スーパーフォーミュラに史上最年少・初の日本人女性レーサーが誕生。野田Jujuが初レースで残したインパクト

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2024.04.01

今季、TGM Grand Prixからスーパーフォーミュラに参戦した「Juju」こと18歳の野田樹潤は、F1に次ぐ国内最高峰の舞台で、史上最年少、初の日本人女性レーサーという2つの記録を刻んだ。3月10日の初戦では21台中17位でフィニッシュ。思うような走りができなかった予選までの試練を乗り越え、決勝のレース後には充実した表情で「悔いのないレースができた」と語った。元F1レーサーで、チームのアドバイザーでもある父・英樹さんは、大舞台での初挑戦をどのように見守ってきたのか。決勝の舞台裏にも迫った。

(インタビュー・構成=松原渓[REAL SPORTS編集部]、写真提供=juju10.com)

スーパーフォーミュラ初戦「悔いのない最高のデビュー」に

――3月10日のスーパーフォーミュラ初戦では、出場21台のうち17位で完走。2台がリタイアするなか、周囲と遜色ないタイムで、試合後のインタビューでは樹潤さんも「悔いのない、最高のデビュー戦だった」と話していましたが、英樹さんにとってはどのようなレースでしたか?

野田:想定外のこともあり、いろいろなことが起きた週末でした。もともと練習もほぼできない、いろんなことが初めてづくしの中で苦戦は覚悟していましたし、今年に関しては、スーパーフォーミュラの舞台で結果を残すというよりは経験を積もうということで、完全に割り切って今シーズンに挑んでいます。とはいえ、10日の初戦の前に、1回しかない大事なテストが雨や雪に見舞われて思ったような走行ができない。その中でいきなり本番の週末になり、初日のフリー走行、予選がチームとのコミュニケーションもうまくいかず、本来の想定していた走りすらもかなわないという、最悪の状態で決勝を迎えていたわけです。

――最初から大きな逆境に見舞われていたのですね。

野田:その中でも諦めず、決勝に向けて我々としては土曜日の予選が終了してからも精一杯のことをして日曜日の本番を迎えました。それで、当日の朝一番のフリー走行ではちょっといい雰囲気の流れができたんです。前日の予選後にいろいろトライしたことが結果につながるような兆しがそのフリー走行で見えて、本来の樹潤の姿が戻りつつあったとは思います。

――樹潤さんは、どのような思いでスタートの瞬間を迎えていたのでしょうか?

野田:いろいろな思いや葛藤があったと思います。大舞台で、たくさんのメディアやファンの方たちが会場に来てくださっていましたし、SNS等でもたくさんの励ましの言葉や、その逆の雑音的な言葉もありました。そういう意味では、プレッシャーもあったと思います。

 練習で本来の力を精一杯発揮しての本番なら、すべてを受け入れて挑めたと思うのですが、それすらもかなわない状況で、本人的にはその気持ちをぶつける場所もなく、もやもやした思いがある中でのスタートだったと思います。ただ、本人なりに「できることを精一杯やる」と頭の中では割り切っていたんじゃないでしょうか。

4台抜きで攻め抜いた1コーナー。「練習でできなかったことを本番で」

――その中で、21台中19番手からのスタートで、一気に4台抜きをしたことは話題になりました。英樹さんは無線で樹潤さんと連携を取りながら、どのようにサポートされていたのですか?

野田:スーパーフォーミュラの決勝で、満タンにガソリンを入れた状態で重い状態になっているマシンを冷たいタイヤで走らせるという、練習で一度もできていないことを本番でやったので、車のバランスが大きく変わっていました。重いマシンを満タンにして、当日のような非常に寒い気温の中で走ると、スケートのように滑ってしまいますから。その中でスタートが非常にうまくいって、1コーナー目で飛び込んでいった時には驚きましたし、本人も経験したことない突っ込みだったと思うんです。

 おそらく本人も引くに引けず、「行くしかない」と覚悟を決めていたと思うのですが、そこで止まりきれずにコースを飛び出してしまいました。でも、その後すぐに「全然、あれでよかったと思うよ」と無線で伝えました。躊躇するよりも、勝負をかけて何台か抜いた結果、経験したことがないタイヤで滑ってしまっただけで、「気にすることはない、ナイストライだったからその調子でもっと行け!」と背中を押しました。

 その1コーナーでちょっとタイヤを痛めてしまったので、「タイヤ交換まで我慢かな」と思っていたのですが、再スタート後も、前を行く3台のペースと比べても遜色ない走りを見せてくれて。数周したら彼らよりも早いラップタイムを刻み始めたので、そこでは本来の彼女の力を発揮できたと思います。しっかりと練習ができない中で、前日の予選もうまくいかなかった。その中で決勝であの走りができたことは正直、想定外というか。いい意味で期待を裏切られましたね。もっと苦戦すると思っていましたから。

――昨年まではF3/F2000(最高時速260km)の舞台で戦っていましたが、今年からは時速300kmで、昨年までのマシンに比べてパワーやダウンフォース(走行中のマシンに働く空力的な地面に押し付ける力)などが大幅に上がった中、走行経験が少ないサーキットで攻め抜いたんですね。

野田:そうですね。もともと、チームとして立てた開幕戦の目標は、なるべくリスクを背負わずに「長距離のレースがどんなものか」を味わい、経験しながら、しっかりと最後まで走り切ることでした。ただ、5、6周した頃には最初に立てたその目標を覆して、本人と相談しながら「いかにライバルたちとポジションを争って彼らの前に出るか」という作戦に変更したんです。結果的に、ラップタイムは過去のベストタイムと比べても落ち幅は少なかったし、状況を考えれば、それ以上は望めない走りだったと思います。

――メンタルの強さは樹潤さんの強みの一つだと思いますが、スーパーフォーミュラの大舞台でも果敢に挑戦していく舞台度胸は本当にすごいですね。

野田:たしかに彼女は強靭なメンタルを持っていると思いますし、その面では昨年までのヨーロッパでの経験が生きていると思います。ヨーロッパは日本とは文化や考え方が違うので、ライバルの中には、勝つために手段を選ばないレーサーもいて、精神的につらい思いも散々してきました。今回は準備がうまくいかないつらさや、歯車が噛み合わずにうまくいかない場面もありましたけど、チームという強い味方や応援してくれるたくさんの人がいる状況で、「これを乗り越えればその先につながる」と、信じるものがありました。だから、彼女自身も「最後まで諦めずに、できることを精一杯やり切る」という気持ちで走り切れたんだと思います。

大舞台で刻んだ2つの歴史と課題

――レース後は、樹潤さんにどのような声をかけられたのですか?

野田:今、日本で期待されている中でもまだ年齢的には若いけれど、何年もやっているベテランのドライバーたちと互角に戦えていたことに関して、「しっかり戦えていたし、素晴らしいレース内容だったね」と伝えました。私はレース中はコースサイドの観客席の方から見て、無線でいろいろなことを伝えていたのですが、お客さんは樹潤が一周走るたびに声援を送ってくれたり、ゴールした後、チェッカーを受けた時には本当に大きな拍手を送ってくれたりしたので、それも無線で伝えていました。

――樹潤さんの応援旗を持ったファンの方の姿も数多く見られました。昨年まではヨーロッパの舞台で戦ってこられましたが、日本で大勢のファンに見守られて走る喜びは格別だったのではないでしょうか。

野田:そうですね。ヨーロッパでも旗を作って応援に来てくれる日本人の方や現地の方がいたのですが、今回、鈴鹿に来てくれたお客さんの数は、やっぱりこれまでと比べたら圧倒的に多かったので、樹潤も嬉しかったと思います。

――スーパーフォーミュラでは史上最年少、日本人初の女性レーサーという2つの歴史を刻んだことについて、どのように実感されていますか?

野田:彼女は3歳の時からずっとレースをやってきましたが、これまでやってきたことが間違っていなかったと証明できたことは嬉しいですね。「レーシングドライバーはこういう形で上に上がっていくんだよ」という一般的なセオリーとは違う山の登り方があるんだよ、ということが、結果として出たと思います。ただ、トップドライバーと比べるとまだまだ経験不足や知識不足を痛感して、もっと力をつけなければいけないと感じているのも事実です。

――サポートする立場として、新たな壁を乗り越えて新しい経験を積まれた手応えや、感じた課題などはありますか?

野田:「絶対に無理だ」と思っていたら、このチャレンジはしていません。簡単ではないけれど、彼女ならできる可能性を秘めていると思っていますし、そのことを改めて実感しています。ここにくるまでには、いろいろな試練がありました。単にドライビングの能力だけではなく、周りの理解やサポートも必要だし、結果が出るまでには時間もかかります。

 その間に本人は成長してきたし、今後も成長していくと思いますが、結果が出るまでの間に我々サポーター側の人間も潰されないように、それを乗り越えるだけの体力をつけていく、というところは依然として課題だと思っています。

4月から大学進学へ。二足のわらじを履いて目指すレベルアップ

――今年4月から、日本大学スポーツ科学部に進学されるそうですが、大学進学を決めた理由について改めて教えてください。

野田:レースのことを最優先に考えて決めました。スーパーフォーミュラというカテゴリーになってくると、今まで以上に体作りが大事になりますし、エンジニアとコミュニケーションを取る中でも、マシンに対する理解を深めることが必要です。単に体を作るためにジム行ってトレーニングをするのではなく、「自分の体を作るために何をしなきゃいけないのか」「なぜそうなるのか」ということを理解した上で取り組んでいく。そういうことが感覚だけでなく、論理的にも理解できるようになれば、さらにレベルが上がっていくと思います。

 仮に大学に行くことを選択せず、プロのドライバーとして、トレーナーについてもらって、トレーニングで体作りやマシンの知識を身につけていくことも一つの選択肢だと思います。その分、ドライビングのことに専念できる時間を増やすこともできると思いますが、大学にはいろいろな分野に長けた先生方が揃っていますから。その中で学ぶことはレーシングドライバーとして進んでいく道の中でプラスになるんじゃないか、と考えて、大学に行くことを決めたようです。

――女子大生レーサーとして、二足のわらじを履いての更なるレベルアップに期待しています。次のレースは5月18から19日に大分県日田市のオートポリスで開催されますが、スーパーフォーミュラの会場は鈴鹿以外が初体験ということで、また新たな挑戦が待っていますね。こうなってほしい、という期待はありますか?

野田:いい意味で、何も望んではいません。鈴鹿では天候の影響などで納得のいく練習ができない中であれだけの走りをしてくれたので、もっと成長したところを見せてくれるんじゃないかと思いますけど、次のオートポリスは、もしかしたらもっと苦戦するかもしれません。今年の1年間はどこに行っても、鈴鹿のように、同じような試練が繰り返されていくんじゃないかな、と予想しています。苦しむこともあるでしょうし、そばにいる私が誰よりもそれを理解してあげられる立場だと思うので、しっかりとサポートしていきたいと思っています。

<了>

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[PROFILE]
Juju/野田樹潤(のだ・じゅじゅ)
2006年2月2日生まれ、東京都出身。フォーミュラカーレーサー。F1レーサーだった父・英樹に憧れ、3歳でKIDSカートデビューし、勝利。5歳でプロを目指し、30cc/40ccダブルチャンピオンに輝く。9歳の時にFIA認定フォーミュラ4(F4)のドライバーとなり、日本では最年少でスポンサー契約、11歳の時に国際クラスFIA-F4マシンでU-17大会に出場。14歳だった2020年からデンマークF4に参戦し、デビュー戦でポールトゥウィン。その後2022年にWシリーズに参戦。2023年、F1の登竜門といわれるユーロフォーミュラオープン25年の歴史で初の女性での優勝。同年ZinoxF2000(旧イタリアF3)では59年の歴史で史上初の年間女性チャンピオンを飾った。2024年、最年少かつ日本人女性初でアジア最高峰シリーズ「スーパーフォーミュラ」デビューを果たした。

[PROFILE]
野田英樹(のだ・ひでき)
1969年3月7日生まれ、大阪府出身。野田樹潤の父であり、NODAレーシング監督。13歳の頃からカートレースに出場。20歳で渡英、イギリスF3、国際F3000を経て25歳でF1にデビューし、国内トップレース他、インディ・ライツ、ル・マン24時間レースに挑戦した。2010年のル・マン24時間レースを最後に現役を引退した後、「NODAレーシングアカデミー高等学校」を開校。2020年からはヨーロッパでのレース活動に帯同。今季はTGM Grand Prixのドライビングアドバイザーとして、樹潤のスーパーフォーミュラでの挑戦を支える。

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