岡田武史が振り返る、壮絶な代表監督時代、森保ジャパンへの期待と不安、そして、カズ…

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2019.09.23

日本代表監督として2度のワールドカップを戦った、岡田武史。日本サッカー殿堂掲額を果たした男の歩んできた軌跡は、他に類を見ないものだ。
夫人に「負けたら日本には帰らない。そのときは子どもたちを頼んだ」と伝えるほどの想像を絶する重圧。三浦カズを外したあの決断。そして、森保ジャパンを見て感じた率直な思い。岡田武史という唯一無二の男にしか口にできない言葉の数々は、日本サッカーの未来へとつながっていく――。

(文=藤江直人、写真=Getty Images)

日本サッカー殿堂掲額を果たした名将の軌跡

日本サッカー協会の殿堂入りに至った、自身のサッカー人生が凝縮される形で編集された数分間の映像を見ながら、岡田武史は日本代表監督という仕事と肩書きが持つ重みをあらためてかみしめた。

現役時代はジェフユナイテッド千葉の前身、古河電気工業サッカー部でディフェンダーとして活躍し、日本代表としても24試合に出場した。監督としてコンサドーレ札幌をJ1昇格と残留に、横浜F・マリノスをJ1連覇に導き、特に初優勝した2003シーズンは1st、2ndステージを完全制覇した。

「現役のころはたいした選手じゃなかった。いまだったら絶対に日本代表に絶対に入れないような、頑張り屋の選手だったからね。だって、野球をやっていたから。中学からサッカーを始めた選手なんて、いまの日本代表にいないでしょう。だから、現役のときは要領がよかったよ。自分が出て行かないようにしたらどうしたらいいか、味方を前に行かすためにはどうしたらいいかと常に考えていたから」

大阪市で生まれ育ち、南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)が運営する「南海ホークス子供の会」の一員として、野球に明け暮れた小学生時代を引き合いに出しながら周囲の笑いを誘う。ユーモアとウィットに富んだ言葉が、代表監督に触れるときにはちょっぴり神妙になる。

「僕のなかではコンサドーレやマリノスはものすごく大きなものだったんだけど、ああやって編集されるとやっぱり代表のシーンが多くなるんだな、と。代表監督は最初が9カ月しかやっていないし、2度目も2年半くらいか。その意味では代表監督以外の方が長かったのに、やっぱりこういうふうになるんだろうな、と見ていて思いましたね」

昨夏のFIFAワールドカップ・ロシア大会で日本代表を率いた西野朗氏、2011年のFIFA女子ワールドカップでなでしこジャパンを初優勝に導いた佐々木則夫氏とともに日本サッカー殿堂の掲額者に選出。東京・文京区のJFAハウス内で、今月10日に催された掲額式典とレセプションに出席した後の第一声だった。

総勢80人と2つの団体を数える掲額者は、投票選考と特別選考とに分けられる。日本サッカー界に貢献した60歳以上の元選手を対象に殿堂委員会が候補者名簿を作成し、75%以上の得票率を得た者が選出となるのが前者であり、選手以外で顕著な貢献をした者、殿堂委員会が特に認める顕著な足跡を残した元選手、あるいは日本サッカー協会の歴代会長らが推挙され、選出されるのが後者となる。

第16回を迎えた今回は、いずれも特別選考での選出だった。西野氏は柏レイソル、ガンバ大阪、ヴィッセル神戸、名古屋グランパスの監督としてJ1歴代最多の270勝をあげた実績がクローズアップされる一方で、他の2人は代表チームを率いて残した実績がまばゆい輝きを放っている。

「ものすごく光栄に思っていますけど、いろいろとうるさいから、ちょっとお堂のなかに放り込んでおこう、ということなのかなとも思ったりしている」

歴代の代表監督のほとんどが名前を連ねる殿堂を「お堂」に例えながら、再び周囲を笑わせた岡田にとって、1度目と2度目のどちらが記憶のなかに強く残っているのか。

「僕の場合は思い出ばかりだけどね。やっぱり日本代表の監督となると、いろいろなプレッシャーや批判を受けなければいけない。その意味では最初の代表監督のときが、僕のなかでは一番印象深いかな。初めてのワールドカップで、日本中がちょっと異常な状態だったので」

「負けたら日本に帰らない」 想像を絶する重圧

フランス・ワールドカップ出場をかけて、1997年9月に幕を開けたアジア最終予選。加茂周監督に率いられた日本代表は初戦でウズベキスタン代表を6対3で撃破するも、敵地でUAE(アラブ首長国連邦)代表と0対0の引き分け、ホームに韓国代表を迎えた大一番では1対2の逆転負けを喫した。

歯車が狂いかけた苦境で迎えた中央アジアでの連戦。カザフスタン代表と1対1のドローに終わった直後に加茂監督が解任され、コーチだった岡田に白羽の矢が立てられた。すぐにウズベキスタン戦がやってくる。Jクラブでの監督経験もなかった、当時41歳だった岡田は受諾するしかなかった。

しかし、ウズベキスタン戦も1対1で引き分ける。グループBの1位のチームだけが自動的にフランス行きの切符を得られるなかで、宿敵・韓国に大きく引き離された。敵地のロッカールームで「もうダメだ」と泣き崩れる選手たちを見て、岡田も腹をくくった。

ウズベキスタン戦だけの暫定のつもりが、帰国後に加茂前監督から了承を得たうえで正式にバトンを引き継いだ。しかし、ホームでのUAE戦も1対1で引き分け、旧国立競技場の代々木門で一部の心ないファン・サポーターが暴徒化。空き缶や生卵、パイプ椅子が飛び交う騒然とした雰囲気に包まれた。

「あのころはまさか有名になると思っていなかったから、電話帳にも普通に載せていたので脅迫状や脅迫電話がね。僕の家は24時間、パトカーが守っていましたから。子どもたちが危険だから学校の送り迎えをして、と家内からは言われて。そういう状態で戦っていたので」

敵地ソウルでの韓国戦(2対0)、ホームでのカザフスタン戦(5対1)に何とか連勝。たどり着いたイラン代表とのアジア第3代表決定戦を前に、岡田は夫人へ国際電話を入れている。当時の取材によれば「危ないから実家へ帰ってくれ。負けたら日本に帰らない。そのときは子どもたちを頼んだ」と告げたとされている。

中立地のマレーシア・ジョホールバルで、1997年11月16日に行われた一発勝負。勝てば天国、負ければ地獄と運命を大きく隔てるイラン戦を、最終予選で初めて送り出したFW岡野雅行の延長Vゴールで制した。不退転の覚悟と決意を胸中に秘めていたからこそ、いまも色濃く記憶に残っている。

すでに2002年大会を韓国とともに共同開催することも決まっていた。ワールドカップの舞台に一度も立たないまま、ホスト国になるわけにはいかないというプレッシャーからも解放された。

三浦知良を外した、あの決断

年が明け、フランス大会の初戦がいよいよ近づいてきた6月2日。岡田のひと言が日本中を揺るがせた。

「外れるのはカズ、三浦カズ」

スイス・ニヨンでの直前合宿に臨んでいた25人から、ワールドカップ本番では3人を外さなければいけない。熟慮を重ねた末にDF市川大祐、MF北澤豪、そして長くエースストライカーとして日本代表を牽引しながら、精彩を欠く状態が続いていたFW三浦知良が外れた。

「カズを外したことで、世の中の反応がまた厳しくなったとはキャンプ先で聞いていました。想像していたことですし、直接的に何かそれで(影響を受けた)、ということはないですけどね。カズのことはいまでも尊敬していますし、大好きですけど、あのときの自分はチームが勝つためにベストの選択を下した。ただそれだけで決めたので後悔はしていませんし、何も私心もありません」

フランス大会はアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカに3連敗してグループリーグを去った。しかし、ここ一番で周囲の誰もが驚く決断を、迷うことなく下す。岡田のなかで力強く脈打つ勝負師の一面は、2度目の挑戦となった2010年の南アフリカ大会で奏功する。

一世一代の大博打に勝った、2010年

病魔に倒れたイビチャ・オシム監督から、急遽バトンを託されたのが2007年の年末。アジア予選を勝ち抜くも、肝心のワールドカップ直前になってチームが上向かない。セルビア、韓国、イングランド、コートジボワールとの国際親善試合で全敗。国内には解任論が激しく飛び交った。

ここで岡田も腹をくくる。精彩を欠いていた司令塔・中村俊輔から、本田圭佑へ大黒柱を変更。ポゼッションを重視した中村を生かすための[4-2-3-1]から、本田を1トップに据えた堅守速攻型の[4-1-4-1]へスイッチ。ゲームキャプテンをDF中澤佑二からMF長谷部誠へ、守護神を楢崎正剛から川島永嗣へと変える大ナタを振るった。

カメルーン代表とのグループリーグ初戦を、本田のゴールで制したチームは一気に波に乗る。オランダ代表との第2戦こそ敗れたが、デンマーク代表との最終戦では本田、MF遠藤保仁が立て続けに直接フリーキックを決める。MF岡崎慎司も続いて、2大会ぶり2度目のベスト16進出を果たした。

パラグアイ代表との決勝トーナメント1回戦では延長戦を含めて0対0のまま決着がつかず、PK戦の末に涙を飲んだ。それでも、一世一代の大博打と言ってもいい、開幕直前の戦術およびメンバー変更で結果を出した岡田の采配に、世論は一転して「名将」と拍手喝采を浴びせた。

森保ジャパンに感じた、期待と不安

あれから9年もの歳月が過ぎた。南アフリカ大会で4大会連続のワールドカップ出場を果たした日本代表はブラジル、ロシアの舞台にも立ち、来夏の東京五輪監督を兼ねる森保一監督のもと、7大会連続のワールドカップとなる2022年のカタール大会出場へ向けて第一歩を踏み出した。

いま現在はJFLを戦うFC今治を運営する株式会社今治.夢スポーツの代表取締役会長を務めている岡田は、日本サッカー協会のシニア・アドバイザーとして、森保ジャパンが2対0で快勝した9月5日のパラグアイとのキリンチャレンジカップを、県立カシマサッカースタジアムで観戦している。

「いまの代表は個で通用するチームになってきている。これまでにないことだし、誰が見ても生き生きしているし、いままでにないような面白いチームに、わくわくするチームになると思う」

森保ジャパンに対して初めて言及した岡田を、「面白い」と賞賛させた理由は何なのか。答えは1トップの大迫勇也(ヴェルダー・ブレーメン)と2列目の3人、中島翔哉(FCポルト)、南野拓実(ザルツブルク)、堂安律(PSVアイントホーフェン)が奏でる至高のハーモニーにあった。

「いままでは組織で戦うことを前提にしてきた。しかし、堂安にしても翔哉にしても南野にしても、大迫もそうだけど、個の力であそこまで打開し、あるいはボールを失わないというプレーができる。彼らが連係したときに素晴らしいプレーができているけど、きっかけは個のところが引き金になっている」

2度率いた日本代表でも、コンサドーレでも、マリノスでも、組織ありきで個を生かすチームをつくってきた。最大限の個の力を発揮させながら至高の協奏曲を奏でさせる、真逆と言っていいアプローチのなかにいま、無限の可能性を秘めた18歳のMF久保建英(マジョルカ)も加わった。

「一番の魅力はあの年齢にして、老齢なくらいの判断力。何でもかんでもいくわけじゃなくて、無理なときはシンプルなプレーに徹する。もちろん怖がって、逃げているわけではない。翔哉や堂安の方がいろいろな経験値はまだ高いけど、素晴らしいものを持っている。すごく楽しみですよね」

久保はパラグアイ戦の後半開始から投入され、45分間だけでチーム最多となる5本のシュートを放った。そのなかにはクロスバーを直撃した、あわやの一撃もあった。いまにもブレイクを果たしそうな逸材のプレーを目の当たりにした岡田は、一方でチームの未来へ対して一抹の不安も感じている。

「ところが、個というのはやりようによっては抑えられる恐れがある。ここまでの国際親善試合で日本代表を研究して、抑えにきたチームはなかった。アジア2次予選でレベルの低い、弱い相手が研究してきても打ち破れる。なので、次の3次予選で個を研究されたときに、初めての経験とならないのか、という不安がある。たとえば翔哉あたりをマンツーマンで抑えて、フリーでボールを受けさせなくする相手が出てくる恐れもある。そのときにどのような戦い方をすればいいのか。まあ、ポイチ(森保監督の愛称)はちゃんと考えているはずだし、これは老婆心かもしれないんだけど、自分が監督だったらネガティブな要素を排除しようとか、いろいろなことを考えちゃうので」

森保ジャパンの「いま」と「これから」を目を細めながら語る岡田は、中国スーパーリーグの杭州緑城足球倶楽部の監督を退任した2013シーズンを最後に、指導の現場から遠ざかっている。新たなチームづくりを進める森保ジャパンに、そしてタイ代表監督としてアジア2次予選を戦っている1つ年上の西野氏に刺激を受けることはないのか、と質問が飛んだ直後だった。

「ない! 自分で自分の限界がわかっているから」

指導者への未練を完全に断ち切らせた、株式会社今治.夢スポーツの経営者として奔走する日々は、いままでに経験したことのない刺激と責任感に満ちあふれている。

(文中一部敬称略)

<了>

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