「やらされて、その先に何がある?」荒木絵里香が伝えたい、育成年代における理想の“体験”
東京五輪・バレーボール女子日本代表で主将の大役を務めた後、9月に現役引退を発表した荒木絵里香。多くの選手が若くしてコートを去るバレー界において、出産からの復帰を経て、18年間にわたる選手生活を全うした彼女の、その“力の源”はどこにあるのか? 荒木とともにその半生を幼少期から振り返ると、すべてのスポーツに関わる関係者・保護者に知ってほしい“体験”が詰まっていた。
(インタビュー・構成=米虫紀子、写真=Getty Images)
怒られて育つと「自分で考えられない」選手に
──荒木さんは36歳まで現役でプレーされましたが、一方で、まだまだプレーできる、これからもっと伸びると思える若い選手が引退してしまうケースも多くあるように見えます。それぞれに事情があってのことだとは思いますが、荒木さんはどんなふうに感じられていますか?
荒木:本当に、すごく能力が高いのに、「もうやめちゃうの?」という選手を、今までに何人も、何十人も、自分が長くやる中で見てきました。「ここから面白くなっていくのにもったいない!」とすごく思います。
じゃあなんでそうなるのかな?と考えたら、女子バレーボールって、競技を始める年齢が早い選手が多くて、小学校の低学年ぐらいからずっとひたすら、怒られたり、こうしなさいああしなさいと言われ続けて育ってくる。そうすると、自分で考えることがどちらかというと苦手になり、トップのレベルになると苦しくなってきて、それが早くやめてしまう原因の一つなのかなというのはすごく感じます。学生の時は、こうしなさいと答えをすぐに出されて、導いてもらうことが多いと思うんですけど、Vリーグのレベルになると、本当に自分で考えないと、乗り越えられなくなってくるのかなとは思います。
──荒木さんがバレーを始めた小学生時代や中学生時代はどんな環境だったのですか?
荒木:私はバレーボールを始めたのが小学5年生だったので、それほど早くなかったんです。それまでは水泳や陸上をやっていました。
──走るのは速かったんですか?
荒木:そんなに速くはないんですけど、小学校の中では一番速かったから、市の陸上クラブに入りました。親からすると「自分より速い人がいっぱいいることを思い知れ」みたいな感じだったと思うんですけど(笑)。本当に自分より速い人がたくさんいて。そういう環境をずっと与えてもらっていたのは大きかったですね。
──いろいろなスポーツを経験させるというのはご両親の方針だったのですか?
荒木:はい。「走る・泳ぐは基本だ」みたいな感じでずっと言われていました(笑)。バレーボールは、小4の終わりぐらいにもう身長が170cmぐらいになっていたので、母に「やってみない?」と言われたのと、クラブに誘ってもらったこともあって、5年生から始めました。
でも最初に入ったクラブがめちゃくちゃ厳しくて、今の時代はあり得ないのですが、当時のスポーツは、怒鳴られたり、平手打ちみたいなものもあって……。両親がその指導方針に激怒して、すぐにやめさせられました。自分はバレーにすごくはまったので、「やめたくない」って騒いだんですけど、両親は「こんなのスポーツじゃない!」って。でも20年以上前は強豪チームでは、そういう厳しい指導は「当たり前」みたいな時代だったと思います。でも母は体育教師で、父はラグビーの選手だったので、両親にスポーツに対する理解や知識があったから、正しい方向に導いてもらえました。
──そんなに厳しいクラブだったのに、荒木さんがバレーにはまったのはどうしてですか?
荒木:難しくてできないから、悔しくて。陸上だったら、走るのはすぐに走れるじゃないですか。でもバレーは難しいから。だから、もう本当にその時からずっと(引退するまで)同じなんですよ。「うまくなりたい!」という一心でずっとやっていたのは。
その最初のクラブをやめた後、母の友達が私の小学校にクラブチームをつくってくれて、そこでバレーを続けることができました。そこからの小学校、中学校でのバレーはもう本当にエンジョイだけのバレーでしたね。5時になったから終わり、とか、塾があるので帰ります、ぐらいの普通の中学校の部活動(笑)。身長が大きかったから、岡山県選抜やユースの代表に呼んでもらいましたけど、自分の学校では、バレー部なのにドッジボールをしているような部活でした(笑)。
父に言われた言葉「スポーツは楽しむものだから」
──小学6年生の時にすでに身長が180cm近くあったそうですが、中学に進学する時には強豪校からの誘いもあったのでは?
荒木:誘いがあって、自分はうまくなりたいし、高いレベルでやりたいから行きたいって、何度も何度も言ったんですけど、親に絶対にダメだって言われました。「今はまだそんな時期じゃない」って。いろいろなバレー関係者の人たちにも、高いレベルの学校に行くべきだということを何回も言われたんですけど、親は絶対に「ノー」でした。
──中学生の段階では、ハードな環境でやるのはまだ早いと。
荒木:そうですね。高校から(強豪校で)やっても遅くないし、ケガをしたら元も子もないからって。「スポーツは楽しむものだから」ということをすごく父には言われました。「子どもの頃から勝利至上主義でやるのはよくない」という話もよくされましたね。今考えると、両親の子育てに対する一つのポリシーみたいなものだったのだと思います。小学生の「バレーボールを高いレベルでやりたい」という純粋で、強いお願いも聞いてあげたい、という気持ちもあったのだと思います。でもそこはきちんと私のバレーボール以外のあらゆる選択肢を考えて、心を鬼にしてそのように導いてくれたんだと思います。バレーボールしか頭になかった私に「バレーボールがすべてではない」と。だからこそ私は、バレーボールを長く続けることができてもいますし、その体験があったからこそ、また別の分野への興味も持てているのかなと思います。
私の中学時代はそういう環境だったので、自分としてはすごく飢えていたんです。「早く上の高いレベルでやりたい!」って。だから、中学を卒業後、成徳学園高(現在の下北沢成徳高)に行けた時はすごくうれしかった。小川良樹先生の、成徳のバレーボールの方針が絶対にいいと、両親が勧めてくれました。中学生の時の自分には、そこまで判断する力はなかったし、わからなかったから、親が導いてくれたというのはすごく大きかったです。
──成徳学園高は強豪校。レベルが高い環境の中に高校から入って、面食らったりしませんでしたか?
荒木:最初は大変でした(苦笑)。同級生の(大山)加奈たちは成徳学園中の時に全国優勝していたような代で、そこに、岡山県大会に出られただけで大喜びしているような自分が行ったので、最初はあまりにも異次元の世界で。でも本当に先輩やみんなに面倒を見てもらえて、頑張らせてもらえるような環境でした。小川先生がそういうふうに持っていってくれたんだなと感じますし、同級生も、本当にすごくいい仲間に恵まれて、だからやれたんだと思います。
最初は本当に何もわからなくて、先生の話を理解できないことも多かったんですけど、先生はいつも「わかりますか?」と私に聞いてくれるんですね。「わかりません」と言ったら、もう一度わかりやすく教えてくれる、というのを繰り返していました。自分がついていけていない時には、3年生が教えてくれたり。本当に恵まれた環境でした。
──その高校時代は日本一を経験されました。選手の中には、高校年代で日本一になることだけを考えて必死に努力して、その目標を達成したことで大きな達成感を得る一方、その後、モチベーションに苦しむ選手もいると思います。
荒木:そういう選手は多いですね。自分は逆に、春高バレーで優勝できた時に、「こんな最高な思いができるなら、もっともっと優勝したい。もっと高いレベルでやりたい。またこの瞬間を味わいたい!」という気持ちになりました。春高優勝という目標を一つ達成したことによってそう思えて、その後、段階を踏みながら、さらに、さらに、という思いでここまで続けてこられたと思います。
──荒木さんがバレーボールを仕事にしよう、トップレベルで続けようと考えるようになったのはいつからですか?
荒木:その、2年生の春高で優勝した時ですね。それまでは、バレー自体は好きだったけど、なんとなくどこかで「自分なんか」みたいに思っているところがありました。それまでもユースの日本代表などに選んでもらっていたんですけど、大きいから選んでもらえているだけで、試合にも出られなかったし、同級生が活躍しているのを見て、「いいなー。自分は全然だなー」みたいな感じで思っていました。その時点ではスキル的に全然、同級生の仲間には追いついていなかったし。大学に行きたいなとも考えていました。でも、その春高優勝が大きなターニングポイントになりました。
「やらされて、その先に何があるのか」
──海外リーグに行くことも早くから考えていたと話していましたが、それはどういうきっかけだったんですか?
荒木:その春高で優勝して、Vリーグに行く、バレーボール選手としてやっていくと決めた時点で、3つ決めたことがあったんです。
「全日本選手になること」
「オリンピックに出ること」
「海外でプレーすること」
この3つは絶対にクリアしようと思って、高校から東レアローズに入る前に、「私は絶対に海外に行きたいんです。いずれ行かせてください」ということはお話ししていました。もう18歳の時には自分の中で決めていましたね。
──入団前にそんな話をしていたんですか。すごいですね。
荒木:いやいやいや、どのレベルで物申してんだということを、私言ってたなーと思うんですけど(笑)。すごく、野望だけは大きかった(笑)。
──でも3つ全部実現していますから。
荒木:意地ですね。それを認めてもらって、(東レに)入れてもらったので。
──当時は海外リーグでプレーしている日本人選手がまだ多くはない中、荒木さんは海外リーグでプレーするという発想がどこから出てきたのでしょうか?
荒木:どこからなんですかね……。でももうずっと子どもの頃から、海外への憧れというか、出ていきたいなという思いはすごくあったんです。たぶん、父が社会人でラグビーをしていて、父のチームの外国人選手が家に来たりだとか、そういう接点があったので、そこは影響しているのかなと思いますし、なんかこう、違う世界をいろいろ見てみたいなという思いはずっとありました。
──現役生活を通してチャレンジャーというか、やってみたいと思ったことにどんどん挑戦していったんですね。
荒木:出たとこ勝負感ありますけど(笑)。
──荒木さんが中学に進む時に、ご両親が強豪校には行かせなかったというお話がありましたが、荒木さんのお子さんがもし同じような状況になって「強豪中学に行きたい」と言われたら、親の立場で、荒木さんならどんな判断をされますか?
荒木:自分も今、親になってみて改めて、自分の両親の判断にすごく感謝しています。冷静に判断することって、実際に目の前に自分の子どもがいたら相当考えてしまうとは、思います。たぶん、競技にもよるし、その子の成長度合いとか、いろんな要素があって一概には言えないと思うんですけど、本人がそのスポーツに対してちゃんと捉えられているのかな?というところが大事なのかなと。
やらされて、その先に何があるのかというところも見えずに、ただ優勝したいとか、あの先生が怖いからやる、怒られるからやる、というモチベーションになっているなら、違うと思う。そういうところもちゃんと感じて、ズレていたら、違うんだよ、というふうに導いてあげることが大事なことなのかなというふうには思います。
自分も子どもの頃はそんなに考えていなかったなと思うので、あまり偉そうなことは言えないんですけど、私は本当に、正しいというかいい方向に導いてくれる両親や、小学校にチームをつくってくれた先生だったり、周りに恵まれていたからここまでやれたなという思いが本当に大きいです。本人が本来持てるはずのさまざまな選択肢を捨てていないか、それを大人が考えて、手助けしていくことが大切だと思います。実際に私の両親が私にしてくれたように。
<了>
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PROFILE
荒木絵里香(あらき・えりか)
1984年8月3日生まれ、岡山県出身。元バレーボール選手。ポジションはミドルブロッカー。2003年に東レアローズに入団。2008年にイタリアのベルガモへ1シーズンの期限付き移籍を経験。2013年10月、出産予定を機に東レを退社。2014年1月に女児を出産後、同6月、埼玉上尾メディックスにて現役復帰し、そのシーズンでベスト6、ブロック賞を獲得。2016年よりトヨタ車体クインシーズでプレーし、2019-20Vリーグでは通算ブロック決定本数の日本記録を更新した。日本代表としても長年活躍し、オリンピック4大会(2008、2012、2016、2021)に出場。2012年のロンドン五輪では主将を務め、28年ぶりとなる銅メダル獲得に貢献。2021年9月に引退を発表。Vリーグ通算で、最高殊勲選手2回、ベストブロック賞8回、ベスト6賞10回、Vリーグ栄誉賞2回、出場セット数歴代最多、他を記録。引退後は、トヨタ車体の「チームコーディネーター」としてチーム強化に関わりながら、大学院への進学準備を行う日々を送る。
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