なぜスポーツブランドが水戸の「育成」に投資するのか? 青木ハヤト代表の決断を生んだ原風景

Business
2026.09.18

2026年7月1日、水戸ホーリーホックの育成拠点「SISファシリティ」内のサッカーグラウンドが「soccerjunky field ~葵~」という愛称になった。命名権を取得したのは、スポーツウェアブランド『soccerjunky』を展開し、2021年から水戸のユニフォームサプライヤーを務める株式会社1009。「ただ名前をつけて露出を狙うのは僕らは嫌だ」。交渉の場でそう伝えたという代表・青木ハヤト社長の真意を聞いた。

(取材・文=大塚一樹、撮影=大木雄介)

「命名権」の意味と意義

ネーミングライツ、命名権はすっかり日本でお馴染みになった。スタジアムやアリーナに企業やサービスの名前を冠し、その対価としてフィーが支払われる。

今年6月に発表された水戸ホーリーホックと株式会社1009(センキュー)の取り組みは少し事情が違う。

『claudio pandiani(クラウディオ・パンディアーニ)』というレーベルで『soccerjunky(サッカージャンキー)』などのスポーツウェアを展開している株式会社1009が取得したのは、水戸ホーリーホックの下部組織、アカデミーの育成施設の命名権。

トップチームではなく、ユースやジュニアユース、育成年代が使う施設の命名権を取得するのは、比較的珍しい。

「それがやれるのであれば、ぜひ命名権を買わせてください」

現在、水戸のユニフォームサプライヤーを務める縁で、この話が浮上したとき、青木ハヤト代表は金額よりも先にビジョンの話をしたという。

「ユニフォームサプライヤーとして、選手にユニフォームや練習着を提供してきましたが、水戸にはもともと“育成”のイメージがありました。僕たちとしてもトップチームのパフォーマンスを支えるだけでなく、クラブの未来を担う子どもたちに能動的な働きかけができるようなお手伝いができるならぜひという形で、まずお互いのビジョンを確認したんです」

「育成の水戸」に思いを託した理由

水戸と言えば古くは田中マルクス闘莉王が躍進し、近年では日本代表として先のFIFAワールドカップにも出場した前田大然、小川航基らが飛躍のきっかけをつかんだクラブとして知られる。2021年には5人の選手がJ1クラブへ移籍するなど「ステップアップクラブ」としての印象が強い人も多いだろう。

主力が抜けても次の選手が育ってくるのが水戸の強みだったが、現在クラブは新たなフェーズを迎えている。2025年11月29日、リーグ最終節でJ2優勝を決め、クラブ初のJ1昇格を果たしたのだ。

「育成クラブとして知られる一方で、育てても出ていくというジレンマがあるクラブのイメージがありました。それでも若手を育て続けて、J1昇格までやってきた。その段階で改めて未来を担う育成年代で何かできないかという思いがあったんです」

スタジアムの命名権に比べれば露出は少ない。テレビ中継もないし、企業名が連呼されることもない。

ユニフォームのサプライヤーであるスポーツウェアブランドがあえて育成に投資する理由には、代表である青木氏のユニークなキャリアが大いに関係していた。

最初の先生は“チーマー”? 異色のサッカーキャリア

かつては青木代表もプロサッカー選手を夢見るサッカー小僧の一人だった。サッカーを本格的に始めたのは高校1年から。中学まではテニスをやっていた。

運動はできる方だった。テニスでもそこそこ活躍できたし、何より足が速かった。技術はなかったが自信はあった。自分に必要なのはより多くボールに触ることだと思っていた。

「でも部活では、1年生は球拾いと走り込みしかやらせてもらえなかったんですよね。それが当たり前。当時連載が始まった『SLAM DUNK』の主人公・桜木花道を自分と重ねて、『ボールさえ蹴らせてくれれば』と思っていました(笑)。部活が終わったあと夜の公園で一人、壁にボールを当ててる毎日でした」

自称“天才・サッカーマン”の青木少年は、実際に1年生の終わりには試合に出してもらえるくらいに成長していた。公園での“コソ練”が効いたのか? 本人に聞くと、意外な答えが返ってきた。

「やっぱり一人じゃやれることが限られますよね。実は、あるときから、公園で一緒にプレーしてくれる“先生”ができたんです」

その先生というのがとにかく変わっている。

「華やかな実績があるというだけで、練習に参加できていた1年生もいて、それがまた悔しくて。その日はいつもの公園で泣きながら一人でボールを蹴っていました。すると、なにやら騒がしい声がする。夜の公園ですから、身構えますよね。やって来たのは腰ばきにくわえタバコの“チーマー”の集団だったんです」

「これはやられる」と覚悟を決めた青木少年だったが、夜に一人でボールを蹴る高校生の姿が珍しかったのか、チーマーたちは意外に友好的だった。

「お前下手だな、教えてやるよ」

一団の中には中学時代に東京都選抜に選出されたという人もいた。

「見た目は怖かったんですけど、本当にうまかったんですよ。で、何人かでボールを蹴りながら、サッカーをやるようになって」

そこから工事現場の三角コーンをゴールにして、夜中のミニゲームが始まった。最初はボールに触るのも難しかったが、2〜3カ月もすると、一人で全員を抜けるようになった。

「彼らは最初にサッカーを教わった恩人だと思っているんですけど、3年生の試合に出るようになって、部活も忙しくなってしまった。それで公園に行くこともなくなって、御礼も言わないままになってしまったんですよね」

携帯電話もない時代。当時、ポケベルも持っていなかった青木少年は、彼らの名前も連絡先も、いまだに知らない。

ラモス瑠偉と出会った“ストリートサッカーの聖地”

「高校ではインターハイに出場して、プロサッカー選手になる夢を見続けて大学に進んだんです。でも、その大学のサッカー部は思っていたのと違った。途中で辞めてしまって、途方に暮れていたら、友達が『面白いところがあるから行こう』と誘ってくれたんです」

その場所が、当時、“ストリートサッカーの聖地”として局地的に話題になっていた青山墓地の向かいの広場だった。近くに大使館が多く、国籍も職業もバラバラの人が集まりフリーにサッカーに興じる。毎週土曜になると、2点先取の勝ち抜き戦が繰り広げられ、遠くは静岡から遠征してくるチームもあったのだという。

「僕がいたチームにはあのラモス瑠偉さんもいたんです。ブラジル人、アルゼンチン人、イギリス人、フランス人、アメリカ人、中国人、いろんな国の人たちがいて、あの一角だけ、海外のストリートサッカーの風景になっていました」

当時もJクラブに在籍していたのに、本気で遊んで勝ち負けにムキになるラモスの姿と、そこでTシャツやスウェット姿でプレーする“普段着”のサッカージャンキーたちのスタイルは、現在のブランドの原点とも言える。

ストリートサッカーに興じながら、Jリーグのセレクションを受けては落ちという生活をしていた彼は、ラモスの紹介で南米ペルーに渡ることになる。

「当時はお金を払って海外に行く選手も多かったんですけど、電話一本と渡航費だけでペルーに行って、テストされるんだろうと思ったら一度プレーを見てそのまま契約してもらって。それがペルー1部リーグの名門、アリアンサ・リマでした。バイエルンなどでプレーしたクラウディオ・ピサーロもかつて在籍したクラブです」

夢のプロサッカー選手にはなれたものの、「お前のミスだ!」と仲間同士でぶつかり合う厳しい競争意識、南米特有の荒々しいプレーやそれを許容する審判のジャッジ基準……あらゆる面で“違い”を突きつけられ1年で帰国することになる。

「夢を諦めたというか、夢を捨てた人間だって、僕はよく言っているんですけど。やっぱり覚悟がなかったですね」

走りながら決まった、Jクラブのユニフォーム

帰国後、紆余曲折を経て、スポーツアパレルの世界に入り、2007年に株式会社1009を設立する。

その会社が初めてJクラブのユニフォームを手がけたのは、2015年の横浜FCだった。

大手メーカーが請け負うのが当たり前のユニフォームサプライヤー。青木代表がこの仕事をゲットできたのも、やはりサッカーが関わっていた。

「知人に誘われて出たフットサル大会の試合中に横浜FCのフロントの方から声をかけられたんです。しかも、ボールが動いている最中に(笑)。すれ違いざまに『うちのユニフォームやりませんか』と声をかけられ、僕も走りながら『いいですよ』と答えた」

プライベートな席での非公式な会話だったが、3日後に相手がオフィスにやって来た。9月に依頼を受けて1月納品、縫製工場につないでくれる商社に39社断られ、40社目でようやく引き受け手が見つかった話など、ここもエピソードの宝庫なのだが、今回の記事のテーマに沿って事実の紹介だけに留める。

「そのとき、うちはユニフォームをつくっていなかったんですよ。というのも、ラモスさんもそうですけど、僕がストリートでプレーしてきて憧れた人たちは、みんなトレーナーにスウェットパンツ、足元は普通のランニングシューズという格好で、それがまたかっこよかった。ユニフォームに着替えてスイッチを入れるのではなく、街を歩いてきたその格好のまま試合が始まるんです」

“ストリート”を取り戻したい

命名権取得に際して、育成年代にこだわった理由は、青木代表のサッカーの原風景と、居場所にある。

「今は公園でもボールを蹴っちゃいけないし、空き地もないでしょう? 自然発生的に試合が始まることもないだろうし、だったらそういう場をつくらないといけない」

コーチがいて、カリキュラムがあって、送り迎えの時間まで決まっている。技術を教えてくれるサッカースクールがある環境はある意味では恵まれているが、ストリートから生まれる才能や磨かれる原石もある。

地域の子どもたちや市民も利用できるスポーツ拠点として建設された『SISファシリティ』。そしてその中にあるグラウンド。クラブがこれをどう活用していくかは明確に定まっていなかった。

「ならば、育成・地域スポーツ・次世代育成に継続的に関わるために、この施設の命名権を取得しようと。そこから原石をどんどん発掘して育てていこう、という思いが僕らとクラブの間で合致したんです」

「葵の紋」という縁

もう一つ、青木代表にとっても意外な因縁がある。

「2025年に父が他界し、墓を継ぐことになったんです。そのとき家系の話を初めて聞いて、驚いたのですが、徳川家康の十一男の頼房の血筋が、青木家につながっているっていうんです。頼房は、水戸藩初代藩主。その三男があの水戸光圀だって言うんです」

両親はこのことを知っていた。息子は興味がないと思って話さなかったらしい。

それを知った年、水戸はクラブ初のJ1昇格を決めた。

「今回、『soccerjunky field ~葵~』と名付けさせてもらったのも、水戸の歴史と伝統への敬意を表す意味からです。この場所が多くの選手の居場所になり、ここから羽ばたいてほしいと思っています」

関わったからには単なる“命名権購入”に終わらせるつもりはない。管理されないストリートサッカーの再現は難しくても、サッカーへの情熱と、自由が表現できる場所にしたいという思いは強い。

「何ができるかわかりませんが、ポジション別、GKに特化したイベントとか、地域のお祭りに近いような大会とかを企画したいですよね。アカデミーの強化、育成はもちろんですが、普段の生活の中にあるサッカーを地域の人にも提供できたら最高です。僕はJリーガーになれなかった人間ですけど、挫折した先でいろんな人から少しの光をいただいてペルーでプロとしてプレーできた。そういう経験があったんで。おこがましいんですけど、僕たちが何かのきっかけをつくれたらいいなと思っているんです」

<了>

[PROFILE]
青木ハヤト(あおき・はやと)
1978年4月25日生まれ、神奈川県出身。株式会社1009代表取締役。ファッションレーベル「claudio Pandiani(クラウディオ・パンディアーニ)」を軸に、スポーツレーベル「soccerJunky(サッカージャンキー)」などを展開。2007年に株式会社1009を設立。自身もサッカー選手としてペルーのプロリーグでプレーした経験を持つ。2015年からJクラブのユニフォームサプライヤーを手がけ、2021年からは水戸ホーリーホックをサポート。2026年7月には同クラブの育成拠点「SISファシリティ」のグラウンドのネーミングライツを取得し、「soccerjunky field ~葵~」と命名した。

2026年9月に自身のオフィシャルnoteを開設。バイタリティに溢れる異色のキャリアを自ら語っている。

https://note.com/aokihayato

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