中村俊輔、“引退”も考えた昨季から揺れ続けた想いと、横浜FCで過ごす至福の「今」

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2019.08.17

日本サッカーの歴史に残る司令塔、中村俊輔は7月、サッカー人生で初めてとなるJ2に新天地を求めた。
41歳となった今も変わることのない永遠のサッカー小僧にはしかし、「引退」の二文字が頭をもたげた時間もあった。
現役続行の決意、横浜FCへの移籍、そして、至福の時間だという「今」の思いとは――。
昨シーズンから揺れ動き続けた、中村俊輔の心の変化をたどる。

(文=藤江直人、写真=Getty Images)

永遠のサッカー小僧が、新天地で過ごす至福の時間

大好きなサッカーのことを寝ても覚めても考えている。ああでもない、こうでもないと思いを巡らせてもなかなか結論が出ない。永遠のサッカー小僧、中村俊輔は2019年夏、至福の時間の真っただ中にいる。

「新しいチームに来てアピールしなきゃという思いと、チームの戦術がしっかりあるので、それをまず守りながら、ボランチですけど自分のよさを出すというのが。なかなか短い時間のなかでできないんだけど、途中から加入する、とはそういうことなので。苦悩というものも含めて、楽しんでいます」

3シーズン目を迎えていたジュビロ磐田から、横浜FCへの完全移籍が発表されたのが7月11日。入団会見を経て新天地に合流したのが同16日だから、俊輔にとって初めてとなるJ2の舞台でプレーし始めてから、1カ月あまりの時間が経過したことになる。

5月中旬に肉離れを起こした左内転筋も完治。7月31日のレノファ山口戦は60分から、8月10日の水戸ホーリーホック戦では89分からリーグ戦で途中出場し、同14日の横浜F・マリノスとの天皇杯全日本サッカー選手権大会3回戦では、移籍後で初めて先発に名前を連ねた。

すべての舞台はマリノス時代にプロとして初出場を果たし、初ゴールも決めた思い出深いニッパツ三ツ沢球技場。20世紀末の残像といま現在の自分自身の姿とをシンクロさせながら、昨年10月7日の清水エスパルス戦以来となるフル出場を果たしたマリノス戦後に、俊輔はポツリとつぶやいた。

「何だろうな、いままでいっぱい試合をしてきたけど、記憶に残るというか、印象深い試合になったかなと。マリノスとやるときはいつでもそうだけど、こうやって負けてブーイングとかがある分、やっぱりダービーで勝たなきゃいけなかったと思っている」

試合は1-2で敗れ、横浜FCの天皇杯は終わりを告げた。いまも愛してやまない古巣マリノスと対戦するのは、ジュビロ時代を含めて4度目。通算で1勝3敗と黒星が先行する形となったが、だからといっていつまでもセンチメンタルな思いを引きずっているわけではない。

「普通に(90分間)出してもらえた。すごく久しぶりだし、シモさん(下平隆宏監督)に感謝したいですね。もっと動いて、もっとボールに触りたいですけど、ボランチというポジションに対してもうちょっと考え方を変えなきゃ、というところと、あとは自分しかないものをつくりたい、と思いがある」

思い描く理想像と、横浜FCのなかにおける立ち位置やまっとうすべき役割とを照らし合わせる。なかなか答えが出ないもどかしさは、俊輔にとっては実は歓迎すべき状況だった。昨年のいまごろを振り返れば、一刻も早くピッチに戻らなければ、という焦燥感だけに駆られていた。

「引退」も考えた昨シーズン、現役続行のきっかけは“師匠”川口能活の引退

昨シーズンは開幕前から、右足首に巣食う古傷とも戦っていた。軸足の右足首に走る痛みをかばいがちになるがゆえに、利き足でもある「黄金の左足」にも余計な負荷がかかる。3月に左大腿二頭筋を、4月には左ヒラメ筋にそれぞれ肉離れを起こし、戦線離脱を余儀なくされた。

迎えた6月11日。FIFAワールドカップ・ロシア大会の開催に伴い、J1が中断したことを受けて、故障禍の原因となってきた右足首に思い切ってメスを入れた。練習に合流できるまでに6週間前後を要するとされたが、リーグ戦への復帰は9月1日の名古屋グランパス戦までずれ込んだ。

しかし、復帰後も残留争いに巻き込まれていたジュビロの力になれない。2分3敗と一つの白星をあげられないまま、10月下旬の練習中にまたもや負傷。大事な終盤戦で戦線離脱を余儀なくされた俊輔は、脳裏に「引退」の二文字が浮かんでは消えたと後に打ち明けている。

「手術をしたとはいえ、これだけ長くかかりすぎたことには自分でもびっくりしているというか。ちょっと落胆して、メンタルが揺らいだ時期もあった。そろそろ引退、みたいなものがチラチラと見えてくるのも、こんな感じなのかなと」

もっとも、引退との間で何度も揺れ動いた時計の針は、最終的には現役続行を指した状態で止まった。踏みとどまるきっかけを与えてくれたのは、親しみと尊敬の念を込めていまも「師匠」と呼ぶマリノス時代からの先輩で、日本代表でも共に戦った川口能活さんの現役引退だった。

最終的な所属チームとなったJ3のSC相模原の公式ホームページ上で、四半世紀に及んだプロ人生にピリオドを打つと川口さんが表明したのが11月4日。予期せぬ一報を見聞きした瞬間に、自分の心の片隅でくすぶっている残り火の存在に俊輔は気がついた。

「自問自答できるチャンスが生まれたというか。自分は能活さんみたいにもがいたのかなと思うと、もうちょっとやりたいというか、やらなきゃいけない、もうちょっと完全燃焼してから、と」

川口さんとの出会いは、神奈川県の強豪・桐光学園高からマリノスへ俊輔が加入した1997年にまでさかのぼる。静岡県の名門・清水商業高からマリノスの一員になって4年目で、すでに不動の守護神として君臨していた川口さんは、ピッチの内外で俊輔をフォローしてくれた。

「1年目の時に同じ個人トレーナーの元へ誘ってくれたのも能活さんだったし、紫色のフェアレディZで送り迎えもしてくれて……いや、スカイラインだったかな。とにかく、助手席ですごく緊張したのをいまでも鮮明に覚えている。能活さんがいなかったら、いまの僕も多分いないと思う」

川口さんの引退発表からちょうど1カ月後の12月4日。静岡新聞が1ページを使った『届け!静岡からヨシカツコール。夢と感動をありがとう』と題した特集を組んだ。静岡県富士市出身の川口へ、県内を中心に100を超える団体や個人から寄せられた、さまざまなメッセージが紙面を埋め尽くした。

その一番下にひっそりと、それでいて熱い思いが凝縮された俊輔の短い言葉がつづられていた。川口さんをねぎらうメッセージであると同時に、俊輔自身の決意表明でもあった。

「僕はもうちょっとだけ頑張ります」

ジュビロの力になりたい思いと、プロとしてピッチに立ちたい思い

J2の6位からJ1参入プレーオフを勝ち上がった東京ヴェルディを退け、J1残留を決めたオフ。完全復活を期して、俊輔は右足首の不安をすべて取り除くために奔走した。

「いろいろな人に診てもらって、このオフで右足首は済ませたい。バランスがおかしくなっているというか、いろいろなところをかばう、というのがあるので。中盤を支配することが自分の強みだし、そういう感覚をもう一度取り戻せれば絶対に。今シーズンもまだまだやれる、自分のプレーで相手をいなせる、という感覚が何試合かはあったから」

俊輔のサッカー人生を支えてきたといっても過言ではない、居残りのシュートや直接フリーキック練習でも大きな負荷がかかってきた。俊輔をして「ちょっと厳しいかな」と言わしめた右足首を何とか完治させ、ホームに松本山雅FCを迎えた今シーズンの開幕戦で先発に名前を連ねた。

しかし、先発は54分までプレーした松本山雅戦が最初で最後になった。3月17日のサガン鳥栖戦の79分から途中出場したのを最後にリザーブに甘んじ、左内転筋を肉離れした影響で5月18日のベガルタ仙台戦からはベンチにも入れない日々が続いた。

開幕から不振にあえぐジュビロの力になりたかった。しかし、一方でプロとしてピッチに立つことを何よりも優先させたい思いも、時間の経過とともに頭をもたげてきた。現役として残されている時間はそれほど多くはない、という思いにも後押しされたのか。

13シーズンぶりのJ1昇格へ向けて、絶対に必要だという熱いラブコールを送ってくれた横浜FCへの完全移籍を決めた。クラブ内で最も大きい「46番」をあえて選んだ理由は、一の位と十の位を足せば自身の象徴だった「10」になるからに他ならない。

23年目を迎えたプロサッカー人生で、これまでとまったく逆のアプローチに挑む

「直接フリーキックの練習を見ただけで、違いがわかりますから。ズバズバ決めている」

シーズン途中の5月にヘッドコーチから昇格した下平隆宏監督が、俊輔が誇る黄金の左足に搭載された高精度のキックに思わず目を細めた。そして、慣れ親しんできたトップ下ではなく、当面はボランチを主戦場とさせる理由をこう説明したことがある。

「ゲーム勘がまだ戻っていないのか、プレッシャーが実際よりちょっと早く感じると言っていたので、周囲にスペースがあるボランチの方が彼のよさでもある、精度の高いキックを出せるので。それにしても、見ている視野の広さが他の選手とは違いますね」

下平監督就任後の横浜FCはV字回復を遂げて、J1参入プレーオフ圏内の5位にまで順位を上げた。豊富な戦力を擁しながら、ブラジル人のタヴァレス前監督のもとで戦った13試合は4勝3分6敗、総得点13に対して総失点15と精彩を欠いていた。

一転して下平監督のもとで戦った14試合で9勝3分2敗、総得点29に対して総失点14と理想的な数字が並ぶ。絶対的なエースのイバ、俊輔と同時に加入した元日本代表の皆川佑介、2011シーズンのJリーグMVPに輝いたレアンドロ・ドミンゲス、18歳になったばかりのホープ斉藤光毅らの豪華アタッカー陣がそろうなかで、最大のストロングポイントは両サイドにある。

右からサイドバックの北爪健吾と、サイドハーフのルーキー中山克広(専修大卒)。左からはサイドバックの武田英二郎や同じくルーキー袴田裕太郎(明治大卒)、JFA・Jリーグ特別指定選手のサイドハーフ松尾佑介(仙台大4年)が、スピードを生かした縦への突破からチャンスを次々と演出する。

彼らを生かすために、下平監督は数本のパスで前へ走らせるシンプルなビルドアップを要求している。自身の特長を「ボールを取られない自信があるから、どんどん前を向いて、少し揺さぶってから前へ出せる」と公言してはばからない俊輔と、どうしても個人戦術上の齟齬が生じてしまう。

「自分の色を出そうとすると『それ、やりすぎだよ』となる。シモさんはダメと言わないし、僕のやり方でいいと言ってくれるけど、すごく難しいですね。真ん中で止まって、相手のボランチを食いつかせて、速い選手を外からノープレッシャーで生かす。川崎フロンターレのような、遊びみたいなパスはいらないという感じのボール回しだから」

マリノスでもジュビロでも、そして日本代表でもチームを「自分の色に染める」という言葉をよく口にしてきた。しかし、23年目を迎えたプロサッカー人生で、まったく逆のアプローチに挑んでいると俊輔は屈託なく笑う。難しいからこそやりがいがある、とばかりに。

「このチームのやり方で、自分の色を少しずつ出していって、という感じだね。出来上がっているチームに、途中から入ったからしょうがない。急に一人の選手が来て、その選手に合わせることはまずないから。それが許されるのは強烈なストライカーだけ。中盤の選手で、こんなおっさんが途中から来たらね。だから少しずつ、自分の色に染めるんじゃなくて、自分がこのチームに染まれるためにはどうしたらいいかと。もっと動かないで、もっといいプレーをできるんじゃないかとか、もっと何か見つけられるかな、と思っている」

「カズさんという最高の見本がいる」

サッカーのことを考えたら、それこそ四六時中あっても足りないと胸を張るサッカー小僧は、偶然にもロッカーが隣同士になったレジェンドの一挙手一投足から毎日のように刺激を受けている。出場するたびに最年長出場記録を更新する現役最年長の52歳、FW三浦知良と初めて同じクラブになった。

「カズさんがいつも近くにいるから、練習がキツいなんて言えないよね」

マリノス戦ではトルシエジャパン時代の2000年6月6日、モロッコで開催されたハッサン二世国王カップのジャマイカ代表戦以来、実に19年ぶりとなるピッチ上での共演を果たした。故障もあり、下平体制下ではリーグ戦の出場はおろか、ベンチ入りすら一度も果たしていない状況でも、日々の練習で一切妥協を許さないカズに負けたくないと思うと、自然とモチベーションが高まる。

「カズさんという最高の見本がいる。毎日が楽しいし、その恩返しじゃないけど、毎日毎日をそういう(カズさんと同じ)気持ちでやっていく」

横浜FCのボランチはセンターバックを本職とする田代真一と、新境地を切り開いている松井大輔が主軸を担う。そこへ真っ白な灰になるまで燃え尽きたいと望む俊輔が加わり、独自のチームカラーのなかで「自分らしさ」を表現できたときに――残り3分の1となったJ2リーグ戦で、2位以内での自動昇格を目標として掲げる横浜FCが放つ存在感がますます大きくなっていく。

<了>

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