特別扱いされなかった「超エリート」菅野智之の少年時代。変わったもの、変わらないもの

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2020.06.12

アマチュア球界の歴史に名を残す名将・原貢の孫にして、読売ジャイアンツでかつては4番のスーパースター、現監督を務める原辰徳の甥。生まれながらにして野球界のサラブレッド、菅野智之は、しかしながらエリート一家の人脈を使うことなく、地元の“普通”の少年野球チームで子ども時代を過ごした。
どんな名選手にも、必ず「少年時代」がある。野球と出会ったばかりのその時期に、いったいどんな時間を過ごしたのか? どんな指導者と巡り合い、どんな言葉を掛けられ、どんな思考を張り巡らせて、プロ野球選手へとたどり着いたのか?
日本球界を代表する選手たちの子ども時代をひも解いた書籍、『あのプロ野球選手の少年時代』(宝島社/⇒詳細はこちら)を上梓したスポーツライター・編集者の花田雪氏に、少年時代を知る指導者が見た、菅野智之の“秘話”を明かしてもらった――。

(文=花田雪、写真提供=宝島社)

超エリート一家に生まれた菅野智之の少年時代

菅野智之は、サラブレッドだ。

祖父・原貢は三池工業高校、東海大相模高校、東海大学で指揮を執ったアマチュア球界の歴史に名を残す名将。母方の伯父にあたる原辰徳は現役時代、読売ジャイアンツで4番を打ったスーパースターにして現監督。父・菅野隆志も東海大相模高校、法政大学でプレーし、ドラフト候補に名を連ねたこともある野球選手だった。

血筋だけを見れば、野球一家に生まれ育った「超エリート」といっていい。

しかし、その少年時代はというと、決してプロ入り間違いなしの「怪物」だったわけではないという。

筆者は先日、宝島社から『あのプロ野球選手の少年時代』という書籍を上梓したが(⇒詳細はこちら)、そこで菅野の「子どものころ」を知る人物に取材を行った。

菅野少年が生まれたのは神奈川県相模原市。生まれた時点である意味、「原貢の孫、原辰徳の甥」という宿命を背負った一人の少年は、小学1年生で地元の軟式野球チーム・東林ファルコンズに入団し、野球を始めている。

当時、菅野少年を指導した松井昭治さん、河野欣行さんはこう語る。

「1年生のころからポジションは基本的にピッチャーです。体も大きかったし、球も速かった。少年野球は変化球が禁止なので、基本的には球の速い子がエースになる。智之も、そういうタイプでした」

チームの指導者、そしてチームメートは当然、菅野少年が有名監督の孫で、スーパースターの甥っ子であることを知っていた。ただ、チーム内で「特別扱い」されるようなことはなかったという。

「菅野(隆志)さんにもチームのコーチをお願いしていましたが、練習中はあくまでも一人の選手として指導してくれていました。もちろん、自宅に帰れば個人指導や練習を見たりはしていたんでしょうが、チーム内ではしっかりと『線』を引いてくれた。私たちも必要以上に彼の家のことは意識せず、他の子どもたちと同じように指導していました」

(体が大きく球も速かった菅野はピッチャーを任されていたが、決してプロ入り間違いなしの「怪物」ではなかった)

基礎体力やパワーはあったが、技術やセンスは……

小学6年生になると、菅野少年はチームで「エースで4番」を任されるようになる。ただ、決して「怪物」のような選手ではなかったというのが、当時の指導者の共通認識だ。

「先ほども言ったように、球は速いんです。ただ、細かなコントロールはまだなかったし、バッティングも当たれば飛びますが、空振り三振も多かった。体格に恵まれていたぶん、他の子どもたちと基礎体力やパワーはありましたが『技術』や『センス』が飛び抜けているという印象はなかったですね」

少年野球は成長が早く、体の大きい子に大きなアドバンテージがある。いわゆる「早熟型」の子どもたちだ。しかし、そういうタイプの選手は中学、高校と進む中で同級生たちに体格で追い付かれ、気付けば埋もれていってしまうケースも多い。松井さんも、菅野少年に対してそんな一抹の不安を抱いていたという。

「小学生のころは基本的な能力が高いぶん、問題なくやれていた部分が大きかったんです。ただ、例えばピッチャーとしては体もかなり硬かったですし、世代が上がった時にどうなるかな……とは思いました。もちろん才能は感じていましたが、同じようなタイプでその後『伸び悩む』選手もたくさん見てきましたから」

(バッターでもチームの4番を任されていた菅野だが、当時の指導者たちはいつか伸び悩むのではないかと心配だったという)

小学生のころから、変わったものと、変わらないもの

しかし、その不安は結果的に杞憂に終わった。松井さん、河野さんが口をそろえて語るのは、中学以降の驚異的な成長だ。

「中学も地元の公立校(相模原市立新町中学校)に進んだので、試合を見る機会は多かったんですが、良い指導者やチームメートにも恵まれて、どんどん成長したという印象です。高校入学以降はプレーを直接見る機会は減りましたけど、3年生のころには『ドラフト候補』といわれるようになりましたからね。正直、『あのトモがここまでの選手になるなんて』という気持ちはありました」

小学校時代は「とにかく硬かった」という体も、そのころにはすっかり改善された。

「本当に硬かったんですよ(笑)。だから、練習はもちろん、柔軟も相当やったんじゃないかな。そのあたりはやはり、本人の努力ですよね」

技術や肉体面で大きく成長し、今や日本を代表するエースに。その一方で、当時とほとんど変わらない面もあるという。

「顔もあまり変わっていないんですが、マウンド上のしぐさや表情なんかはあのころのままです。打たれた時に見せる顔なんて、本当に小学生のころと同じで、テレビを見ながら笑ってしまうこともあります」

取材時に当時の写真を見せてもらったが、確かに面影が残っている……というよりはほとんど変わっていない。

「そのぶん、不思議な感覚ですね。見た目も別人なら『成長したな、別世界の人間になったな』と思いますけど、当時の面影や雰囲気はそのままなのに、巨人や侍ジャパンのユニフォームを着て、東京ドームで投げているわけですから」

相模原の“普通”の野球少年たちの憧れの存在であり続けてほしい

菅野智之はプロ野球で一流となった今も、生まれ育った地元・相模原にさまざまな形で貢献している。松井さん、河野さんにとってもそれは、本当に誇らしいことだという。

「トモの『血筋』は、確かに特別です。ただ、小学校、中学校までは地元の野球チーム、地元の中学校でプレーをした。いわゆる『普通の野球少年』と同じ環境で成長して、あれだけの選手になった。これからも、相模原の野球少年たちの憧れの存在でい続けてほしいですね」

蛇足になってしまうが、この取材後、筆者の元には河野さんから菅野智之に宛てた手紙と、東林ファルコンズの選手たちが書いた寄せ書きが届いた。

残念ながら新型コロナウイルスの影響で本人に直接手渡すことはできなかったが、球団を通して本人の手元に届くようにお願いしている。

寄せ書きには、憧れの大先輩への応援メッセージや、激励の言葉がたくさんつづられていた。

プロ野球が開幕し、コロナ禍が収束したら、どんな形であれ菅野智之に会いに行こうと思う。

そこで、少しでも当時の話や、後輩たちへのメッセージを聞くことができれば、こんなにうれしいことはない。

<了>

秋山翔吾、前田健太、柳田悠岐、菅野智之、山﨑康晃、鈴木誠也……
彼らはどのような少年時代を過ごし、
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