広島で26年、サッカーライターが明かす舞台裏。久保竜彦には「インタビュー中に目の前で寝られたことも」
2020年5月に立ち上がったオンラインサロン『蹴球ゴールデン街』では、「日本のサッカーやスポーツビジネスを盛り上げる」という目的のもと、その活動の一環として雑誌作成プロジェクトがスタートした。雑誌のコンセプトは「サッカー界で働く人たち」。サロンメンバーの多くはライター未経験者だが、自らがインタビュアーとなって、サッカー界、スポーツ界を裏側で支える人々のストーリーを発信している。
今回、多様な側面からスポーツの魅力や価値を発信するメディア『REAL SPORTS』とのコラボレーション企画として、雑誌化に先駆けてインタビュー記事を公開する。
第12弾は、サッカーライターとして広島を拠点に活動している中野和也さんに、ご自身のキャリアやライターの仕事について語ってもらった。
(インタビュー・構成=難波拓未、写真提供 =中野和也)
“夜の仕事”も…すべての経験がスポーツライターの仕事に生きている
――長崎出身の中野さんが、なぜ現在活動されている広島に来たのかきっかけを教えてください。
中野:それは、広島大学に進学したからという、極めて単純な理由です。
僕が大学を受験した年は、共通第一次学力試験(現 大学入学共通テスト)が導入されて2年目。当初、僕は九州大学に行きたかったんですが、自分の学力を冷静に判断して「無理」だと諦めていました。ただ、共通一次が終わった後に自己採点した点数を見ると「意外といけるのでは」と勘違いしたんですね。奇跡のような点数がとれたので。でも、当時の進路指導の先生が「中野、勘違いするなよ」と諭してくれたんです。感謝していますよ、あの先生には。もし九州大を受けていたら、間違いなく二次試験で不合格になっていたでしょうから。当時、九州大は二次試験の比率が重かったので。
では、どうするか。共通一次の点数を考えて候補をあげていきました。田舎者なんで、東京と大阪の大学は選択肢になかったですね。都会は怖かったので。ただ、どうしても外せない条件として「プロ野球を見られるところに行きたい」があったんです。大の野球好きでしたからね、当時は。そこで浮かんだのが、カープのある広島にある大学でした。わりと子どもっぽい理由で広島に来たんですよ。
――大学生の時からライターを目指していたのですか?
中野:新聞記者になりたいなっていう漠然としたものはありました。だけど、大学では授業にも出ずに部活ばかりで(苦笑)。留年もしましたし、マスコミに入るのは難しいだろうなと思っていたんですね。大学4年生の時から生活と学費稼ぎのために、居酒屋でアルバイトをしながら就職先を探していたんですが、その居酒屋での仕事が楽しくて。自分でお店を持ちたいと思うほど、夜の世界にどっぷりはまり込んでいました。
――どのような日々を送っていたのでしょうか?
中野:13時くらいから仕込みのためにお店に行って、焼き鳥を焼いて夜中の3時まで働く。そこから掃除して店を閉め、4時くらいから飲みに出たんです。オカマバーに連れていかれたり、朝の5時くらいに居酒屋で酒を飲んで酔っぱらったり。ただ、そういう生活が1年以上続いたある日、早朝の広島の繁華街をフラフラになって歩いていると、急ぎ足で出勤するサラリーマンの人たちとすれ違った。その時、おぼろげに「自分はこれでいいのかな」と考えたんです。
――そこからどのような経緯で現在のお仕事をするようになったのですか?
中野:とにかく夜の世界から抜け出さないといけないって思って、就職情報誌を読みました。できれば、昔からあこがれていた出版の仕事がいい。そういう仕事に関われるのではと思って、リクルートに入社したんです。といっても、アルバイトですけどね。
営業職で採用されましたが、仕事に意義を感じられず、さぼってばかり。朝から喫茶店と本屋さんに入り浸っていて、企業訪問などほとんどしなかった。それは、成績が上がらなくて当然ですよね(苦笑)。「あー、クビなんだろうな」って思っていたら、当時の支社長にこう言われました。「おまえ、広告制作の部署にいけ」と。解雇ではなく、異動でした。どういう理由かはわかりませんが、チャンスをくれたんです。最初は進学情報誌の制作進行がメインでした。
ただ、そこでもやはり仕事ができなくて、イライラした先輩からコンパスを投げられたこともありました。「あんなゴミをどうして私たちが引き受けないといけないの」と課長にくってかかった先輩も。ゴミとは、僕のことなんですけどね。
でも、時間がたつにつれて仕事を覚え、なんとか解雇されずにすみました。異動して2年後、就職情報誌の編集全般を担当。その後、新しく広島にできたリクルートの子会社に転籍して、求人広告制作を頑張りました。でも病気をきっかけにその会社を1993年末にやめて、フリーのコピーライターとして活動を始めたんです。そして、スポーツやサッカーの記事に携わるようになったのは1995年からですね。
――スポーツのお仕事をする前にさまざまな経験をされたのですね。
中野:居酒屋でのアルバイトもリクルートでの仕事も、貴重な経験でした。もし、スポーツのことや報道のことしか知らない人生だったら、今とは考え方も、表現も、違っていた気がします。スポーツや原稿書き以外のことを経験したからこそ、今のような発想や視点を持てたと思いますね。
「まるで違うスポーツを見ているかのようだった」一気に引き込まれたJリーグの幕開け
――サンフレッチェ広島を取材するようになったきっかけを教えてください。
中野:『広島アスリートマガジン』 という雑誌の読者投稿に応募したことがきっかけです。1995年5月、「キリンカップサッカー95」という国際大会が広島で行われました。大雨にうたれてずぶ濡れの状況で日本対スコットランドの試合を広島ビッグアーチ(現エディオンスタジアム広島)で観戦し、その観戦記を投稿したんです。読者投稿にしては長すぎる原稿を送ったのですが、それが気に入ってもらえたのか4ページにわたって掲載して頂きました。いやあ、嬉しかったですね。
その雑誌が掲載してしばらくして、「サンフレッチェ広島の取材をやってみませんか?」という問い合わせを広島アスリートマガジンの編集長からいただいたんです。スポーツライターは自分にとってあこがれの仕事。「ぜひ、やらせてください」。そして1995年の秋から、契約ライターとしてサンフレッチェ広島を取材するようになりました。
――サッカーやサンフレッチェ広島に強い関心があったのでしょうか?
中野:僕が大学生の頃はまだ、サッカーは超が付くほどのマイナースポーツでした。当時のトップリーグである日本サッカーリーグ(JSL)に興味を持つ人は、ほとんどいなかったですね。
1978年、高校生の頃に初めてFIFAワールドカップ(アルゼンチン大会)をNHKの中継で見たんです。満員のスタジアムの中でマリオ・ケンペスがゴールを決めた瞬間のアルゼンチンサポーターの熱狂ぶりは本当にすごくて、紙吹雪が舞う風景を今でも鮮明に覚えています。その風景と、ワールドカップ後に見た当時のJSLの現実とのギャップがあまりにすごくて、「日本のサッカーは全然つまらない」と思ってしまったんですよ。
――なぜ日本のサッカーはつまらないと感じたのですか?
中野:だって、全然盛り上がっていなかったんですから(苦笑)。ワールドカップの決勝でケンペスがゴールを決めて数万人のサポーターが「うぉー」と雄叫びを上げている状況を見た後で、数百人しかお客さんのいないJSLの中継を見たんですよ。「何じゃこりゃ」と思いましたよ。サッカーというスポーツ自体が面白いとか面白くないというよりも、イベントとしてつまらないと感じてしまったんです。だから日本のサッカーにはほとんど興味を持てなかった。そもそも、少年時代からプロ野球や大相撲、ボクシングやプロレスへの関心のほうが強かったですしね。
――それから、なぜ日本サッカーやサンフレッチェ広島への関心が高まるようになったのですか?
中野:きっかけはやっぱりJリーグの誕生ですよ。それまでもワールドカップはテレビで見ていましたし、ディエゴ・マラドーナやジーコも知っていた。でも、戦術的なこととか、サッカーの歴史とか、それほど詳しくは知りませんでしたし興味もなかった。でも、Jリーグが開幕することを知って、その開幕に参加するチームが広島に存在して、さらに広島で開催されたアジアカップで日本代表が初優勝して。それはもう、関心を持たざるをえない。
実際、JリーグとJSLとでは、全く違う景色がそこにはあった。プロ野球や大相撲とも違う、新しいものが始まった勢いを感じました。プロになっただけで一気にプレーのレベルが上がるとは思っていなかったですが、サッカーを取り巻く周辺の雰囲気がまるで違ったんです。それはまるで違うスポーツを見ているかのようでした。何よりも、自分の人生をかけて、一生懸命に戦い続ける選手たちの姿に興奮させられたことは間違いありません。
そもそも活字中毒なので、「ミスター・Jリーグ」三浦知良さんがどんな人生を歩んだのか、当時サンフレッチェ広島に在籍していた高木琢也さんや森保一さん、前川和也さんなど選手たちのことを知りたくなって、Jリーグに関する本や雑誌を読みあさりました。こんな選手が頑張っているのか、Jリーグはこんな物語を歩んで創設されたのか、というのを知ってどんどん興味がわきました。それは新しいものが生まれる息吹のようなものだったのでしょう。新しいスポーツムーブメントが今、起きている。その歴史の中で、自分が生きていることを実感したんです。
久保竜彦が「2002年のワールドカップはない」と答えた驚愕の理由
――サンフレッチェ広島を取材するようになって、印象に残ったインタビューを教えてください。
中野:すべてのインタビューが衝撃的といえば衝撃的なのですが、やはり久保竜彦さんですかね。なにせ、インタビュー中に目の前で寝れられましたからね(苦笑)。
――受け答えをしている最中に寝るんですか?
中野:そうそう。例えば「あの試合のあのプレーはどういう意図だったのですか」と聞いても「はー、はー」とだけ。まあ、彼はすごくシャイだし、言葉で表現するのが苦手だから仕方がないか、と思っていると、だんだん「はー、はー」も言わなくなり、いつしか下を向いているんです。「久保君、久保君」と呼びかけると、はっと目覚めて「なんでしたっけ」と。まあ実は、取材中に寝られたことは1度ではないんですけどね(苦笑)。
――(苦笑)。
中野:今、あの頃の話を彼にすると、「本当に申し訳なかった」って言ってくれるんですけどね。
そうそう、こんなこともありました。あれはたしか1995年の秋、彼に初めてインタビューした時でした。当時、2002年のワールドカップが日本で開催されるかどうかという話題がサッカー界を席巻していて、久保選手にもそれについて質問したんです。すると、彼は「2002年のワールドカップはない」と断言したんですよ。「えっ、どういうこと? 日本ではやらないってこと?」と聞き返すと、「だって、その頃には人類は滅亡しているから」って、真剣な顔で言うんですよね。
1973年に発表され、大ベストセラーになった「ノストラダムスの大予言」という本の中に、「1999年に人類が滅亡する」という一節があったんです。それを彼は本気で信じていて、「2002年には僕もいないし、中野さんもいない」と。「こんなに純粋な子が、まだ日本にいたんだ」とある種の感動を覚えましたね(苦笑)。
――監督で印象に残っているインタビューはありますか?
中野:全ての監督が印象に残っていますが、やはり森保一(現日本代表監督)さんですね。特に2014年のACL(チャンピオンズリーグ)でセントラルコースト(オーストラリア)とのアウェー戦、1-2で負けた後のことはインパクトがありました。
森保さんの記者会見が終わった後、僕はミックスゾーンで選手を取材していたんです。その取材が一段落した後、バスに向かって歩いていた監督と偶然、会ったんですよ。あいさつをして帰ろうとしたら、森保監督が急に怒鳴り始めたんです。「選手はロボットじゃないんだ、こんな日程で選手が壊れたらどうするんだ」と。
実はその時、広島はとんでもない過密日程で闘っていたんです。Jリーグ第2節・川崎F戦をホームで戦い、そこからすぐに広島空港に向かって成田空港に飛び、オーストラリアに向かいました。試合が終わってからトータル12時間にも及ぶフライトで移動して、ほとんどリカバリーしかできない状況で中2日の試合に臨むんです。そして試合が終わってすぐに日本に帰って、中3日でJリーグの試合を闘う。帯同していた僕自身が相当疲弊したわけだから、選手はどれほどの疲労に襲われたことか。
「負けたことは自分の責任。でも、あえて言いたい。選手はね、人間なんですよ。わかってもらえますかっ。こんな日程では選手は壊されてしまう。佐藤寿人や森崎和幸、ミキッチら(ベテラン選手)を連れてこなくて、本当によかった」という森保監督の叫びを目の前で聞いたあの夜は、忘れられません。空には南十字星が輝いていたこともまた、よく覚えています。
「誰のために書いているのか」スポーツライターが意識すべき大切なこと
――ライターのお仕事についてお聞かせください。中野さんが発行されているサンフレッチェ広島のオフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を読んで、チームや選手への大きな愛情を感じました。文章を書く上でどんなことを大切にしていますか?
中野:誰のために書いているのかということです。大切にしたいのは、1つは読者に何をお届けしたいのか、ということ。もう1つは、取材した人の気持ちをちゃんと読者に伝えたいということです。そういう意味で、取材をした人のためでもあります。読者のため、取材した人のため。そこを考えて、表現できて初めて、この仕事の意味が生まれると思います。
――どんな想いで原稿を書いているのでしょうか?
中野:チームや選手の現在の想いをきちんと伝えてきたいと思っています。メディアは媒介という意味ですから、文字通り媒介にならないといけない。ただ、媒介になる上では、味付けが必要です。
――味付けとは?
中野:肉や魚の素材を楽しむためには、塩や醤油などの調味料が適量、必要でしょう。記事も同じこと。話し言葉をそのまま書いたのでは、読む人には伝わらない。しっかりと読み応えのある記事にするためには、適度な味付けが必要なんです。言葉を選ばずに言えば、スポーツライティングは文学であるべき。フィクションという意味ではなく、取材した時の想い、選手たちのエピソードの本質を読者に伝えるために、読ませる工夫が重要だということです。
――ライターとして尊敬している人はいますか?
中野:たくさんいますが、例えばかつて中国新聞の運動部で健筆を振るっておられた永山貞義さんです。
永山さんは「球炎」というカープのコラムを担当されていたのですが、単純に野球のことをただ書くだけではなかった。例えば戦国武将のエピソード、囲碁や将棋のこと、あるいは社会事象など、さまざまな角度から原稿に入る。それでいて、野球の魅力やカープのことがしっかりと伝わるんです。
おそらく永山さんは(競技に)詳しい人にだけに伝わるのではなく、そうじゃない人にも魅力を伝えたいという想いがあるから、間口を広げて、表現の幅を変えておられたんだと思います。
永山さんの書かれるコラムは一篇の誌のようであり、小説を読んだ時のような読後感があり、それでいて野球やカープのことをもっと知りたい、応援したいと感じさせた。なによりもスポーツは人間がやっているから魅力なんだという本質を、感じさせてくれた。そういう意味も含め、まさに文学でした。
――最後にライターを目指す人に向けてアドバイスをお願いします。
中野:アドバイスなんておこがましいのですが、誰のために書いているかをまず自覚することですね。読者の存在を絶対に忘れてはいけません。読んでくれる人に何を伝えたいのか、そこをしっかりと考えて、ある種の覚悟ももって、書いていきたいものです。
たとえ、新卒で新聞社や出版社などに入れなくても、記者になるチャンスはどこにでもありますよ。諦めずに自分を信じて、ポジティブ思考で書き続けて、そして誰かに読んでもらうこと。僕もリクルートの時には、一日何十本も原稿を書いた。その「量」が力になったと思います。いろいろな物事を見て、書いて書いて書きまくる。ぜひ、継続していってほしいと思います。
<了>
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PROFILE
中野和也(なかの・かずや)
1962年生まれ、長崎県出身。広島大学を卒業後、株式会社リクルートで進学や就職情報誌の制作・編集に関わる。1994年よりフリーのコピーライターとして活動を始め、1995年よりサンフレッチェ広島の取材を開始。以降、各媒体でサンフレッチェ広島に関するリポート・コラムなどを執筆。2000年、サンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』を創刊。
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