引退を告げた妻の涙に秘められたもの。川崎F・小林悠を支えた家族の絆と最後の戦い
来年1月1日での現役引退を表明している川崎フロンターレのFW小林悠が、10月17日のセレッソ大阪戦で今季初出場を果たした。J1通算144得点を誇り、2017年には得点王とMVPに輝いたストライカーは、度重なるケガと向き合いながら17年間にわたって川崎の前線を支えてきた。その歩みを誰よりも近くで見守ってきたのが、妻の直子さんと3人の息子たちだ。引退を告げられた直子さんが1週間ほど泣き続けたというエピソードは、大きな反響を呼んだ。しかし、その涙には、長年苦楽をともにしてきた家族だからこその切実な思いが込められていた。現役生活の最終章を迎えた小林を突き動かす、家族の絆と最後のゴールへの思いに迫る。
(文=藤江直人、写真=森田直樹/アフロスポーツ)
39歳で迎えた今季初出場。復帰を後押しした家族の声
膝をはじめとしてボロボロになり、来年元日での現役引退を決めたはずの体に新たな力がみなぎってくる。源泉は何なのか。川崎フロンターレ一筋で17年間プレーし、J1リーグで歴代7位、現役では最多の通算144ゴールを決めている異能の点取り屋、小林悠がうれしそうに明かす。
「ベンチメンバーに入る試合は、これからすべて観にいきたいと妻が言ってくれて。子どもたちもサッカーをはじめいろいろな習い事があるんですけど、それらを休ませてでも一緒に連れていきたいとも。頑張っている自分の姿を見せられるのはうれしいし、家族が観てくれるのが自分の一番の力になる。その意味でも妻や子どもたちには、やはりゴールというものを見せたいですよね」
昨シーズンから悩まされ続けた左ふくらはぎの肉離れも完治。戦列に戻った小林は10月17日のセレッソ大阪戦の86分から敵地のピッチに立ち、待望の今シーズン初出場を果たした。
さらに中3日の同21日に行われたヴィッセル神戸戦でも、82分から途中出場して前節に続いて勝利の瞬間をピッチ上で味わっている。舞台となったホームのUvanceとどろきスタジアム by Fujitsuのスタンドには、約束通りに夫人の直子さんと3人の子どもたちが駆けつけていた。
39歳の誕生日だった9月23日に、自身の象徴でもある背番号11にちなんで午前11時から川崎市麻生区のクラブハウス内で始まった緊急会見。シーズン途中となる来年元日での引退を決めた経緯や理由を含めて、小林が明かした思いの丈のなかで特に印象に残った言葉があった。
「やめてほしくない」。引退を告げられた妻の涙
現役引退の決断を前にして、愛する家族はどのような反応を見せたのか。大きく羽ばたいてほしい、という願いを込めて3人全員に「翔」をつけた息子たちとのやり取りを小林はこう明かした。
「息子たちには『パパはもう少しでサッカーをやめるからね』と数年前から話していました。最初のころは『やだやだ。パパ、まだやれるでしょう』と言われましたけど、そのなかで『いつかは必ずくるんだよ。サッカー選手はみんな若くて動ける選手が多いでしょう』と。さらに『それでもパパはけっこう頑張っているほうなんだよ』と説明してきたなかで理解してくれました」
もっとも、小林の表情は直子さんの反応に言及したのを境にちょっぴり険しくなった。
「それよりも妻のほうが大変で。大変というか、僕としてはやめると告げたときに『お疲れさま。よく頑張ったね』と言ってもらえると勝手にイメージしていたんですけど、泣きながら『やめてほしくない』と。練習へ行く前に告げたときから泣いて、練習から帰ってきてもまだ泣いているのが1週間くらい続いたのかな。自分が想像していたのと違いましたけど、そのなかで『いつかくる日がきたんだよ』と説明して、妻のなかでも少しずつ整理がついてきたと思っています」
こうしたやり取りが小林の思いとはかなり違うニュアンスで、要は直子さんが駄々をこねていると世間へ伝わってしまった。小林も「うまく(メディアに)伝えられませんでした」と反省する。
引退の決断を変えた、中村憲剛の言葉
小林が現役引退の意思を直子さんに告げたのは、秋春制へのシーズン移行に伴って今年前半に特別開催されたJ1百年構想リーグが最終盤に差しかかっていた今年5月下旬だった。
神奈川・麻布大学付属淵野辺高校から拓殖大学をへて、2010年に川崎へ加入した小林は、ある時期から人知れず引き際の美学を抱いてきた。そこにはストライカーの矜持が凝縮されていた。
「プロになってフォワードとしてある程度活躍するようになってから、シーズンを通して1点も取れなかったら、フォワードとしてやめるべきだとずっと思っていました」
前出した左ふくらはぎのケガもあって、小林は百年構想リーグでともに途中出場で2試合、プレータイムの合計は18分、無得点にとどまっていた。もう潮時かなと小林は直子さんに告げた。
父の背中を追うように息子たちがサッカーを始め、練習や試合などの送迎を直子さんが担っていた近年は、週末に家族そろって川崎の試合を観戦する回数が減っていた。小林もこう振り返る。
「もちろん観に来る試合もありましたけど、自分が試合に出られるかどうかがわからなくなっていたし、何よりも自分がベンチメンバーに入れなかった試合も増えていたので」
そのなかで告げられた現役引退の意思。直子さんを号泣させたのは後悔の二文字だった。
「僕がケガをしたまま引退すれば、ピッチに立つ姿を子どもたちにもう見せられない。もっとスタジアムに連れていって、僕の姿を見せてあげればよかったという後悔が妻のなかにあったと思う」
直子さんの胸中をこう代弁した小林の引退は、川崎の黄金時代をともに支えてきた盟友で、今シーズンから川崎のヘッドコーチを務めている中村憲剛さんのある言葉で先延ばしになった。
「百年構想リーグをもってやめるのは、ちょっと違うんじゃないか」
来たる新シーズンで勇姿を見せて、ゴールを決めてこそ、川崎にかかわるすべての人々へ別れを告げられる。一方でボロボロになった体と向き合ったときに、来年5月末までプレーする気力が湧いてこない。再び憲剛さんの助言を受ける形で、小林はシーズン途中の来年元日での引退を決めた。
ようやくケガも癒えて、復帰も果たして迎えた神戸戦。平日のナイトゲームで、翌日には小学校もある状況で直子さん、そして3人の息子たちの熱い視線を浴びてピッチに立てた。
「いまは僕の試合を最優先させていて、『息子たちにパパの勇姿を見せよう』という思いで妻も頑張ってくれている。その妻にゴールを見せたい、という思いはより強くなっていますよね」
繰り返すケガと、苦難をともに乗り越えた夫婦
大学時代から約4年間の交際を実らせた小林と直子さんは、小林のプロ3シーズン目の始動を直前に控えた2012年1月11日にゴールインした。日にちは小林の背番号にちなんでいた。
川崎加入前年の2009年秋に右膝前十字靱帯を断裂するなど、責任感が強く、体に負荷がかかる場面で余計に頑張るがゆえにケガを繰り返してきた小林は「ガラスのエース」とも呼ばれた。
異能と形容される得点感覚が歴代監督から高く評価され、憧れの日本代表に招集されてもケガで離脱や辞退を経験してきた小林は、自身のブログに無念の胸中を綴った時期もある。
「誰かが言っていました。『神様は乗り越えられる人にしか試練を与えないんだよ』と。神様に言いたい。何回目だよ!そんな俺強くないわ!笑」
そしてつらく、苦しい時期を二人三脚でともに歩んでくれたのが直子さんだった。
「ケアを含めて体にものすごく気を使ってきたはずなのにまたケガをして、申し訳ない気持ちになって家へ帰ったときに『何でいつも僕がケガをするんだろう』と妻の前で話すと、妻も『何で悠くんなんだろうね』という感じで一緒に泣いてくれて乗り越えようとしてくれました」
直子さんの話をするだけで涙腺が緩むと苦笑する小林は、結婚前の時点で管理栄養士の資格を取得し、ケガをしにくい体を目指して食事面と栄養面で支えてくれた愛妻の存在をこう語っている。
「子どもの世話も大変なのに、シーズンを通して料理もしっかり作って僕の健康を管理してくれる。他の選手がどうなのかはわかりませんけど、僕の妻は一緒に戦ってきてくれました」
失われかけた闘志。再び芽生えたゴールへの渇望
夫婦の共闘が最も眩い輝きを生み出したのが、2017シーズンのJ1最終節だった。大宮アルディージャに大勝した川崎は、キックオフ前の時点で首位に立ちながらもジュビロ磐田と引き分けた鹿島アントラーズに勝ち点で並び、得失点差で上回って悲願の初タイトルを獲得した。
ホームで歓喜の涙を流した大一番で、小林はキャリアで初めてハットトリックを達成。トップに立っていた杉本健勇を逆転して得点王も獲得した。さらに自身初のシーズン全34試合に出場。ケガと無縁のシーズンを目指してきた小林は、個人的な目標を成就させたと声を弾ませている。
「シーズンのリーグ戦全試合出場を、個人としては一番の目標にしていたのでめちゃくちゃうれしいですね。全試合に出れば必然的にゴールも多く決められるという自信もあったので」
さらにシーズン後に開催された年間表彰式のJリーグアウォーズでは、MVPにあたるJリーグ最優秀選手賞を受賞。スピーチに立った小林は、万感の思いを込めて直子さんへ感謝を伝えている。
「個人的な件で申し訳ないんですけど、一番感謝を伝えたい人がいるので言わせてください」
夫婦で描いてきた軌跡もまもなく一区切りを迎える。加齢もあって筋肉系のケガが続き、出場機会やプレータイムも減っていたなかで、ゴールに対して抱いていたギラギラした思いがいつしか消えていたと明かした小林は、引退発表を機に自分のなかで何かが変わりつつあると笑顔を浮かべる。
「昔のギラギラしていたものがいまもないのかと言われると、残された時間でいまの自分に何が見せられるのかを考えたときに、ゴールするイメージが自分のなかで浮かんでくるんです」
自分を英雄視してくれる息子たち、そして最愛の直子さんの前でカッコよくありたい、という思いが小林のハートに再び炎を灯す。リーグ戦やヤマザキビスケット・ルヴァンカップに加えて、勝ち進めば来年元日に決勝が待つ天皇杯へ。小林の最後の戦いがいよいよ最終章へと突入する。
<了>
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