメッセージまで広く届けることに成功している。
もちろん中には、バーンリーの一件のように、啓蒙活動が引き金になり、さらなる深い闇が露わになるような事件もあるが、その他の事例のように、社会的価値を創出していることも多々あるのだ。
現在はコロナ禍という特別な状況もあり、普段以上に、さまざまな問題が起こるだろう。しかし多くのプレミアリーグの選手たちは、影響力を持つ人間として規範的な行動をとっている。
英国におけるフットボーラーは、もはやフットボーラー以上の存在なのである。ケインは生活基盤のために働く人々や医療従事者を「ヒーロー」と呼んだが、間違いなくフットボーラーたちもまた「ヒーロー」なのである。
<了>
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