なぜ、サニブラウンは“どん底”から復活したのか? 専門家が語るフォームの変化
アメリカ・オレゴン州で行われた陸上の世界選手権男子100mで、サニブラウン・アブデルハキームが日本人として同大会初の決勝進出を果たした。決勝では、10秒06で7位入賞を果たしたサニブラウンだが、昨年行われた東京五輪では100mで出場権を逃し、200mでも本人が「ひどすぎた」と振り返った走りで予選敗退。不調にあえいでいた日本のエースはなぜ復調し、快挙を達成できたのか? ランニングフォーム分析の専門家、細野史晃氏に聞いた。
(解説=細野史晃、構成=大塚一樹[REAL SPORTS編集部]、写真=Getty Images)
史上稀に見るハイレベルな予選で勝ちきった
日本人初の世界陸上男子100mのファイナリストに、強豪ひしめく激戦の中で決勝でも7位入賞と、サニブラウン選手の快挙には目を見張るばかりですが、オリンピックシーズンの不調、先日明らかになったヘルニアによる低迷を知る陸上関係者にとって、サニブラウン選手の復活は、何重もの驚きとインパクトがあります。
まず、男子100mでの決勝進出という夢のような結果についてですが、さらに驚かされるのが、今大会のレベルの高さ。オリンピックの次の年ということもあって、ピーキングの山を2021年に持ってきていた有力選手は、軒並みタイムを落とすのでは? という予想もありましたが、ふたを開けてみれば予選から好記録のオンパレード。予選2組のフレッド・カーリー(アメリカ)が9秒79というあらゆる世界大会の予選でもお目にかかった記憶がないほどの好タイムをたたき出します。続く3組でもトレイボン・ブロメル(アメリカ)が9秒89でトップ通過するなど、7組のうち5組で9秒台が出るというすさまじい予選になりました。
この予選を9秒98のシーズンベストで勝ち抜き、準決勝でも各組3位以下、上位2人のタイムで決勝進出を果たしました。ハイレベルな予選を勝ち抜いたことでいえば、坂井隆一郎選手も同様。予選4組を10秒12の3位で突破したことは、今後につながる大きな結果だったと思います。
不調の原因は故障、復活の要因は?
日本中の期待を背負って挑んだオリンピックシーズン、2021年のサニブラウン選手の走りは、自他共に認める「どん底」に近いものでした。オリンピック代表選考会を兼ねた日本選手権は10秒29で6位に沈み、代表権を逃します。
出場権を得た東京五輪200mでも、21秒41と振るわず、予選2組最下位でいいところなく敗退。後に本人が明かしたところによると、2021シーズンはずっとヘルニアによる腰痛に悩まされ、歩くのもつらい状態だったといいます。
その状態から、今年6月の日本選手権では100mの予選で10秒11、準決勝で10秒04を出してオレゴン世界陸上の参加標準記録を突破し、決勝では10秒08のタイムで3年ぶりの優勝を果たすまでに持ってきた。休息と治療、十分なトレーニングを両立させて世界陸上に照準を合わせてきたことが2つ目の驚きです。
注目はアメリカ留学以降のフォームの変遷
では、なぜサニブラウン選手は不調から脱し、快挙を達成できたのでしょう? ランニングフォーム分析の専門家として見逃せないのはやはりサニブラウン選手のフォームの変化です。
2016年からアメリカのフロリダに練習拠点を移したサニブラウン選手は、2017年以降、体が徐々に大きくなり、筋力の最大出力、パワーを利用したフォームに移行していました。フォーム矯正をかなりしているという話で、世界トップレベルのアメリカに身を置いたことで足りないものが見えたということもあったのでしょう。
しかし今大会では、これまでのパワー路線から一転、まるで高校時代に戻ったかのようなスリムな体型で世界陸上に挑んでいたのです。一見してわかるウェイトの変化はもちろん、以前より筋肉もそぎ落とされ、フォームもエンジンの出力を上げてパワーを生かすフォームではなく、流れるような重心移動に主眼を置き、腕振りも前に腕を振り出すような以前の独特なものに回帰。2つの要素が上手に噛み合って生まれたピッチが記録につながりました。
高校時代に近いフォームに戻ったわけですが、身長も伸び、削ぎ落としたとはいえベースがアップしている筋力が加わり、単なる原点回帰ではなく、正統進化したフォームが以前とは違う次元の速さを生み出している。そんな印象を受けました。
6月の日本選手権を制した際は、まだ走りに精彩を欠き、どこか重そうな走りである印象が拭えませんでしたが、短期間で本人の中で大きな変化があったのか、それとも準備してきたものが実を結んだのか、それはわかりませんが、ヘルニアを抱えるサニブラウン選手にとっては、今回のような体重移動と腕振りを組み合わせたピッチでスピードを生むフォームの方が適していると思います。
「速ければ気にしない」とらわれないサニブラウンのさらなる成長に期待
実は、2017年の年末に縁あってサニブラウン本人と話をさせてもらう機会がありました。走りの感覚について聞いたところ、「フォームよりも速く走れればなんでもいい。走っていればそれなりにいい感覚がつかめてくる」という趣旨のコメントをしていました。大きな故障を経験し、彼の感覚が変わった可能性もありますが、こうあるべきというフォームの概念やトレーニング方法にこだわることなく、いい流れに身を委ねられるのも彼の強みかもしれません。
今回の決勝後、「準決勝で使い切った感じがあって、体の動きはよかったけど、最後のツメが甘かった」とコメントを残し、メダルへの意欲を見せたサニブラウン選手。
7年前の世界陸上北京大会、16歳172日で200mの準決勝に進み世界を驚かせたサニブラウン選手。ジュニア期の活躍、20代の低迷と故障を経て復活という道筋は、くしくもあのウサイン・ボルト選手とほぼ同じ軌跡。自分の感性を生かした走りで今回大きな成果を手にした彼は来年以降にまた、大きな成長をしてくれるのではないかと期待せずにはいられません。
<了>
なぜ日本人は100m後半で抜かれるのか? 身体の専門家が語る「間違いだらけの走り方」
400mリレーのバトンミスはなぜ起きた? 専門家が分析、史上最速の日本短距離陣を蝕んだ“惨敗”の深層
山縣亮太、人生で「想像し得る最大の底」から復活できた理由。リオ銀から苦難の連続も辿り着いた、9秒台と東京五輪
この記事をシェア
KEYWORD
#COLUMNRANKING
ランキング
まだデータがありません。
まだデータがありません。
LATEST
最新の記事
-
中国に1-8完敗の日本卓球、決勝で何が起きたのか? 混合団体W杯決勝の“分岐点”
2025.12.10Opinion -
サッカー選手が19〜21歳で身につけるべき能力とは? “人材の宝庫”英国で活躍する日本人アナリストの考察
2025.12.10Training -
なぜプレミアリーグは優秀な若手選手が育つ? エバートン分析官が語る、個別育成プラン「IDP」の本質
2025.12.10Training -
ラグビー界の名門消滅の瀬戸際に立つGR東葛。渦中の社会人1年目・内川朝陽は何を思う
2025.12.05Career -
SVリーグ女子の課題「集客」をどう突破する? エアリービーズが挑む“地域密着”のリアル
2025.12.05Business -
女子バレー強豪が東北に移転した理由。デンソーエアリービーズが福島にもたらす新しい風景
2025.12.03Business -
個人競技と団体競技の向き・不向き。ラグビー未経験から3年で代表入り、吉田菜美の成長曲線
2025.12.01Career -
監督が口を出さない“考えるチームづくり”。慶應義塾高校野球部が実践する「選手だけのミーティング」
2025.12.01Education -
『下を向くな、威厳を保て』黒田剛と昌子源が導いた悲願。町田ゼルビア初タイトルの舞台裏
2025.11.28Opinion -
柔道14年のキャリアを経てラグビーへ。競技横断アスリート・吉田菜美が拓いた新しい道
2025.11.28Career -
デュプランティス世界新の陰に「音」の仕掛け人? 東京2025世界陸上の成功を支えたDJ
2025.11.28Opinion -
高校野球の「勝ち」を「価値」に。慶應義塾が体現する、困難を乗り越えた先にある“成長至上主義”
2025.11.25Education
RECOMMENDED
おすすめの記事
-
サッカー選手が19〜21歳で身につけるべき能力とは? “人材の宝庫”英国で活躍する日本人アナリストの考察
2025.12.10Training -
なぜプレミアリーグは優秀な若手選手が育つ? エバートン分析官が語る、個別育成プラン「IDP」の本質
2025.12.10Training -
107年ぶり甲子園優勝を支えた「3本指」と「笑顔」。慶應義塾高校野球部、2つの成功の哲学
2025.11.17Training -
「やりたいサッカー」だけでは勝てない。ペップ、ビエルサ、コルベラン…欧州4カ国で学んだ白石尚久の指導哲学
2025.10.17Training -
何事も「やらせすぎ」は才能を潰す。ドイツ地域クラブが実践する“子供が主役”のサッカー育成
2025.10.16Training -
“伝える”から“引き出す”へ。女子バスケ界の牽引者・宮澤夕貴が実践する「コーチング型リーダーシップ」
2025.09.05Training -
若手台頭著しい埼玉西武ライオンズ。“考える選手”が飛躍する「獅考トレ×三軍実戦」の環境づくり
2025.08.22Training -
「誰もが同じ成長曲線を描けるわけじゃない」U-21欧州選手権が示す“仕上げの育成”期の真実とは?
2025.07.14Training -
なぜイングランドU-23は頂点に立てたのか? U-21欧州選手権に見る現代サッカーの「潮流」と「現在地」
2025.07.14Training -
コツは「缶を潰して、鉄板アチッ」稀代の陸上コーチ横田真人が伝える“速く走る方法”と“走る楽しさ”
2025.05.23Training -
「週4でお酒を飲んでます」ボディメイクのプロ・鳥巣愛佳が明かす“我慢しない”減量メソッド
2025.04.21Training -
減量中も1日2500キロカロリー!? ボディメイクトレーナー・鳥巣愛佳が実践する“食べて痩せる”ダイエット法
2025.04.18Training
