「高校選手権出場7分」からプロへ。秦英志が前橋育英、米大学経由で切り拓いた異色のキャリア

Career
2026.06.29

アメリカ・ヒューストンで道を切り拓く、もう一人の日本人フットボーラー。横浜F・マリノスジュニアユース追浜、前橋育英高校を経て、アメリカの短期大学にあたるフェニックス大学、NCAA1部のシアトル大学へ進み、2026年3月にはMLSの下部に位置するMLS NEXT Proのヒューストン・ダイナモ2とプロ契約を結んだ。王道とは異なる歩みの中で、秦英志は何を武器に変え、どのようにプロへの道を見いだしたのか。その歩みを振り返ってもらった。

(インタビュー・構成=松原渓[REAL SPORTS編集部]、写真提供=ヒューストン・ダイナモ)

ワールドカップ開催国で感じる熱と現在地

――まず、アメリカで開催されているFIFAワールドカップについて伺います。ヒューストンも開催都市の一つですが、現地で熱気は感じていますか?

:ものすごく感じています。開催国の盛り上がりもありますし、先日は車で4時間かけて、日本対オランダの試合を現地で見てきました。ダウンタウンには所属チームであるヒューストン・ダイナモの本拠地があり、大きなワールドカップのサッカーボールやテレビが設置されています。ファンが集まって試合を見られる場所もあり、街全体がワールドカップ一色です。

――アメリカでプレーしながらワールドカップを見る感覚は、これまでとは違いますか?

:今まではテレビ越しでしか見たことがなく、こんなに近くで開催されることもありませんでした。実際にその空気を感じられるのは、また違う経験だなと思います。

――秦選手は、Jクラブや日本の大学ではなく、フェニックス大学、シアトル大学を経て、ヒューストン・ダイナモ2とのMLS NEXT Pro契約にたどり着きました。前例の少ない道を切り拓いてきた実感はありますか?

:自分ではそういう実感はまったくないです。確かに前例は少ないかもしれないですけど、緊張感よりも楽しめている感覚のほうが強いです。

――ディフェンダーとして、ご自身の強みはどこにありますか?

:大きく分けると二つあります。一つは、両足を遜色なく使えるところで、もう一つはユーティリティ性です。サイドバックがメインですが、センターバックもウイングバックもできますし、練習ではボランチやサイドなど、攻撃的なポジションをやることもあります。コーチからも「エイジはいろいろな武器があっていい」と言われています。

――アメリカでは長身選手も多いと思います。競り合いへの対応は、大学時代に学んだ部分が大きいのでしょうか?

:そうですね。僕は176センチくらいですが、周りは180センチ台が当たり前で、190センチ以上の選手もいます。アメリカの大学サッカーは縦に速く、空中戦も多かったです。落下地点を予測して相手より早く入り、跳ね返す力は大学でかなり身についたと思います。

「チームで一番下手だった」マリノス時代

――横浜F・マリノスジュニアユース追浜時代は、どんな選手でしたか?

:一言で言うと、チームで一番下手だったと思います。小学校までは街クラブで、遊びの延長のような感覚で楽しんでいました。でも、Jリーグの下部組織に入ると、日本のトップレベルの選手が集まっていて、周りの技術や判断能力がすごく高かったんです。

――当時、自分を突き動かしていたものは何だったのでしょうか?

:プロになるという最終的な目標はありました。自分が下手なのは分かっていたので、その中でどう生き抜くかを考えていました。中学時代は身体能力が高いほうだったので、そこを生かしながら、技術も少しずつ追いついていった感じです。レベルの高い環境だと必死に順応しようとするので、環境はすごく大事だと感じました。

――当時から海外志向はあったのでしょうか?

:マリノスジュニアユースに入った時はまったくなかったです。ただ、中学2年生の時にドイツ遠征があり、バイエルン・ミュンヘンのアカデミーと試合をしました。レベルの差や街の雰囲気が刺激的で、「日本だけじゃないんだな」「海外に行ってみたいな」という気持ちが生まれました。

――前橋育英高校への進学を選んだ経緯を教えてください。

:中学から高校に上がるタイミングで、目指していたマリノスユースへの昇格は叶いませんでした。すごく悔しかったですが、前橋育英の方から声をかけていただきました。高校サッカーへの憧れもあり、日本一を目指す集団で自分を試してみたい気持ちがありました。

前橋育英で見つけた自分だけの武器

――前橋育英では、いわゆる絶対的な主力ではなかった時期もありました。当時はどんな思いで過ごしていましたか?

:一学年40人から50人くらい、全国から選手が集まっていました。みんなうまくて、「ここで埋もれてしまうんじゃないか」という不安もありましたが、その経験が大切でした。自分の特長を見つけないといけないと思うようになり、ユーティリティ性が武器になっていきました。

――複数ポジションをこなす強みは、前橋育英で育ったものなのですね。

:はい。高校に入った時は右サイドバックでしたが、コーチから「センターバックをやってみないか」と言われて挑戦しました。そこからいろいろなポジションを経験し、それが今の強みになっています。自分にしかない武器を作り、磨くことの大切さを前橋育英で学べたと思います。

――両足を蹴れるようになったのも、高校時代の努力が大きかったのでしょうか?

:そうですね。左サイドバックをやる際には自然と左足を使わないといけないので、たくさん練習して、両足を蹴れるようになっていきました。

――周囲がJクラブや大学へと進路を決めていく中で、悔しさもありましたか?

:3年間、常にその悔しさと向き合いました。ライバルがプロに行くのも、スタメンで出ているのをベンチから見るのもつらかったです。でも、そこで腐っていく選手もいる中で、自分だけはやってやるぞ、という気持ちで続けていました。

7分間の選手権がくれた自信

――その中で、全国高校サッカー選手権大会の舞台に立てたことは大きかったですか?

:選手権は多くの人が注目する舞台です。自分はずっと中心選手ではありませんでしたが、最後の選手権で、2回戦の三重高校戦で点差が開いたなか、最後の7分間だけピッチに立つことができました。たった7分でも、今までやってきたことが報われたように感じました。「最後まで諦めずに続ければチャンスは来るんだ」という自信にもつながりました。

――その後、フェニックス大学へ進むことになります。どのような経緯だったのですか?

:最初はアメリカの大学について何も知らず、日本の大学を探していました。ただ、高校時代にコンスタントに試合に出ていなかった自分にはオファーがありませんでした。そんな時、4つ上の兄がフェニックス大学でプレーしていて、10番でキャプテンを務め、地域リーグで優勝するなど輝いていました。負けたくない存在でもあり、そこでアメリカという選択肢を選びました。

――実際にアメリカへ渡って、最初に苦労したことは何でしたか?

:英語です。当時はまったく分かりませんでした。アメリカに行く時、ハワイでの乗り継ぎで「cash(現金)」という単語が分からず、係の方に「ゲンキン(現金)!」と日本語で教えてもらったほどです(笑)。英語のクラスも下から2番目からのスタートでした。

――そこからどのように語学の壁を乗り越えていったのですか?

:最初はダメでも、自分を信じて努力すれば何とかなると思っていました。そのように考えることができたのは前橋育英での経験があったからかもしれません。質も大切ですが、まずは量をこなすのが自分のスタンスです。

――アメリカでは、どういう選手として評価された感覚がありますか?

:アメリカの人たちが思う日本人選手は、細かな技術があり、スキルが高いイメージだと思います。自分も日本で培ってきた技術は生かせたと思いますし、ユーティリティ性や対人も評価してもらえたと思います。高校までは右サイドバックでしたが、大学では4年間ずっと左サイドバックをやって上達しました。プロ契約を結ぶ時に「両サイドできます」と言えるようになったのは大きかったです。

シアトル大学で見えたプロへの距離

――フェニックス大学時代は、全米短期大学体育協会(NJCAA)2部のファーストチーム・オールアメリカンにも選ばれました。自信になった出来事でしたか?

:ファーストチーム・オールアメリカンに選ばれたことはすごく自信につながりました。みんながもらえる賞ではないので、そこでプロを本気で目指したいと思えるきっかけになりました。

――そこから全米大学体育協会(NCAA)1部のシアトル大学へ進んだことは、どんなステップでしたか?

:短大とは環境がまったく違いましたし、大きな分岐点だったと思います。支給品をもらえたり、飛行機で移動したり、食事が用意されたり、プロでしか体験できないようなことを感じられました。

――アメリカに来て、サッカー人生の選択肢が広がった感覚はありましたか?

:最初は英語が話せるようになりたくてアメリカに来ました。ただ、実際に来て感じたのは、世界中から選手が集まってくることです。ヨーロッパやアフリカの友達ができれば、そこから新しい道が見えるかもしれない。多民族国家のアメリカでサッカーをすることは、世界中に友達やコネクションを作る上で最高の場所だと思います。

――シアトル大学への編入は、どのような経緯だったのでしょうか?

:フェニックス大時代の監督の娘さんが、シアトル大学の女子サッカー部に所属していました。そのつながりで監督が自分を紹介してくれて、シアトル大学の監督がハイライト映像を気に入ってくれました。それで「ぜひ来てほしい」とオファーをいただき、決断しました。

――シアトル大学では、すぐに順応できた感覚はありましたか?

:すぐではなかったです。最初の1カ月くらいは、強度やチームメートの体の大きさに圧倒され、まったく通用しない感覚でした。190センチを超える選手がずらりといて、日本では感じられない身体能力やアジリティを持った選手たちもいました。

――実際に、その身体能力の差をどのように埋めていったのでしょうか?

:身体能力にはある程度自信がありましたが、その頃から「身体能力では勝てない」と思うようになりました。だからこそ頭を使って、相手の一歩先に判断して動くことや、試合展開を読むことを重視しました。レベルの違いを感じた上で、どう補うかを考え続けてきた経験は今に生きています。

――MLSが視野に入ってきたのは、どのタイミングでしたか?

:大学3年時にNCAAのナショナルトーナメントに出場した時です。チームメートや相手チームの選手たちがMLSのチームにドラフトされていく中で、自分も120分間プレーできたので、「自分もいけるんじゃないか」という自信につながりました。6000人くらいの観客の前で初めてプレーできたことも、もっと大きな舞台でプレーしたいという気持ちにさせてくれました。

※連載後編は7月2日(木)公開予定

<了>

[PROFILE]
秦英志(はた・えいじ)
2003年7月19日生まれ、神奈川県出身。ヒューストン・ダイナモ2所属。ポジションはDF。横浜F・マリノスジュニアユース追浜、前橋育英高校を経て、アメリカの短期大学にあたるフェニックス大学へ進学。同校では全米短期大学体育協会(NJCAA)2部のファーストチーム・オールアメリカンに選出されるなど評価を高め、全米大学体育協会(NCAA)1部のシアトル大学へ編入した。2026年3月にヒューストン・ダイナモ2とMLS NEXT Pro契約を結び、プロキャリアをスタートさせた。両足のキックと複数ポジションをこなすユーティリティ性を武器に、アメリカで新たな道を切り拓いている。

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