野口啓代、“引退宣言”の覚悟とは スポーツクライミング絶対女王が目指す“現役最後の1日”
今年8月に行われる「IFSC クライミング・世界選手権2019」が日本初開催であり、東京五輪の選手選考も兼ねていることもあり、大きな注目を浴びているスポーツクライミング界。東京五輪で初めて追加種目に採用されたこの競技において、日本が世界に誇る絶対女王が野口啓代である。
競技人生を「東京五輪までと決めたことで、この3年間をやってこられた」と語る彼女の目指す現役最後の1日とは? 野中生萌とのライバル関係も含め、野口の東京五輪出場までの道のりに思いを馳せる。
(文=篠幸彦)
「東京五輪までしか考えていない」
5月26日、第2回コンバインド・ジャパンカップ決勝が終わった直後の取材だった。野口啓代が記者の何気ない質問に対して、笑顔を見せながらあまりに自然と、スポーツクライミング界にとって重い一言を漏らした。
私は東京五輪までしか競技は考えていないので――。
それは実質、コンペシーンからの引退宣言だった。彼女がメディアの前でここまではっきりと告げたのは、おそらくこれが初めてのことだ。突然の一言に周りの記者たちはうまく飲み込めず、彼女が続ける言葉に聞き入っていた。
東京五輪までと決めたことで、この3年間をやってこられた――。
これはクライミング界にとって、一選手のただの引退ではない。日本が世界に誇る、絶対女王の引退なのだ。
野口が最初のビッグタイトルを手にしたのは、クライミングを初めてわずか1年後だ。中高生も参加する全日本ユース選手権を小学6年生にして優勝。巷で言う天才少女だった。初めてIFSCクライミング・ワールドカップ ボルダリング(ボルダリングW杯)に参戦した2007年シーズンで準優勝2回、3位1回と結果残すと、同年の世界選手権のボルダリングでも準優勝。2008年シーズンには日本人女子初のボルダリングW杯優勝を果たした。
プロキャリアをスタートさせたのは、この年の19歳になったばかりの頃だ。野口は当時通い始めた大学を入学からわずか3カ月ほどで中退し、ボルダリングを中心にプロクライマーの道を歩み始めた。
さらに2009年シーズン、こんどは日本人女子初のW杯年間優勝という快挙を達成し、野口はクライマーとして確固たる地位を確立した。今年で30歳を迎え、プロキャリア12年目、クライミング歴は20年目となる。その間、彼女が積み上げた実績は凄まじい。
ボルダリング・ジャパンカップは第14回のうち11回の優勝。W杯優勝は通算21回で、あと1回勝てば歴代最多に並ぶ数だ。総合ポイントで争うW杯年間優勝も4回経験し、今季も年間総合2位でシーズンを終えている。彼女以外の日本人女子選手で年間優勝を達成したのは、昨季の野中生萌が初めてだった。
ボルダリング以外でもリード種目で日本一を10回、昨シーズンから新設されたコンバインド・ジャパンカップでも初代女王に輝いている。他にも紹介しきれないほど数多くのタイトルを獲得し、彼女は常に国内外のコンペシーンの中心にいた。彼女に憧れてクライミングを始めた少女が成長し、数年後に大会で野口と一緒に登っている姿は珍しくない光景である。
毎年そうした新世代の突き上げが激しいクライミング界で、これだけ長くトップに君臨し続けるのは並大抵のことではない。日本でスポーツクライミングがほとんど認知されていない時代から、女子のみならず日本のクライミング界のアイコンとして牽引し続けたのが野口啓代というクライマーなのだ。
スポーツクライミングが東京五輪の追加種目に 出場枠わずか2名の狭き門
これほど多くのタイトルを手に入れてきた野口だからなのかもしれない。野口を野口たらしめ、魅了してきたコンペシーンに彼女を掻き立てるものは年々薄れていた。やり残したことはもうほとんどなかった。
そんな野口を再び奮い立たせる、運命の日が訪れる。2016年8月3日、リオデジャネイロで開催された国際オリンピック委員会の総会で、スポーツクライミングが2020年東京五輪の追加種目として承認されたのだ。このとき、野口はキャリアの退き際を4年後の東京と定めた。
五輪種目決定からクライミング界を取り巻く環境は劇的に変化しながら3年の月日が経った。2019年5月21日、日本山岳・スポーツクライミング協会(JMSCA)より、東京五輪の日本代表選手選考基準が発表された。
初めて五輪種目に採用されるためか、なかなか選考方法が定まらず、選手たちは雲を掴むような思いを抱きながら東京五輪出場を目指してきた。当然、野口もそんな選手の一人だった。それがついにはっきりと道が示されたのだ。自らの花道を切り開くべく、野口の東京五輪出場を懸けたサバイバルが始まった。
東京五輪に出場できるのは各国最大で男女各2名、総勢男女各20名と狭き門となっている。この各2名という出場枠は国や地域に与えられるものではない。これから行われる選考大会で選手個人が勝ち取る必要がある。その上でもし一つの国や地域から2名以上が出場枠を得られる結果を残した場合、選考基準によって上限の2名が選出されるのだ。
そして最初の選考大会が8月に東京・八王子で開催される「世界選手権2019」である。同大会で東京五輪のフォーマットにも採用されるコンバインド(スピード、ボルダリング、リードの3種目で争う複合種目)で、上位7人に入った選手に東京五輪への出場枠が与えられる。この大会で参加20名のうち最初の7名が決定するのだ。
野口がまず目指すのはこの上位7人入りだ。さらに各国最大2名のため、日本人の中でも上位2人に入る必要がある。しかし、JMSCAの選考基準発表の際、世界選手権での日本独自の選考方法が付け加えられた。それは「上位7人に入った日本人選手の最上位1名を優先選考選手とする」というもの。これは上位7人に日本人が2人入ったとしても最上位の1人しか代表内定がもらえないという意味だ。残りの1名は“選考大会該当選手”という枠に入り、内定は世界選手権以降の選考大会の結果如何となる。この選考方法は野口にとってシビアなものだった。
ライバルであり、戦友の野中生萌との代表内定争い
最大のライバルとなるのは、野口と並んで2トップと称される野中だ。彼女は初めてボルダリングW杯に参戦した2014年に6大会中4大会で決勝に進出し、台頭してきた。以来、常に野口とともに世界のトップと戦い続けている。それまで国内で無敵状態だった野口に初めて現れた日本人のライバルであり、戦友だった。
22歳ながらW杯優勝3回、準優勝9回、3位7回と数多くの大会で表彰台に上り、野口に次ぐ実績を誇っている。日本人女子選手でW杯優勝を経験しているのは、未だこの2人だけだ。「生萌とW杯で年間優勝を争えるのが、私にとって大きなモチベーションになっている」と、野口は自身に与える野中の影響の大きさを語っている。
2人のライバル関係でとりわけ印象深いのは、野中が念願のボルダリングW杯年間優勝を達成した昨シーズンだ。第1戦で野中が優勝すると、第3・第4戦で野口が2連勝するなど、シーズン序盤から2人の競り合いは激しいものだった。そしてシーズン折り返しとなる第5戦は自国・八王子大会。多くのファンが見守る中、2人は一進一退の展開を演じる。
決勝の最終課題、野口が2トライ以内で登らなければ野中が優勝という場面。極限の緊張の中、「ハードな2課題目で疲れてしまい、観客の皆さんのパワーをもらわないと登れないと思った」という野口は、大声援を背に1トライで登り切った。直後のフラワーセレモニーで、野口は溢れ出る涙で笑顔を濡らした。
「最後に登り切った彼女は流石だった」という野中が、野口をハグで祝福する姿は大会で最も美しいシーンとしてファンの記憶に刻まれた。
ドラマチックなシーズンの結末は、最終戦となるミュンヘン大会で迎えることとなった。2人の年間ポイント差はわずかに5。この大会で表彰台の上に立ったほうが年間優勝という、まさに天王山だ。そして決勝の最終課題、今度は野中が2トライ以内で登らなければ年間優勝は野口の手に渡る場面となった。あのときの野口と同様、想像を絶する緊張が襲っていたはずだ。それでも野中は落ち着いていた。プレッシャーをものともせず、1トライで登り切った。その瞬間、野中はその場で悲願達成に涙した。
「お互いうれしいこともきつい結果も共有してきた仲だと思っているので、生萌に年間優勝が決まったときは素直にうれしかった」と、野口は戦友の快挙に感涙。そして今度は野口が野中を抱き寄せて讃えた。史上初となった日本人選手2人による年間優勝争いは稀に見る接戦となり、最後の一手までその行方がわからないW杯史に残る名勝負だった。
初の年間女王となって自信をつけた今季の野中は、ことさらに勝負強い。1月のボルダリング・ジャパンカップ、2月のスピード・ジャパンカップを連続で制すると、5月のコンバインド・ジャパンカップ(CJC)でも野口と紙一重の接戦を演じて優勝。国内3冠を達成している。
一方の野口もリード・ジャパンカップで優勝し、今季のボルダリングW杯では参戦した4大会すべてで準優勝(野中は怪我のため2大会のみ出場し、どちらも4位)と結果を残している。
それでも直近のCJCでの敗戦は大きい。コンバインド種目で野中は野口を凌ぐ力を持っていることを意味するからだ。ただ、紙一重の接戦だったと述べたように、野口にも優勝のチャンスはあった。
8月の世界選手権でどちらが上位になるかは、正直予想が難しい。それほどに両者の力は拮抗している。スピードとボルダリングで逃げ切りを狙う野中と、ボルダリングとリードで後半勝負の野口。得意種目でどれだけ優位を取り、苦手種目でどれだけ足を引っ張らないか。両者が得意とするボルダリングでの順位がキーとなりそうだが、こればかりは蓋を開けてみなければわからない。
世界選手権で内定を逃したあと 待ち受ける東京五輪までの道のり
とにかく世界選手権で代表内定を取れることが理想である。ただ、仮に選考大会該当選手、あるいは上位7人入りすら逃した場合、次のターゲットは11月にフランス・トゥールーズで開催するオリンピック予選大会となる。この大会では上位6人に出場枠が与えられ、各国2名までは同様だ。世界選手権で代表内定1人が決まっていない場合、この6人の日本人最上位1人が内定者となり、もし決まっている場合は選考大会該当選手の枠に入る。
そしてオリンピック予選大会でも上位6人を逃した場合、2020年4月のアジア選手権・盛岡大会が3つ目の選考大会となる。この大会ではコンバインド種目の優勝者のみに出場枠が与えられる。上記と同様、内定者がいない場合は優勝者が内定となり、決まっている場合は選考大会該当選手入りとなる。
ここまでの3つの選考大会で出場枠を獲得した選手が2名の場合、その選手たちが代表選手に決定する。ただ、3名以上いた場合だ。先程から何度も繰り返している選考大会該当選手の枠に入った選手たち(最大4人)で、最後の1枠を争うことになる。その舞台となるのが、2020年5月の第3回コンバインド・ジャパンカップ。
このCJCで最上位となった1人が最後の代表選手となる。一発勝負の大一番だ。ちなみに3つの選考大会で代表内定がいなかった場合、または出場枠に1人しか入れなかった場合、選考大会のいずれかに参加した選手の中でCJCの最上位1名が開催国枠として代表選手となる。
3年前から描き続けた現役最後の1日
つまり野口は8月の世界選手権で上位7人の日本人最上位を取れなければ、来年5月まで代表決定がもつれてしまう可能性がある。ここまでもつれたくないと思うのは当然だ。
仮に選考大会で出場枠を獲得できたのが2人だけだったとしても、2人目の選手はアジア選手権が終わるまで5月のCJCの準備を視野に入れておかなければならない。トゥールーズで2人以上が入れば、CJCでの代表決定戦は早々に確定だ。いずれにしても東京五輪までじっくりと調整できる1人目とは大きく事情が異なってしまう。
2人目を直前まで引っ張る理由をJMSCAは「1人目は世界選手権で最も優位な成績を収めた選手。2人目は五輪までの短期間で選手の実力が伸びてくる可能性があり、直前で調子の良い選手を選びたい」と説明している。野口、野中の背中を追う若手選手の成長を期待しての戦略といったところだ。
しかしこれは女子選手というよりも、多くの選手の力が拮抗している男子選手への意味合いのほうが大きいだろう。もちろん、女子の若手選手に可能性がないと言っているわけではないし、伸び盛りの有力な選手もいる。ただ、少し酷だと感じてしまうのも本音である。
五輪までの道がはっきりとしただけについその中で多くのことを考え過ぎてしまうが、選手の思考は至ってシンプルだ。
8月の世界選手権で優勝する――。
それができれば文句なしの代表内定である。そして、それこそが数少ない野口がやり残したことの一つだ。野口はまだ世界選手権のタイトルを獲ったことがない。コンペキャリアを東京五輪までとするならば、世界選手権のチャンスもこれが最後となる。世界選手権を制し、東京五輪でメダルを獲得する――。
あまりに美しすぎるシナリオで、達成には強力なライバルも多い。それでも野口啓代というクライマーには、それほどドラマチックなキャリアの終幕を期待してしまう。CJCでの取材の最後を野口はこう結んでいる。
東京五輪を最後の1日にしたい――。
野口は3年前から思い描き続けた終了点への大きな一手を、世界選手権で登ろうとしている。
<了>
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