なぜ川崎フロンターレで“無名の新卒選手”が活躍するのか? 小林悠、大島僚太ら見出したスカウト向島建が大切にする、人を見る目

Career
2023.05.09

高校、大学では無名だった選手が、川崎フロンターレに加入後、めきめきと頭角を現す――。中村憲剛を筆頭に、小林悠、田坂祐介、大島僚太などこれまで何度も目にしてきた光景だ。また、守田英正、三笘薫、旗手怜央らは大卒で川崎に加入後、特筆すべき活躍を見せたのち欧州に巣立っていた。彼ら高卒、大卒の新卒選手の活躍の背景には、川崎フロンターレ強化部スカウト担当部長の向島建の存在がある。そこで本稿では、今年2月に刊行された書籍『愛されて、勝つ 川崎フロンターレ「365日まちクラブ」の作り方』の抜粋を通して、向島スカウトが大切にする“人を見る目”、そして新卒選手に重きを置く理由についてひも解く。

(文=原田大輔、写真=Getty Images)

※前編はこちら

実績や経歴にとらわれず、人を見る目

いつしか川崎フロンターレのなかで、「向島が連れてきた選手ならば間違いない」という信頼を勝ち取った。

当初は、自分が見極めた選手を、さらに監督と強化部に見定めてもらい、獲得の可否を決めていたが、近年では向島に一任してくれるほどになった。

「新卒に関しては、ほぼNOと言われることはなくなりました」

そう話すように、向島が主に見ているのは、高校生や大学生といった新卒の選手が対象になる。向島自身やクラブが、新卒選手に重きを置くようになったのも、チームの歴史が深く起因していた。

中村憲剛の存在である。

大学時代まではまったくと言っていいほど無名だった中村は、伝手をたどってチームの練習に参加すると、そこで見出されて加入することになった。中央大学を卒業して、新人としてチームに加わった2003年は、周囲はもちろん、ファン・サポーターも彼のキャラクターやプレーを知る人は少なく、決して期待値は高くなかった。

だが、当時は背番号14ではなく、背番号26を着けていた無名の新人は、J2リーグ開幕戦に途中出場すると、めきめきと頭角を現し、4―0で快勝した5月17日のJ2リーグ第13節、湘南ベルマーレ戦で2得点を挙げたことを機に、スタメン出場の機会を増やしていった。指揮官が関塚隆監督に代わった2004年からは、トップ下からボランチにコンバートされると、司令塔として存在感を発揮していく。2005年からスカウトとして活動を始めた向島にも、選手を見るうえで彼の存在は大きなヒントになっていた。

「フロンターレは、必ずしも世代別の日本代表選手や、いわゆる幼少期からエリートだった選手が大半を占めるチームではありませんでした。そのなかでも、憲剛は大学で徐々に頭角を現して、努力してプロの選手になる夢を勝ち取った。その彼がチームの中心として活躍していたことで、世代別代表の実績やエリートの経歴だけでなく、幅広く選手を見るようになりました」

その最たる例が、青山学院大学でプレーしていた現スカウトの田坂祐介だった。彼が大学4年のときは、チームも関東大学サッカー1部リーグに昇格したが、向島が見出したときは、まだ2部でプレーする選手だった。

小林悠がフロンターレのユニフォームを着る姿を想像した瞬間

小林悠も2部リーグの拓殖大学に在籍していたストライカーだった。彼が大学4年生のときに、拓殖大学は1部昇格を決めたが、小林自身は右膝前十字靱帯を断裂して、ずっと長期離脱していた。

「自分がいいと思った選手は(大学リーグの)1部、2部に関係なく、積極的に声をかけていきました。選手に話をするときも、チームに推薦するときも、中村憲剛という存在がいたことは大きな説得力になった。彼がフロンターレで活躍していることにより、選手にも『2部の選手でもプロになれるんだ』『(世代別の)代表に選ばれていなくてもプロになれるんだ』と希望を与え、クラブとしても『2部の選手でも他にはない特長があるなら』『(世代別の)代表に選ばれていなくても、将来性があるなら』と、とらえてくれるようになった。憲剛の台頭によって、フロンターレとしても、そういった可能性を秘めた大卒の選手たちを獲得し、しっかり育てていこうという方針を築くことができたんです」

関東大学サッカーの2部リーグでプレーしていた小林が、川崎フロンターレのユニフォームを着る姿を想像した瞬間を、向島は振り返る。

「僕が学生を見るときは、その選手の数年後の姿も思い描くんです。その選手がフロンターレに加入したら、こう成長曲線を描き、こんな選手になっていくだろうと。悠は大学4年生のときには長期離脱するケガを負っていましたが、完治したあとは、自分が思い描いた姿を見せてくれると思っていました。ところが、彼の場合は、自分が想像していた姿になるまで時間がかかりましたけどね」

小林のプレーに惚れ、獲得を打診したときに向島が思い描いた姿を、ピッチで表現してくれるようになったのは、2016年だったという。チームは風間八宏監督に率いられ、小林自身も試行錯誤するなかで、ちょうど開眼した時期だった。動き出しの速さを武器に、リーグ戦で15得点をマーク。翌年に明治安田生命J1リーグ得点王に輝く布石となるシーズンだった。

DFの背後を突き、次々にゴールを決める小林のプレーを見て、向島は思っていた。

「これが、自分が想像していた悠の姿だ」

大島僚太は高校ですっぱりとサッカーをやめるつもりだった

2011年に静岡学園高校から加入し、のちに川崎フロンターレの背番号10を背負うことになる選手も、数年後の姿をイメージできた一人だった。

「チームとしては、いずれ憲剛に代わる選手を探さなければいけないという思いがずっとありました」

中村のように、中盤で司令塔としてゲームをコントロールできる選手がいつかは必要になる。時代的には、青森山田高校の柴崎岳や、前橋育英高校の小島秀仁が世間で騒がれていた。すでに世代別の日本代表に選ばれ、「超高校級」と呼ばれていた彼らの獲得に乗り出しても競争は激しく、川崎フロンターレが獲得するのは難しいだろう。

そう思いながら、母校である静岡学園高校の試合を見に出かけた。目的は高校3年生ではなく、翌年に卒業する高校2年生の視察だった。

ところが、いざ試合を見ると、衝撃を受けた選手がいた。

「プレーがスムーズで、ストレスがまったくなかった。こんな選手がいたのを自分は見落としていたのか……」

大島僚太だった。

高校3年生になっていた彼のプレーを初めて見た衝撃は、今も忘れられないという。すぐに静岡学園高校の監督と話をすると、プロからのオファーはなく大学に進学するという。

これは向島自身も後に知ったことだが、大島はすっぱりとサッカーをやめるつもりだった。

「この選手がプロにならないということになれば、日本のサッカーの大きな損失になる」

すでに2011年のチーム編成は固まり、新人としては5人の加入が決まっていた。それでも、大島の可能性を諦めきれなかった向島は、チームの練習に参加させ、他の強化部の面々にもプレーを見てもらうと、「異例の6人目」として大島の加入は決まった。

その後、日本代表にも選ばれることになる大島の成長とプレーを見ると、向島の選手を見る視点と基準が、たしかなことは言うまでもない。

変わってきたものと、決して変わらないもの

向島が選手だった時代から、川崎フロンターレは〝攻撃的なサッカー〞を標榜していた。

それが言葉や方針として、具体的かつ明確になったのは、2012シーズン途中に風間監督が就任したことが大きかった。

「選手をスカウトするとき、特徴や技術と、ある程度、チームが求めるものがわかりやすくはなりました。一方で、それに合致する選手が決して多くいるわけではないので、逆に難しい側面もあります」

ボールを「止めて蹴る」に代表されるように、チームが求める技術の質は、スカウトである向島も、その正確性の意味を理解するまでに時間を要した。だが、すでに完成されている即戦力のブラジル人選手として、2012年に当時31歳で加入したDFジェシが、風間監督の指導を受けてうまくなったのを見て、「なるほど」と実感した。

「プロになってからも、選手はこんなにうまくなるのかということが、自分のなかでもさらにわかるようになった。それにより、選手を見る目にも当然、いい変化を及ぼしました」

足下でボールを正確に止めて、蹴ることのできる選手をより見るようになった。そのため、スペースを生かしてプレーするタイプの選手に魅力を感じても、「うちのスタイルには合わないかもしれない」と、声をかけるのを断念したこともあった。

スカウトは、ただ闇雲に優秀な選手を獲ってくればいいわけではない。そこには、チームが求めるスタイルに合うかどうかという絶対的な基準が存在する。

「サッカーは先発で11人しか試合に出ることのできない競技ですが、シーズンを通して戦っていくには、30人強の選手が必要になります。その30人全員が、すごい選手だったとしたならば、チーム内には必ず反発や不協和音が起こる。だから、必ず選手を補強する際には、即戦力や数年後を見越した将来性なども踏まえて編成していく必要があります。現時点ではトップ・オブ・トップの選手には見えなかったとしても、それぞれにストロングな部分はある。加えて、その選手の性格や人間性も含めて、チームの雰囲気に合う、合わないといったキャラクターも見るようにしています」

たとえば、高校や大学の所属チームが、ロングボールを多用する戦術を用いていれば、どうしてもパスワークを重視する川崎フロンターレのサッカーに順応するには時間がかかる。プロになったあとも向上できるとは言っても、最初からスタイルに近い選手を集めてくるほうが結果に直結しやすい。

2017年から鬼木達監督がチームを率いて、タイトルを獲得してからは、学生たちにも川崎フロンターレのスタイルは周知されるところとなった。自然と技術を強みとする選手が興味を持ち、集まってくる傾向も強まった。スカウトとしても、選手を「集めやすくなった」とうなずく。

タイトルを獲り続けていることによる弊害。続く選手の欧州移籍

一方で、タイトルを獲り続けていることによる弊害もある。

「こちらがオファーを出す前に、『フロンターレでは試合に出られそうにないので無理です』と断られるケースが何度もあります」

他のクラブのスカウトからも、「これからが大変だぞ」と声をかけられた。Jリーグの歴史をひもとけば、リーグ3連覇を達成したことのある唯一のクラブである鹿島アントラーズが、同様の課題を抱え、次代を担う選手たちを育てることに苦労した話は聞いていた。

チームには、タイトル獲得に貢献した、能力と実績を兼ね備えた絶対的な選手たちが存在し、若手が試合に出るのは容易ではない。ならばと、選手が他のクラブを選ぶのは賢い選択の一つでもある。そうなると、クラブは次世代を育てていくのが余計に難しくなる。

「実際、香川西高校から加入したノボリ(登里享平)や、静岡学園高校から加入した(大島)僚太は、若いときから実践の場である試合を経験できたことで、成長してきた部分は少なからずありましたからね」

6年で6つのタイトルを獲得してきた川崎フロンターレの次なる課題であることは明白だった。加えて日本サッカー界を取り巻く環境の変化も拍車をかけている。2018年に流通経済大学から加わった守田英正、U―18から筑波大学を経て2020年にトップチームに加入した三笘薫、同年に順天堂大学から加入した旗手怜央は、タイトル獲得に貢献すると、すぐにヨーロッパへ巣立っていった。アカデミーで育ち、トップチームの主軸へと台頭した田中碧も同様である。

「ここ数年で、大卒選手でも海外に行く状況が生まれています。当然、今後もJリーグで活躍すれば、海外のクラブから獲得のターゲットになるのは避けられないでしょう」

中村にはじまり、小林、谷口彰悟と続いてきた大卒新人選手がチームの屋台骨を〝長く〞支える選手になるといった考えにも修正を加えなければならない事態が発生している。

「そういう意味では、チームの編成においても、今後はさらに若い世代を増やしていかなければならない可能性もあります」

「うちに入ったらバナナの被り物も被ることになるけどいい?」

そのため、川崎フロンターレでは育成組織であるアカデミーの強化にも力を注いでいるが、そこにもひと工夫を加えている。

「たとえば、アカデミーの選手と高体連出身の選手をぶつけて、チーム内での競争をより激しくする取り組みをしています」

常にタイトルを目指し、若手が試合に出ることが容易なチームではなくなった今、若手選手たちには、チーム内にライバル視できる存在をあえて作り、互いに刺激し合い、切磋琢磨できる環境を提供する。強豪になったがゆえに、試行錯誤する次なる方向性だった。

また、クラブがアカデミーの強化を図っているように、アカデミーを巣立った選手たちのフォローも、向島をはじめとするスカウト陣の業務になっている。

「アカデミーで育った選手で将来が有望だと思う選手は、その後の4年間も面倒を見るというか、ケアをするようにしています」

三笘がその筆頭であるように、U―18から阪南大学を経て2018年にトップチームの選手として戻ってきた脇坂泰斗もその一人である。2022年に桐蔭横浜大学から加入した早坂勇希、同じく2023年に加入した山田新も同様のケースだ。

「彼らに関しては、大学時代の試合にも足を運び、その都度、食事しながら話をしたり、見に行けないときも映像を送ってもらって試合をチェックするようにしていました。そこでしっかりと関係性を築いておけば、他のクラブに行くことなく、フロンターレを選んでくれると思っています」

タイトルを獲得したことで、攻撃的なサッカーだけでなく、川崎フロンターレでは高い技術を求められるという認識も学生たちにも周知されるようになった。そして、向島は「うちに入ったらバナナの被り物も被ることになるけどいい?」ということも、必ずアナウンスしている。今では多くの選手が、オファーを出した時点でそれを理解しているという。

それもまた、クラブが積み上げてきた功績の一つだろう。

「オファーをする際には、クラブの理念や、川崎市がどういった場所なのかといった資料も渡して説明をしています。そこは特に重要視しているので、加入を決めてくれた選手との考えの乖離はないですね」

選手たちに〝川崎フロンターレというクラブ〞を説明する際には、現役を引退してスーツに身を包み満員電車に乗り、各部署の業務に携わった経験が大きく生きていると、向島は話す。

同時に、向島には、獲得した選手たちに必ず伝えていた言葉がある。

「オファーを出したからといって、ポジションは確約されていない。つかむのは、自分の努力次第だということを忘れないでほしい。それでもフロンターレでプレーしたいと思ってくれるなら、ぜひ来てほしい」

大事なのは、選手自身の意思である。18年間、不変の哲学を貫いて、向島はスカウトという職業のイメージを変えた。それは川崎フロンターレのユニフォームを着た多くの新卒選手たちの躍動が証明している。

(本記事は小学館クリエイティブ刊の書籍『愛されて、勝つ 川崎フロンターレ「365日まちクラブ」の作り方』より一部転載)

<了>

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[PROFILE]
向島建(むこうじま・たつる)
1966 年1月9日生まれ。静岡県出身。川崎フロンターレ強化部スカウト担当部長。スピードあふれるドリブルが武器のFWとして、1997 年に清水エスパルスから当時JFLの川崎フロンターレに加入。2001 年に現役を引退後もスタッフとしてクラブに残り、さまざまな部署を経て2005 年より強化部にてスカウトを担当する。

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